1月5日(火)小寒
賑やかにしていた娘家族は早朝高速バスで東京へ帰っていった。息子達家族は今晩若松へ帰ってくる。妻は会合に出かけた。一人ぼんやりと濡れ雪を眺めながら過した。どちらが先かわからないがいつかこんな日がくるのかなとーーーーーー。
10日(木) 仙洞御所
仙洞御所といっても資料もあまりないので、場所がわからない人も多いはずです。。
国民公園の京都御苑の中に、「京都御所」「大宮御所」「仙洞御所」「京都迎賓館」がある。
まず、京都御苑案内図をみてください。
仙洞御所とは、皇位を退かれた天皇(上皇、院などといわれる)の御所である。後水尾上皇の御所として江戸時代の初期の寛永7(1630)年に完成した。それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられた。古くは内裏のように一定の場所にあったわけでなく、また必ず置かれたわけでもないが、後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東側に定まった。後水尾上皇が御存命の間に三度焼失し、その都度再建されてきたが、以後、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の五代の上皇の仙洞御所として使用された。嘉永7(1854)年の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に、ちょうどその時上皇も女院もおられなかったこともあり造営されないままとなった。
そのため、現在の仙洞御所には、醒花亭(せいかてい)、又新亭(ゆうしんてい)の二つの茶室以外に御殿などの建物は全くなく、東側いっぱいに南北展開する雄大な庭園が往時の面影を残しているだけである。庭園は、作事奉行であった小堀遠州が寛永7(1630)年、御所の完成に引き続いて作庭したものである。面積は約9万1千㎡。隣接する大宮御所と掘割で結ばれて一体となった回遊式大庭園である。
築地塀は安政2(1855)年、京都御所と共に建造された。
大宮御所の面積は約1万6千㎡。この大宮御所は、現在は、天皇皇后両陛下や外国元首等が入洛された際御宿舎として用いられている。
賑やかにしていた娘家族は早朝高速バスで東京へ帰っていった。息子達家族は今晩若松へ帰ってくる。妻は会合に出かけた。一人ぼんやりと濡れ雪を眺めながら過した。どちらが先かわからないがいつかこんな日がくるのかなとーーーーーー。
10日(木) 仙洞御所
仙洞御所といっても資料もあまりないので、場所がわからない人も多いはずです。。
国民公園の京都御苑の中に、「京都御所」「大宮御所」「仙洞御所」「京都迎賓館」がある。
まず、京都御苑案内図をみてください。
仙洞御所とは、皇位を退かれた天皇(上皇、院などといわれる)の御所である。後水尾上皇の御所として江戸時代の初期の寛永7(1630)年に完成した。それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられた。古くは内裏のように一定の場所にあったわけでなく、また必ず置かれたわけでもないが、後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東側に定まった。後水尾上皇が御存命の間に三度焼失し、その都度再建されてきたが、以後、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の五代の上皇の仙洞御所として使用された。嘉永7(1854)年の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に、ちょうどその時上皇も女院もおられなかったこともあり造営されないままとなった。
そのため、現在の仙洞御所には、醒花亭(せいかてい)、又新亭(ゆうしんてい)の二つの茶室以外に御殿などの建物は全くなく、東側いっぱいに南北展開する雄大な庭園が往時の面影を残しているだけである。庭園は、作事奉行であった小堀遠州が寛永7(1630)年、御所の完成に引き続いて作庭したものである。面積は約9万1千㎡。隣接する大宮御所と掘割で結ばれて一体となった回遊式大庭園である。
築地塀は安政2(1855)年、京都御所と共に建造された。
大宮御所の面積は約1万6千㎡。この大宮御所は、現在は、天皇皇后両陛下や外国元首等が入洛された際御宿舎として用いられている。