在日インドネシア大使館の新しい教育文化部長イクバル氏が着任、その歓迎パーテイに招かれ出席した。30人ほどのパーテイだったが、この10年ほどの間に、この種の日イ関係の会の参加者の顔ぶれが一変した。かっては、先の戦争でインドネシアへ従軍した人たちが主流だったが、先日のパーテイでは僅か二人だけ、あとは全員戦後インドネシアと関係をもった方々だ。
席上、インドネシアの歌の愛好会「ラグラグ」会が中心となってインドネシアの歌を合唱した。歌のほうも参加者同様に変わってきた。45年前ジャカルタに在勤した僕の知っている歌は、戦後のインドネシア独立戦争時の歌「Helo Helo Bandung」だけ。かっては、必ずというほどほど集まりで歌われた「Bungawan Solo」とか「Rasa Sayang 」「Nona Manis」「Bunga Sakura」は歌われなかった。歳月の流れを感じる。
「Rasa Sayang」と「Nona Manis」は戦争中NHKの「少国民の時間」のテーマソングとして流れた歌で、当時インドネシアと関係がなかった僕でもメロデイは知っていた。「Bunnga Sakura」(桜の花)は、戦時中の日本の流行歌「愛国の花」が大好きだったスカルノ(初代大統領)が作詞した歌で、1962年、天皇陛下ご夫妻が皇太子時代、昭和天皇のご名代として訪イしたさい、ボゴール宮殿で1万人の現地の人たちが、この歌を合唱してお二人を歓迎した。
インドネシアの人たちは日本の歌が好きだ。ユドヨノ大統領と同じぐらいの年齢の’66年世代は五輪まゆみの「心の友」を大部分の人が知っている。今の若い世代も驚くほどJポップスに精通している、AKB48のインドネシア版ともいえるJKT48が昨年結成され、人気なのも長年にわたる日イ両国の音楽を通じた友好親善の素地がこの国にあったからであろう。
席上、インドネシアの歌の愛好会「ラグラグ」会が中心となってインドネシアの歌を合唱した。歌のほうも参加者同様に変わってきた。45年前ジャカルタに在勤した僕の知っている歌は、戦後のインドネシア独立戦争時の歌「Helo Helo Bandung」だけ。かっては、必ずというほどほど集まりで歌われた「Bungawan Solo」とか「Rasa Sayang 」「Nona Manis」「Bunga Sakura」は歌われなかった。歳月の流れを感じる。
「Rasa Sayang」と「Nona Manis」は戦争中NHKの「少国民の時間」のテーマソングとして流れた歌で、当時インドネシアと関係がなかった僕でもメロデイは知っていた。「Bunnga Sakura」(桜の花)は、戦時中の日本の流行歌「愛国の花」が大好きだったスカルノ(初代大統領)が作詞した歌で、1962年、天皇陛下ご夫妻が皇太子時代、昭和天皇のご名代として訪イしたさい、ボゴール宮殿で1万人の現地の人たちが、この歌を合唱してお二人を歓迎した。
インドネシアの人たちは日本の歌が好きだ。ユドヨノ大統領と同じぐらいの年齢の’66年世代は五輪まゆみの「心の友」を大部分の人が知っている。今の若い世代も驚くほどJポップスに精通している、AKB48のインドネシア版ともいえるJKT48が昨年結成され、人気なのも長年にわたる日イ両国の音楽を通じた友好親善の素地がこの国にあったからであろう。