戦争中学徒動員で苦労した仲間の会が昨日久しぶりにあった。僕らは昭和20年1月、中学(旧制)2年の時、東京の六郷にあった軍需工場に動員され、4月の京浜大空襲で工場が焼失するまで、秘密兵器、人間魚雷の部品の製造に当たっていた。たった4か月だが、教室とは違った環境の中で苦労しただけに、想い出も多く、仲間の団結もかたい。
昭和18年の入学時には1クラス60人いたが、戦争の激化とともに疎開などで減り動員時には50名ぐらいではなかったかと思う。それから60余年すぎ、今消息の判っているのは24人。昨日の会にはそのうちの11名が参加した。80歳すぎの集まりとしては上出来だ。それでも当日になって病気になり参加できなくなった者一人、もう一人は時間を間違え遅刻してきた。
集まりに先立って、僕は消息の判る24人に空襲の体験の有無を尋ねたところ半数以上の14人が家を失っていた。僕らの学校は品川区にあり、5月24日の山手大空襲でコンクリート校舎を残して全壊した。学友たちの大半も、この空襲で被害にあっている。幸い僕は落ちてきた焼夷弾の破片を消した程度だったが、学友の中には2回も空襲にあっている。
4月に工場が焼けた後、僕らは約1か月間、工場の焼跡整理に従事したが、5月の山手大空襲の直後、家を離れて千葉県流山の利根運河の江戸川河口の浚渫工事に動員された。空襲で家を失い、運河工事に参加できない者は、炎天下首都圏の国鉄(JR)の架線張りに従事した。二つとも中学2年や3年の少年たちにとっては過酷な仕事であった。しかし、今になればおカネでは買えない体験でもあった。
昭和18年の入学時には1クラス60人いたが、戦争の激化とともに疎開などで減り動員時には50名ぐらいではなかったかと思う。それから60余年すぎ、今消息の判っているのは24人。昨日の会にはそのうちの11名が参加した。80歳すぎの集まりとしては上出来だ。それでも当日になって病気になり参加できなくなった者一人、もう一人は時間を間違え遅刻してきた。
集まりに先立って、僕は消息の判る24人に空襲の体験の有無を尋ねたところ半数以上の14人が家を失っていた。僕らの学校は品川区にあり、5月24日の山手大空襲でコンクリート校舎を残して全壊した。学友たちの大半も、この空襲で被害にあっている。幸い僕は落ちてきた焼夷弾の破片を消した程度だったが、学友の中には2回も空襲にあっている。
4月に工場が焼けた後、僕らは約1か月間、工場の焼跡整理に従事したが、5月の山手大空襲の直後、家を離れて千葉県流山の利根運河の江戸川河口の浚渫工事に動員された。空襲で家を失い、運河工事に参加できない者は、炎天下首都圏の国鉄(JR)の架線張りに従事した。二つとも中学2年や3年の少年たちにとっては過酷な仕事であった。しかし、今になればおカネでは買えない体験でもあった。