都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

乱暴な風景

2006-01-14 | 新宿区  

 引き続き目白文化村界隈。山手通りと新目白通りは目白文化村の近辺で十字型に交差している。戦前にひとまとまりの街として分譲された文化村地区は、この二つの道路により、ほぼ3つに分断されてしまっている。

 何故、よりによって、せっかくの郊外住宅地を縦横に横切る形で道路計画がされたのか、私は理由を知らない。しかし、以前にも参照した目白文化村HP内の「文化村の改正道路(山手通り)開通」という記事にも書かれているように、この道路の建設は、目白文化村のみならず周辺一帯の住環境に、結果的に大きな影響を与えた。そして目白文化村というものが、田園調布などとは異なり、人々の記憶から薄れてしまった要因がこの道路建設であることもほぼ間違いない。

 山手通りは1935年頃から戦争を挟んで建設されたという。1922年に第一文化村が販売されてから20年程度の内に街は東西に分断された。更に1960年代後半には新目白通りが開通し、街は南北にも分断された。

 目白文化村が位置する中落合の高台の南側には、妙正寺川が流れる谷があり、西武鉄道はこの谷筋を走っている。山手通りはこの谷を跨ぎ、丘を越える道になっている。幹線道路なので、アップダウンを最小限にするべく、谷間の妙正寺川と西武鉄道は高い位置で跨ぎ、一方で中落合の丘は切り通しを使って越える構造になっている。この結果、目白文化村の近くには深い切り通しができてしまった。新目白通りも切り通しを使って山手通りと交差しているが、更にもう一段削って山手通りをも立体交差でくぐって郊外へ向かっている。交差点付近には高台の住宅地へ上る急な階段がいくつもできた。

 その後、山手通りには地下深くに大江戸線が建設され、更に現在は首都高速新宿線が全て地下で建設されていて、交差点の付近には背の高い換気塔の建設が予定されているとも聞く。また地上でも山手通りの拡幅が行われている。数年ぶりに訪れたら、かなり様子が変わっていてびっくりしてしまった。

 写真のように切り通しのそばの高台上には古い住宅がまだ残っている。しかし拡幅によって道路との間にあった庭などが削られ、樹木が伐採されたため、高台の住宅が道路側から丸見えの状態になってしまった。道路建設はかなり乱暴な風景を生み出してしまうことがあるなと思わずにいられない。別の場所では、道路から離れた奥の方には低層の住宅地が広がるが、道路沿いには中高層のマンションが建ち並び始めている。幹線道路から見る限り、目白文化村の面影は残念ながら殆ど無くなりつつあるというのが正直な感想。

#古い建物 新宿区  #道  #地形
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