文系的素質しか持たない私にとって、数学は別に好きでも得意でもなかったが、おもしろいと思う瞬間はけっこうあって、
←数学なんて何の役に立つの??って言われたことない?
私のお気に入りは、関数とかベクトルとか。たぶん、計算でごりごりやっていった結果と、グラフや図形でざっくり描いてみた結果が合うと気持ちいいでしょ。それが好きなの。計算は、答えがきっちり出るけど、うっかりしてプラマイ間違えてたりするとえらいこと違っちゃう。一方、「絵」ではだいたいしかわからないけど大外れしないところが強い。それに、きれいだしね(^-^)
あと、特におもしろいとか好きとかいうことはないけど得意だったのは、「場合分け」の考え方。a が 0 未満のとき… 0 のとき… 0 より大きくて 2 より小さいとき…とか分けていって違う格好のグラフを描いて解いたりするやつね。ありうる状態をわかりやすく分けてきちんと尽くしていけば、ちゃんとわかる。この感触が…面倒だけど達成感がある。
大人になってから数学を直接使った仕事をしなくても、バリバリ文系な仕事してる人でも、数学を観賞した体験、さらに感動した体験があれば生きてくる。それがない人とでは絶対やれる仕事の幅というか深みが違ってくると思うのだ。
だから、受験科目にないからいいやと早々と数学をあきらめちゃうのはなんかすごくもったいない。
でもね。この件については、数学を早々にあきらめちゃう側だけじゃなくて、先生のほうにも相当問題があって。だいたい、数学が得意な人は、そっち系じゃない人に対しての案内人は務まらない。(昔の)大学の数学の先生なんて最悪で、おい日本語書けよ日本語しゃべれよ、相手(の状態と理解度)見てしゃべれよ!! ってなもんだ。まだしも、高校の先生は自分が数学のプロとしてだけではなく、教えるプロでなくてはいけないことを自覚してるだけマシなんだけど、それでもその方法論はあんまりうまくないことが多い。
だから、数学の楽しさはある程度自分で切り開かないとなかなか会えない。今、ぼちぼちやってる公文はM教材に入って、ベクトルやら複素数やら、私が好きなあたりが目白押し。特に複素数なんてめっちゃかっこいいよ。たとえば、
こんな問題があったとしたら、そんな角度知らねぇしという感じなんだけど、複素数のところにきたら、基本問題でするっと解けちゃう。
公文のプリントでは、こういう問題として載っている。
「2 つの複素数 2+i、3+i の正の最小の偏角をα、βとするときα+βを求めよ」
で、ほんの数行で答えが出てきちゃうんだけど、もうひとつの解き方があって、「こんな問題が解けるとしたらきっと答えはわけのわかった角度に違いないから、見た目からいって45度だろう」という男の直感方式(と、我が家で呼ばれている)。直感を働かせるのもひとつ大事なことで、それがまた計算で確認できたらうれしいよね。もっとも、私が公文プリントで楽しめるのは、昔いちおうやったことのある数学を、自分の手を動かしながら思い出しているからであって、初めて出会う場所が公文プリント上というのは、いいことかどうかわからない。
複素数といえば、パソコンを買ってすぐのころ、BASICで書いた簡単なプログラムで、マンデルブロ集合を描かせたのをなつかしく思い出す。これは、複素数平面上でごく簡単な計算式を決めて、何回計算したらオーバーするかを数えてはその回数に応じて決めた色を塗っていく。これだけ。なのに、こんな図形ができちゃう→マンデルブロ集合
BASICは遅くて、一点を描くのに目に見えるほどの遅さだった。コンパイルするとちょっと速いんだけど、それでも一晩かかって計算させていた。夜中に軽いうなりで目がさめると、まだ途中をじーーーっと描いている。回数が多くなる点(つまり、発散しない点。マンデルブロ集合の中に属するということになる)に差し掛かると、底なし沼に足を取られたみたいに遅く、色の薄いところはさくさく描いていく。一寸先は闇で、どうしてこんな簡単な式からこんな複雑な図形が描けちゃうのかほんと不思議でしょうがない。この一部を超拡大して描かせていくと、またきりなく複雑なのだ。
こうした数学のおもしろさを紹介してくれる案内人は、数学畑の人でたまたま文章を書くセンスもあったような人が書く一般書であるとか、友人であるとか…よしぞうは、私の数学人生(?)の中では終盤に登場したのでそんなに役に立っているわけじゃないが、案内人の素質としてはまぁまぁだ。
「博士の愛した数式」という小説は、こじろうの夏休みの宿題だったので私も読んでみた。この本は「案内人」としてこれまで見たこともないほど優れた出来で、なにしろ文系の側から見て書かれているということがすごい。
ここで登場する「博士」は優れた数学者だったんだけれども、事故から重い記憶障害をわずらうようになった人。数学がどうだったかほとんど記憶にないお手伝いさん。その息子、小学生。
博士は、あまりふつうの方法で人とコミュニケーションが取れなくなってしまっているので、自分の詳しい「数」を頼りにして人との会話をつなごうとするが、それがとてもぎこちないけれどあたたかいのである。この人が事故の前に案内人として優れていたかどうかはまったくわからないが、もしかしたら、のっぴきならない状態になって初めて表に出た才能かもしれない。
虚数「i」について博士はこんなことをいっている。「同じ数を二回掛け算して、マイナス1になる数」というのを考えさせ、「そんな数は、ないんじゃないでしょうか」といわれると、
---
「いいや、ここにあるよ」
彼は自分の胸を指差した。
「とても遠慮深い数字だからね、目に付く所には姿を現さないけれど、ちゃんとわれわれの心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」
---
この小説には、上記のような登場人物がいて、案内人は博士ということになっているが、実際のところ、あたりまえだけれども書いているのは作者だ。この人は早稲田大学第一文学部卒ということで、まぁたぶん大学受験のときはそんなにいっしょうけんめい数学やったりしてないだろうけど。
今回の小説を書くにあたっては、数学者に取材もしたし、それ以上に自分でもよくいろんな数と戯れて試してみたに違いない。
このストーリーのツボになっている数で、「28」というのがある。これは、約数を全部足すとまたその数になるという稀有な数(完全数)で、これがまた、博士が愛してやまない江夏選手の背番号と同じだということで、ぴたりとこの小説のいろんなピースが一体となってハマる瞬間なのだ。
「28」は博士が教えてくれたのではなく、お手伝いさんが自分で発見してわくわくしたというふうになっている。これは、実は作者自身のわくわく感でもあったもので、後書きによれば「この作品を完成させる最後の鍵だったような気がします」とのことである。
優れた案内人がいれば数の世界は楽しく、そして案内人の手も借りず独力で見つけた「花」は宝物のように美しい。
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私のお気に入りは、関数とかベクトルとか。たぶん、計算でごりごりやっていった結果と、グラフや図形でざっくり描いてみた結果が合うと気持ちいいでしょ。それが好きなの。計算は、答えがきっちり出るけど、うっかりしてプラマイ間違えてたりするとえらいこと違っちゃう。一方、「絵」ではだいたいしかわからないけど大外れしないところが強い。それに、きれいだしね(^-^)
あと、特におもしろいとか好きとかいうことはないけど得意だったのは、「場合分け」の考え方。a が 0 未満のとき… 0 のとき… 0 より大きくて 2 より小さいとき…とか分けていって違う格好のグラフを描いて解いたりするやつね。ありうる状態をわかりやすく分けてきちんと尽くしていけば、ちゃんとわかる。この感触が…面倒だけど達成感がある。
大人になってから数学を直接使った仕事をしなくても、バリバリ文系な仕事してる人でも、数学を観賞した体験、さらに感動した体験があれば生きてくる。それがない人とでは絶対やれる仕事の幅というか深みが違ってくると思うのだ。
だから、受験科目にないからいいやと早々と数学をあきらめちゃうのはなんかすごくもったいない。
でもね。この件については、数学を早々にあきらめちゃう側だけじゃなくて、先生のほうにも相当問題があって。だいたい、数学が得意な人は、そっち系じゃない人に対しての案内人は務まらない。(昔の)大学の数学の先生なんて最悪で、おい日本語書けよ日本語しゃべれよ、相手(の状態と理解度)見てしゃべれよ!! ってなもんだ。まだしも、高校の先生は自分が数学のプロとしてだけではなく、教えるプロでなくてはいけないことを自覚してるだけマシなんだけど、それでもその方法論はあんまりうまくないことが多い。
だから、数学の楽しさはある程度自分で切り開かないとなかなか会えない。今、ぼちぼちやってる公文はM教材に入って、ベクトルやら複素数やら、私が好きなあたりが目白押し。特に複素数なんてめっちゃかっこいいよ。たとえば、
こんな問題があったとしたら、そんな角度知らねぇしという感じなんだけど、複素数のところにきたら、基本問題でするっと解けちゃう。
公文のプリントでは、こういう問題として載っている。
「2 つの複素数 2+i、3+i の正の最小の偏角をα、βとするときα+βを求めよ」
で、ほんの数行で答えが出てきちゃうんだけど、もうひとつの解き方があって、「こんな問題が解けるとしたらきっと答えはわけのわかった角度に違いないから、見た目からいって45度だろう」という男の直感方式(と、我が家で呼ばれている)。直感を働かせるのもひとつ大事なことで、それがまた計算で確認できたらうれしいよね。もっとも、私が公文プリントで楽しめるのは、昔いちおうやったことのある数学を、自分の手を動かしながら思い出しているからであって、初めて出会う場所が公文プリント上というのは、いいことかどうかわからない。
複素数といえば、パソコンを買ってすぐのころ、BASICで書いた簡単なプログラムで、マンデルブロ集合を描かせたのをなつかしく思い出す。これは、複素数平面上でごく簡単な計算式を決めて、何回計算したらオーバーするかを数えてはその回数に応じて決めた色を塗っていく。これだけ。なのに、こんな図形ができちゃう→マンデルブロ集合
BASICは遅くて、一点を描くのに目に見えるほどの遅さだった。コンパイルするとちょっと速いんだけど、それでも一晩かかって計算させていた。夜中に軽いうなりで目がさめると、まだ途中をじーーーっと描いている。回数が多くなる点(つまり、発散しない点。マンデルブロ集合の中に属するということになる)に差し掛かると、底なし沼に足を取られたみたいに遅く、色の薄いところはさくさく描いていく。一寸先は闇で、どうしてこんな簡単な式からこんな複雑な図形が描けちゃうのかほんと不思議でしょうがない。この一部を超拡大して描かせていくと、またきりなく複雑なのだ。
こうした数学のおもしろさを紹介してくれる案内人は、数学畑の人でたまたま文章を書くセンスもあったような人が書く一般書であるとか、友人であるとか…よしぞうは、私の数学人生(?)の中では終盤に登場したのでそんなに役に立っているわけじゃないが、案内人の素質としてはまぁまぁだ。
「博士の愛した数式」という小説は、こじろうの夏休みの宿題だったので私も読んでみた。この本は「案内人」としてこれまで見たこともないほど優れた出来で、なにしろ文系の側から見て書かれているということがすごい。
ここで登場する「博士」は優れた数学者だったんだけれども、事故から重い記憶障害をわずらうようになった人。数学がどうだったかほとんど記憶にないお手伝いさん。その息子、小学生。
博士は、あまりふつうの方法で人とコミュニケーションが取れなくなってしまっているので、自分の詳しい「数」を頼りにして人との会話をつなごうとするが、それがとてもぎこちないけれどあたたかいのである。この人が事故の前に案内人として優れていたかどうかはまったくわからないが、もしかしたら、のっぴきならない状態になって初めて表に出た才能かもしれない。
虚数「i」について博士はこんなことをいっている。「同じ数を二回掛け算して、マイナス1になる数」というのを考えさせ、「そんな数は、ないんじゃないでしょうか」といわれると、
---
「いいや、ここにあるよ」
彼は自分の胸を指差した。
「とても遠慮深い数字だからね、目に付く所には姿を現さないけれど、ちゃんとわれわれの心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」
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この小説には、上記のような登場人物がいて、案内人は博士ということになっているが、実際のところ、あたりまえだけれども書いているのは作者だ。この人は早稲田大学第一文学部卒ということで、まぁたぶん大学受験のときはそんなにいっしょうけんめい数学やったりしてないだろうけど。
今回の小説を書くにあたっては、数学者に取材もしたし、それ以上に自分でもよくいろんな数と戯れて試してみたに違いない。
このストーリーのツボになっている数で、「28」というのがある。これは、約数を全部足すとまたその数になるという稀有な数(完全数)で、これがまた、博士が愛してやまない江夏選手の背番号と同じだということで、ぴたりとこの小説のいろんなピースが一体となってハマる瞬間なのだ。
「28」は博士が教えてくれたのではなく、お手伝いさんが自分で発見してわくわくしたというふうになっている。これは、実は作者自身のわくわく感でもあったもので、後書きによれば「この作品を完成させる最後の鍵だったような気がします」とのことである。
優れた案内人がいれば数の世界は楽しく、そして案内人の手も借りず独力で見つけた「花」は宝物のように美しい。
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