この小ブログにも何度か登場願った大正3年生まれ98歳の大先輩から昨日「定期便」が届いた。毎月2回割合で大先輩から大きな封筒をいただく。中には大先輩の近況雑感、新聞の切り抜き、それに南方の孤島で5年間生活した当時の想い出を綴ったコピーなどが入っている。齢を取ると、人間は筆力が弱くなるものだが、大先輩の字は大きくて太い。
大先輩は昭和17年2月シンガポールに敵前上陸した第五師団の第二給水部隊の兵士だが、軍の移動に伴って戦中の大半はニューギニア諸島(カイ諸島)の孤島に近いトアールという集落で生活した。戦争の激化によって部隊への食糧補給は絶たれ、自給自活を強いられた。しかし、珊瑚礁の島では農産物は出来ず、ヤシの実を主食に、名も知らぬ海産物を食べた。タンパク源は島に生息するコウモリやトカゲ、ネズミなど。それに手製の釣り糸と釣り針でやっと釣り上げた熱帯魚であった。
こんな極限ともいえる生活なのに、昭和19年のある日、連隊本部から娯楽施設のない兵隊たちのために「慰安所」か「酒保」(日用品や食料品を売る店)のどちらかを作るが、どちらがよいという問い合わせがあった。結果は「慰安所」を望んだのは一人もいなく全員「酒保」と答えたため、連隊本部から饅頭の配給があり、大喜びしたという。
大先輩はまだ孤島でよかった。ニューギニア本島では昭和20年、連合軍の再上陸によって20万人日本軍兵士のうち無事日本に帰還出来たのは1割の2万人に過ぎない。亡くなった方々の大半は、敵との戦闘によるものではなく、飢餓と熱帯性感染症による病気によるものであった。いまだにニューギニアには収集されない遺骨が残されたままである。大先輩は手紙の終わりに”老骨の長寿を天命として楽しむよう心がけしています”とあった。
大先輩は昭和17年2月シンガポールに敵前上陸した第五師団の第二給水部隊の兵士だが、軍の移動に伴って戦中の大半はニューギニア諸島(カイ諸島)の孤島に近いトアールという集落で生活した。戦争の激化によって部隊への食糧補給は絶たれ、自給自活を強いられた。しかし、珊瑚礁の島では農産物は出来ず、ヤシの実を主食に、名も知らぬ海産物を食べた。タンパク源は島に生息するコウモリやトカゲ、ネズミなど。それに手製の釣り糸と釣り針でやっと釣り上げた熱帯魚であった。
こんな極限ともいえる生活なのに、昭和19年のある日、連隊本部から娯楽施設のない兵隊たちのために「慰安所」か「酒保」(日用品や食料品を売る店)のどちらかを作るが、どちらがよいという問い合わせがあった。結果は「慰安所」を望んだのは一人もいなく全員「酒保」と答えたため、連隊本部から饅頭の配給があり、大喜びしたという。
大先輩はまだ孤島でよかった。ニューギニア本島では昭和20年、連合軍の再上陸によって20万人日本軍兵士のうち無事日本に帰還出来たのは1割の2万人に過ぎない。亡くなった方々の大半は、敵との戦闘によるものではなく、飢餓と熱帯性感染症による病気によるものであった。いまだにニューギニアには収集されない遺骨が残されたままである。大先輩は手紙の終わりに”老骨の長寿を天命として楽しむよう心がけしています”とあった。