都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

早稲田大学大隈講堂 その4

2006-02-16 | 新宿区  

 41さんから大隈講堂に関する情報を教えて頂いたので、画像と併せて追加。

 1月21日の記事で、謎とした門扉のAの字は、WASEDAの6文字の内の一つでした。大隈講堂正面には3つのアーチがあって、それぞれに2枚ずつ計6枚の鋳鉄製の門扉があるのですが、それらに一文字ずつが記され、全体でWASEDAとなっているのだそうです。また門扉の多数の十字状の模様は、大隈家の家紋である「裏梅剣花菱」という紋をモチーフとしているのだそうです。

 大隈講堂については大学発行の早稲田ウィークリー内の記事にもいろいろ載っているので興味のある方は御覧下さい。

大隈講堂玄関より西早稲田キャンパス
Photo 2006.2.15

 「裏梅剣花菱」をアレンジした門扉の模様がシルエットになって、向こう側には西早稲田キャンパスの建物群が建ち並ぶ。この門扉は正面に向かって左側の2枚。WASEDAのWとAが中央に入っている。たまたま入学試験だったため、キャンパス入口にはフェンスが張られていた。

大隈講堂玄関ホール

 大講堂は最後部がカーブを描いているので、玄関ホール側の壁面(写真右側)もカーブしている。

大隈講堂1階客席最後部

 玄関ホールから大講堂内に入ってすぐの場所は、2階客席があるため天井が低い。しかしそこには流線型のカーブを描いたちょっと幻想的な天井がある。

1階舞台袖から大隈講堂客席

 天井や壁が3次元的にカーブしており、全体に卵形をしている大講堂。天井にちりばめられたダウンライトが星のよう。

大隈講堂2階客席最前部

 2階客席も優美なカーブを描いて並んでいる。

大隈講堂時計塔

 大隈重信候が人生125歳説を唱えたのに因んで、大隈講堂時計塔の高さは125尺(約38m)で設計された。2007年には早稲田大学は創立125周年を迎える。

 さて別件情報ですが、大隈講堂のそばには、第二学生会館の跡地に大隈記念タワーが最近竣工しました。大隈講堂が早稲田の最初の125年に因んで125尺の高さであることを受けて、大隈記念タワーは大学の次の125年の発展を期待して、もう125尺高い250尺(75.75m)の高さになっています。この件については、またその内に。

早稲田大学大隈講堂 その1
早稲田大学大隈講堂 その2
早稲田大学大隈講堂 その3


#古い建物 新宿区  #早稲田大学  #大学  #塔 
#映画館・ホール 
#佐藤功一  #佐藤武夫  #近代建築  #昭和戦前期 #重要文化財 
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丸ノ内八重洲ビルヂング2

2006-02-15 | 千代田区 

 昨日のつづき

 正面玄関から扉を開け、玄関ホール内に入ってみる。1階ホールが思いのほか立派だったので、急に写真を撮りたくなってしまった。警備員さんに尋ねたところ、撮影禁止とのことだったのだが、ちょっとだけノーファインダーで撮らせて頂いてしまった。

 建築史家の藤森照信先生が、以前にどこかの本で「門が開いていたら入っても良いと解釈する。何か言われたら、おとなしく退出する」と書いておられた。今回のような場合は・・・微妙だなー。しかもここに公開するのは更にまずいのかな?。

 関係者の方、防犯上等の問題があったら削除いたしますが、せっかくの文化財級の建物ですので、記録として残す意味での公開をお許し下さいませ。

八重洲ビルヂング 玄関ホール
Photo 2006.2.4

 正面玄関を入った先には、エレベーターホールと二つの階段室につながる正方形のホールがある。アールデコ系らしく、幾何学的な模様を施した格子天井が印象的。柱ががっしりしていて安定感がかなりある。

 守衛室のそばのガラスも、派手ではないがステンドグラスになっている。

 階段室もゆったりとしていて、オフィスビルだが上品な感じ。

 エレベーターホール付近。ホールの入口にはクラシックな時計が下がる。

 正面玄関内側。黒く重厚な金属製の扉が歴史を感じさせる。

西側の古河ビルとの間の様子

 建物は西側へ通り抜け可能。八重洲ビルの東側玄関から入ってホールを通り、まっすぐ西側へ抜け、古河ビルの裏口から入り、西側正面から出ると丸の内MY PLAZAになる。

 なお「デジカメ散歩」というサイトには、丸ノ内八重洲ビル・内部として、もう一歩踏み込んで撮られた写真があります。また昨日も記した「秋葉OLの楽しみ探し」内の「哀愁ビルヂング【みつびし篇】」には地下の探索写真が・・・。うーむ、かなりディープです。

 しかしこのような昭和初期の上質な本物のオフィスを壊して、レプリカで明治の三菱一号館を復元するというのが、どうも解せない。超高層オフィスを造りたいのならむしろ、80年近くを経てなお現存する八重洲ビルをうまく残しつつ、周辺を再開発すれば良いのではないだろうか。

 会社として三菱一号館を大切に思う気持ちは理解できる。部材もある程度は保管されているようだ。だが同じように丸ノ内八重洲ビルヂングを大切にはできないのだろうか? 一号館の方は全て煉瓦造で元通り造れるわけでは当然ないだろう。内部の間取りが忠実に復元されるかどうかも怪しい。それなのに文化財級の「本物」である八重洲ビルの方を壊すという。オフィスとして、一号館は現代的にはうまく使うことができないだろうが、八重洲ビルは現役であり、今後も使うことができなくはない。なにか矛盾している気がする。

 そう考えると、一号館の復元は実は単なる話題作りであって、客寄せの道具みたいな気がしてしまう。開発の罪滅ぼしをして、文化に貢献している素振りを見せてはいるが、実際は文化財の保存には関心があまりないのだとしたら、やや行いに品がない気がする。

 「まちもり通信・伊達美徳サイト」でも、「街はお遊びテーマパークか」として、一号館の復元をコピー建築によるテーマパーク化と批判している。

 実はかなり前に、担当者から当時の「丸ノ内マンハッタン計画」の説明を受けたことがある。自らの計画の説明には熱心だったが、性急な開発行為に対する素朴な疑問に対しての、情報の公開、正面からの回答はなかった。そして裏では、人々は何も分かってない、理解して貰えないとこぼしていた。場所が場所だけに日本のためにも東京のためにも有効活用しなければならない、他の地域との競争のためにも、丸ノ内の建物のほとんど全てを超高層に、という態度は一貫していた。

 また20年ほど前に、会社説明会の席上で「丸の内に多くの不動産を所有しているので、会社としての最大の業務目的は、現有資産の最大限の有効活用(つまり容積率のボーナスを獲得して超高層ビルを建設し、床面積を最大にして利益を確保する)であり、それ以外には実質的には関心がない」という正直な考えを聞かされたことがある。民間の不動産経営である以上、その辺は譲れない線であることは承知しているが、他の意見や疑問を顧みず聞く耳を持とうとしない姿勢と、理解を得るための情報公開を拒む姿勢に相当失望した記憶がある。

 同じことをするのであっても、建物の保存ができない理由や、開発が必要な理由をもっと丁寧に説明し、疑問に答えた方が、より多くの人に理解して協力して貰えるのではないだろうか。オフィスビル街であり、居住人口はほとんどいないが、なんといっても日本の中心地東京の駅前であり、民有地といえども公共性は高い。いくつかの検討案を公表し、広く意見を聞き、その上で地区計画を練っていくようなPublic Involvementのような手法が取られるべきではなかったか。行政により義務づけられた形式的な地元説明会を行い、既決定の計画のみを説明し、既に他には選択肢が無いとだけ宣言することで良しとするのは、やはり頑なな姿勢である気がする。

 日本建築家協会から保存要望書が出されたりしたのも、性急な開発に対する疑義だろう。保存に対する検討や熱意が足りないのではないかと周囲は考えている。

 マンハッタン計画発表当時、まるで墓石が建ち並ぶような計画概略図を見て、げっ、と思わず失笑していたが、いまではそれがほとんどそのまま実現しつつある状況。丸ノ内仲通りをブランドストリート化する計画も、粛々と実行されてほぼ実現した。疑問、怒り、哀しみ、その他もろもろの感情を通り越して、ただ呆れるというのが正直なところ。・・・やっちまったんですね。

 でもこんなこと書いていても、建物ができてしまえば見に行くし、それらを使ってしまう。私も「取り込まれてしまっている罪深い人」なのです。ああ。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #昭和戦前期 #オフィス 

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丸ノ内八重洲ビルヂング1

2006-02-14 | 千代田区 

 丸ノ内八重洲ビルヂングに改めて久々に行ってみた。ちょこちょこ読ませて頂いているblog「秋葉OLの楽しみ探し」において、「哀愁ビルヂング【みつびし篇】」として取り上げられたのを見てからどうも気になっていたのだ。拙HP内のTokyo Lost Architectureでも紹介してはいるが、簡単な記述に留まり、外観のワンショットしか撮っていなかったのが気がかりだった。丸の内の一連の再開発によって取り壊される予定だとされる建物で、もう一度見るなら今のうちかと思い、再訪した次第。

八重洲ビルヂング
所在地:千代田区丸の内 2-6
建設年:1928(昭和3)
構造・階数:SRC・8F
Photo 2006.2.4

 八重洲ビルヂングは、北東の角に可愛らしい塔屋が付いている8階建てのオフィスビル。東側と北側が道路に面しているため、全景は東北側から撮ることになるのだが、朝寝坊の私はいつも逆光になってしまう。分かっていながら今回もまた同じ失敗を繰り返してしまった。トホホ。

 建物は暗褐色の石材が配された基壇部と、装飾がほとんどなくモダンなボディ部分、アーチ型の小窓と塔屋が載る上層部、というように3段階に分かれており、アールデコ系の様式を用いたオフィスになっている。

 容積率制へ移行する前に建設された周辺の他のビルと共に、100尺規制を受けているため、軒高が揃っておりオフィス街らしい雰囲気が感じられる。やや殺風景なオフィスビル群の街並みの中で、八重洲ビルの塔屋は彩りを与えるアクセントになっている。

 塔屋には小さなバルコニー状の張出がある。窓を開けてバルコニーに立ったりできるのだろうか? アーチ型窓の上部両側には×印のマーク。頂部には旗の掲揚塔のようなポールが付く。窓からは蛍光灯の明かりが漏れる。塔屋の下の部屋はどのようになっているのだろうか? 気になる~。

東側の正面玄関

 基壇部はどっしりとした大きな石材で造られ重厚。一階には大型のアーチ窓が連なる。

玄関上部

 アーチ型の格子天井と草柄のレリーフ。オフィスのためか装飾はあまり派手ではなく、どちらかといえば地味。

 さて、訪れたのが土曜日だったので、街には買い物や見物の人がそれなりにいたが、ビルのほうはひっそり。だが正面玄関が開いていたので、意を決して恐る恐る扉を開け中へ。

 というところで続きはまたこんど

Tokyo Lost Architecture   #失われた建物 千代田区  #近代建築  #昭和戦前期 #オフィス 
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有楽町・東宝食堂ビル

2006-02-12 | 千代田区 

 三信ビルに行ってから有楽町駅へ向かう途中で、「東宝食堂ビル解体工事のお知らせ」を目にした。

東宝食堂ビル
所在地:千代田区有楽町1-6
構造・階数:RC・6+B1
解体年:2006(平成18)
Photo 2006.2.4

 解体工事は2月からで既にテナントは全て退去しており、夕暮れの中、建物には灯りが点いていなかった。まだ本格的な解体には至っていないが、近々作業が始まるのだろう。残念なことだが、また解体寸前の現場に遭遇してしまった。

Photo 1998.1.5

 8年前の写真と比べてみると、昔は屋上にアサヒビールの大きな看板が載っかっていたり、2Fから下のテナントも異なっていることに気づく。下層階では外にいろいろ付いていたが、5Fにはアーチ型の小さな窓が並んでいて、ちょっとお洒落な外観だった。周囲の建物が大きく背後に立ち上がっていてやや目立たなくなっていたが、それなりに利用されているなと思っていたのだが。

 一方、2軒左隣の怪しい建物はまだ健在。木造建物が残り続ける一方で、RCのビルが建て替えられていく。建物の存続にはいろいろな要因が絡み合っていて、運、不運のようなものがある気がする。


2007.8.12 追記
 「ぼくの近代建築コレクション」に「東宝食堂ビル、タクト/有楽町1丁目」が掲載された。1986年時点の東宝食堂ビルと、隣の木造建物の様子を見ることができる。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 千代田区 #商業系  #オフィス 
#近代建築  ブログ内タグ一覧
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鉄塔に萌える

2006-02-10 | 中野区  

 昨日記した東京電力目白変電所は、山梨県にある鹿留発電所(水力)から都内に送られてきた電力の変電所なんだそうだが、調べてみたら、送電鉄塔見聞録というHPがあった。これによると「東京電燈谷村線」は1913年(大正2年)に建設され、鹿留水力発電所から目白変電所までの95kmを結んでいたが、初代谷村線は昭和30年前後に廃止されたのだそうだ。あれ、では現在はどうやって目白変電所に電力を送っているのだろう? しかし送電の仕組み自体がよく分かっていないので、ネットで調べている私にはこのへんが限界なのでした。

新井薬師前の踏切
Photo 2006.2.3

 ところで西武新宿線の新井薬師前駅の跨線橋から見ると、線路の上空に門型の鉄塔が建っていて、そこに電車の架線とは別に送電線が張られている。鉄塔にとり付けられた看板には、東京電力目白線とある。もしかしてこの目白線が目白変電所に繋がってるのだろうか?(詳細は確認していないので不明です。)

東京電力の門型の送電鉄塔
Photo 2006.2.3

 新井薬師前の駅は急カーブになっている。跨線橋から高田馬場方向を見ると、送電線の鉄塔も線路に沿ってカーブして並んでいる。地上では西武新宿線が人々を都心へ運び、上空では電力需要に応えるべく電気が都心へ向かっているのでした。

 その気になってよく見ると、この鉄塔は電車の架線柱も兼ねていることもあって、日頃思い浮かべる鉄塔とはかなり違う形をしている。トラスを組み上げて造るあたりは基本的には全く同じなのだが、できあがる形はいろんなものができるんだなと改めて認識。

 さて、今回目白変電所や谷村線をネットで調べていたら、上記の送電鉄塔見聞録だけでなく、他にも多くの鉄塔サイトが存在していて、鉄塔好きな方が結構お出でになることが判った。私もいろんな鉄塔が格好良いなぁと思うことがあるが、送電鉄塔だけに焦点を当てて、全国の鉄塔を見て歩いている方がいるなどとは思いもよらなかった。ちなみに送電鉄塔見聞録では、西武新宿線上空の送電鉄塔も、「門型鉄塔専門館8 目白線」としてちゃんと取り上げられています。

 いやはや鉄塔もかなり奥が深いということが分かった。何が面白いかって、単純な鉄のアングル材を組んで、こんなに多くのデザインバリエーションができてしまうところがすごい。そして装飾などが全くなく、機能に徹している潔さ。機能的な要求から来る美しさは、モダンデザインの基本かも知れない。

 また冬場の抜けるような青空を背景にして聳える鉄塔や、夕焼けの中、シルエットになる鉄塔・・・、私も子供の頃、近くの田んぼで遊んでいて、遠くに見えていた送電線の鉄塔が印象的だったことを覚えている。そういえば、講義をしている某大学でも、学生がいろんな鉄塔をレポートしてきたことがあった。その時も、調査のきっかけは子供の頃の原体験とその美しさだった。鉄塔を見に行くというのも、案外面白いツアーかもしれない。

 さてもうひとつ、鹿留発電所のほうを調べてみると、これは山梨県都留市鹿留にあるらしい。河口湖の水を取水口から吸い込み、下流で吐き出し、それを発電所に送る水路が大正7年に造られていて、うそぶき水路という水路の呑口部と吐口部が、共に国の登録有形文化財になっている。どうやら河口湖からの水を利用して発電しているらしい。ルートは違うが現在も東京に送電してるのだろうか? もしそうなら、富士山に降った雨や雪解け水が、電気になって都心へ向かっていることになるのかな。

 発電所、工場、水門・・・いわゆる近代化遺産というものもなかなか魅力的だ。無駄な装飾がほとんどなく、機能美にあふれているところが、単純明快で良い。そしてこれらは産業の時代、近代という時代のたどった軌跡をよく表している。

 今回参考にした、鉄塔・水力発電関連サイト

みそがいのこれは・これは
そこに鉄塔がある
「送電鉄塔Webring」
毎日送電線
送電線
フルタニアン宮殿
yoshihiro's
水力ドットコム
#塔  #鉄道
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東京電力目白変電所

2006-02-09 | 新宿区  

 さかえ通り商店街を抜けた先には田島橋という橋があり、これを渡ると下落合に入る。この田島橋の南詰正面に、東京電力目白変電所という存在感のある近代建築がある。

東京電力目白変電所
所在地:高田馬場3-6
Photo 2006.2.3

 歩いていて遭遇するとかなり気になる建物で、例えば「漂白のブロガー2」でも気になる建物として取り上げられている。

 都市基盤系の施設のため、様式的な装飾は少なく、工場系の無骨なコンクリートの外観が印象的。中央上部に社章が入っているのと、西側に少々のデザインを施した二つの煙突のような構造体があるのが外観の特徴である。

 北側から見ると、日中は逆光になることが多く、黒っぽく沈んだ姿も存在感を際だたせている。日本近代建築総覧には掲載されていない(増補への掲載の有無は不明)ので詳細は分からないが、大正初期の建物だそうだ。

 下落合に詳しいBlogのChinchiko Papalogによると、変電所と田島橋と松本竣介。[気になる下落合] の記事で

「目白変電所が造られたのは、1913年(大正2)に東京電燈(現・東京電力)の鹿留発電所(山梨県)が、営業を開始したのと同時期だ。当時の正式名称は、東京電燈「谷村線目白変電所」だった。当時は田畑がまだ多く残る、東京の郊外だった上戸塚の北辺、神田川沿いにとてもモダンでしゃれたデザインの変電所は、かなり目立つ存在だったろう。」

と記されている。

 またこの建物は松本竣介という昭和前期に活動した画家によって描かれたことがある建物なのだそうだ。そのあたりのことも上記の記事には詳細に記されているし、これに関しては以下のHPにも記されている。

松本竣介の風景 -「立てる像」の背景

 下落合から中井付近には大正期以降、画家や作家など多くの文化人が住み着いたという。そして例えば佐伯祐三は、落合近辺の郊外風景を多く描いている。この建物も、都心・下町とは異なる素材として、郊外風景の中に佇む近代的な姿が題材にされ、描かれたのかもしれない。

 目白の変電所は地味な建物だが、東京の近代化遺産であり、かつ当時の文化を証言するものとして、残っていて欲しい建物である。

Tokyo Lost Architecture

#失われた建物 新宿区  #近代建築  #大正期 
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さかえ通り

2006-02-08 | 新宿区  

 高田馬場駅から西北へ流れていくさかえ通りはちょっと不思議な道だ。歩いていくと川沿いに出て、そこで商店街が急に終わってしまう。なぜ川へと向かう道に、学生相手の飲み屋などからなる商店街ができたのか、いまだに理由が分からない。

高田馬場3丁目 さかえ通り
Photo 2006.2.3

 私は全く飲めないので、学生時代から今まであまり縁が無かったのだが、改めて見てみると、普通の飲食店もあるが全体的には飲み屋が多く、雀荘があり風俗もあるという、典型的な駅前の盛り場である。

左)青果・加藤商店       右)純喫茶プランタン
Photo 2006.2.3

 しかしその中に、昔ながらの八百屋や喫茶店などの古い建物もちらほらあったりするのが面白い。なってったって「純喫茶」だもんな。今度入ってみなくちゃ。

左はESPへ抜ける道、右はさかえ通り
Photo 2006.2.3

 このさかえ通りを、個性的な服装をした若者が何人も歩いていくのに出会った。商店街を通り抜けた先には東京富士大学があるが、楽器などを抱えていたりしてどうも様子が違う。ついていくと、彼等は横丁に曲がっていき、その奥にはESPミュージカルアカデミーというポピュラー音楽の専門学校があったのでした。学校のHPを見てみると、高田馬場の西側エリアにいくつも校舎がある。高田馬場には早稲田予備校もあるが、このESPも一大勢力のようです。

ESPへ至る細い道
Photo 2006.2.3

 古い木造建物が並ぶ路地を、個性的な服装をしてギターを担いだ学生さんが頻繁に行き交うのは、ちょっとミスマッチな感じで面白い風景です。

 さて、この5枚の写真の中には同じ人物が二度写っています。簡単に分かっちゃうかな?

#古い建物 新宿区  #失われた建物 新宿区  #街並み 新宿区 
#商業系 
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3丁目の斜面地と階段

2006-02-07 | 新宿区  

 高田馬場周辺では、早稲田通りの北側に神田川が流れている。通りから神田川へ向かっては全般に北向きの斜面になっている。駅近くのさかえ通りは川に向かって緩やかに下っていくのだが、駅から少し離れると、意外に急な傾斜を持つ場所もあり、崖(擁壁)や急坂、階段、二階から入る住居といった、斜面地に特有な要素が見られる場所になっている。

高田馬場3丁目(クリックで拡大します)
Photo 2006.2.3

 斜面上に住居をかまえるために擁壁が造られ、宅地の北側に小さな崖下通りができている。全体に道路は狭く、宅配便のトラックが、すれ違いのために急坂をバックで上ることもある。

 崖上の住宅やアパートへはアプローチ階段を使って上っていかねばならない。右写真の二つのアパートはそれぞれ独立してアプローチ階段を持っている。右側のアパートへは電柱の右側の階段を上る。左端のアパートへは、左の階段を使う。郵便局員も何度も上ったり下りたりせねばならず大変。地形だから仕方ないけれど、ごくろうさまです。

左:高田馬場3-19 崖下の道へ降りる階段
右:高田馬場3-41・42 公園脇の階段
Photo 2006.2.3(クリックで拡大します)

 最近はバリアフリー化もあって、都内の階段には順次手摺が付けられている。私道でも通り抜け可能であれば設置されるようだ。左の階段の手摺はちょっと古くて、小学生などが滑って遊んだりしているタイプ。右の階段の手摺は、暗くてちょっと見づらいが、新宿区タイプ(私が勝手に呼んでるだけだけど。)。コストダウンを狙っているのか知らないが、手摺の型が全く同じものが区内にいくつもある。ここの踏み面はコンクリートだが、赤茶色または白ののタイル張りというのも新宿区では定番。みんな同じようなパーツを使っているとつまらなくなるので、もっとバリエーションをつけて欲しいと、階段マニアはひそかに思っている。

左:高田馬場3-29 馬頭観音わきの階段
右:高田馬場3-12-20 飛び石路地の階段 Photo 2006.2.3(クリックで拡大します)

 写真(左)は、馬頭観音わきという印象的な場所にある小さな階段。踏み面の奥行きが小さく、かつ蹴上の高さも低く緩傾斜。ついよちよち上り下りしてしまう。

 写真(右)のように、コンクリート板が並べられている未舗装の細い路地にも階段はある。ここら辺はほとんど段差といってもよいレベルで、ごく小さな高低差にできた段々である。

高田馬場3-12-16・19 早稲田通り裏の階段
Photo 2006.2.3

 さてこちらは、段数や踏み面の奥行きは似たようなものだが、蹴上がちょっと高い。しかもばらつきがあって、左端の街灯わきなどは40cm近い。また踏み面が右に傾斜して歩きにくく、クセがあるが、末広がりになる平面型など、特徴があって個性的な階段である。

高田馬場3-11 二階から入る住居
Photo 2006.2.3

 末広がりな階段を下りたところは斜面の途中の道で、写真右側のように、更にもう一段の小さな崖になっている。このためこの道沿いの建物のいくつかは、二階から入れるようになっている。二階から入る家ってちょっと不思議な感じ。玄関を入ってから階段を下りて居間にたどり着くような家に、一度住んでみたい気がする。

 高田馬場3丁目、早稲田通りから神田川の間には大した高低差は無いのかと思っていたが、意外にもこんな斜面地が存在しているのだった。

#階段・坂 新宿区 
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高田馬場の看板建築

2006-02-06 | 新宿区  

 高田馬場から百人町あたりをうろうろ。高田馬場駅から早稲田通りを西へ。駅の東側の方は、山手線の内側で早稲田大学もあるので、中高層建物への建て替えが進んでいるが、駅の西側はシチズンボールのあたりを境に急に人通りが減ってしまう。そのあたりから小滝橋交差点までの間に、いわゆる看板建築が点々と残っている。

モルタル洗い出しの建物
Photo 2006.2.3

 戦前の1929年の地図には、高田馬場の西側では、今のような早稲田通りはまだ記載されていない。似たような道筋はあるので、戦前のどこかの時期に拡幅されて、現在のようになったらしい。沿道の看板建築は、その時に建て替えられたものか、関東大震災後に建てられたものを曳屋で移築したものかもしれない。駅周辺は年々賑やかになったが、駅から遠い所では、建物がそのまま残される結果になった。

看板建築の連続写真(クリックすると大きくなります。)
Photo 2006.2.3

 何枚かの写真をPhotoshopでつなげてみました(画像をクリックすると大きくなります。)。老朽化が激しく、右側の精肉店その他は廃墟同然の状態。真中の三軒の銅板貼り建物の方はきれいな状態だが、開いているのは中央の八百屋さんだけで、左は自動販売機のみ稼働。

井戸のある裏庭
Photo 2006.2.3

 中央の看板建築の裏手には、井戸のある庭がある。また路地の奥には、比較的大きな敷地の住宅が、3軒ほどひっそり残されている。山手線の駅から徒歩数分の場所とは思えない。

銅版貼りの看板建築
Photo 2006.2.3

 100mほど西へ行くとまた看板建築が現れる。右側の建物は、かなりきれいな状態。上部に文字が貼ってあった痕があるが、何と読むのか分からない。中央は襖張り屋さん。左側は一部をブロック造で建て替えたような感じだが、痛んだのかネットが掛けられている。

銅版貼りの看板建築
Photo 2006.2.3

 更にビルを一つ二つ挟んで、今度は4軒つづきの銅版貼りの長屋状看板建築。お店をやっているのは一軒だけのようだが、比較的みなきれいな状態。緑青銅板貼りの看板建築がたくさん建ち並んでいる場所って、実はもうあまり無いのではないかと思う。さて、ここまでは全て道の南側の建物。

マンサード屋根の3Fのある店舗
Photo 2006.2.3

 早稲田通りの北側に南面しているものも何軒かある。この豆腐屋さんは正面はわりと普通だが、横から見ると平入り腰折れ屋根3階。マンサード屋根で屋根裏三階を作っている。

Photo 2006.2.3

 最後のものはモルタル塗り2Fで、上部に自動車教習所の大きな看板が付いたり、1Fは他の店舗に改装されているよくありがちな例。でも中央に「玉泉堂」の文字がしっかり残っている。玉泉堂って何のお店だったのでしょうか?

#古い建物 新宿区  #失われた建物 新宿区  #看板建築  #街並み 新宿区
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COREDO日本橋

2006-02-05 | 中央区  

 日本橋から100mほど南下すると、コレド日本橋がある。

COREDO日本橋
Photo 2005.3.27

 ここは東急百貨店日本橋店(旧白木屋)があった所。1999年1月末に日本橋東急が閉店した後、再開発が進められ、2004年4月にこのコレド日本橋がオープンした。

 建物の建設中から何度か通りかかっていたが、とにかくでかい。階数は20F程度だろうか。丸の内あたりの超高層オフィスビル群に比べたら大したことはない。ただ周囲にこれほどの建物が他に無いこともあって、やたらでかさが目立つ。以前のデパートとつい比較してしまうのもあって、えらく巨大な気がする。

 高さではなくてでかさが気になるのは、外観デザインの影響があるように思う。交差点付近から見ると上部はカーブを描いているが、それが膨満感を感じさせる。どうだっ、というかんじで胸を張っている、もしくはお腹を突き出しているように、私には感じられてしまうのだ(←あくまで私見です。)。サイドの白い三角形をした斜材も、堂々とした安定感や存在感を、これでもかと見せつけている。それから大量の小さなガラスを用いた壁面も、均一性とスケール感を失わせ、一つの巨大な面となって迫ってくる。とにかくど迫力。

 大きな建物に迫力があるのは当然だけど、この建物には実際よりも大きな威圧感や迫力がある。1月27日の記事でも触れたが、巨大な建物のデザインは影響力も大きく難しい。無難に収めるとパッとしないし、攻めのデザインをすると、とんでもないと言われる。コレドは意外に外観が大胆だ。あーあ、すごい建物が建っちゃったなー、と通りかかるたびに思う。

Photo 2006.1.28

 遠くから見てもでかい、というか遠くから見ると余計に大きさが目立つ。形が特徴的だから気になって仕方がない。その辺は設計者の意図でもあるのかも知れないが。

Photo 2005.3.27 (画像をクリックすると大きく御覧になれます。)

 さて内部はというと、B1から4Fまでがショッピングやレストランゾーン。上の方の階には早稲田大学の出張教室みたいなのも入っている。だから早稲田関係者としては、あまり文句を付けちゃいけないのだろうが。

 ショッピングゾーンを貫く吹き抜けも結構格好良いし、エレベーターホールもそれなり。外観の方は巨大さが気になるが、中に入ってしまうと、それは分からなくなる。

Photo 2005.3.27

 4F?にあるレストラン・カフェ。これもちょっと大胆なインテリアだが、内部ならこんなのもありかも。

Photo 2005.3.27

 各階のエスカレーター脇には、休憩用の椅子と机がある。フロアーによって、ちょっと色が違ってたりして、こういうのは良いです。

#新しい建物 中央区  #オフィス 
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