「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

70年前の2月 艦載機による本土への機銃掃射が始まった

2015-02-18 07:52:30 | Weblog
米軍による日本本土へのB-29爆撃機による空襲は昭和19年(1944年)12月から本格化したが、硫黄島や太平洋上の機動部隊からの小型艦載機が来襲し始めたのは70年前の今頃からであった。亡父の20年2月16日の日記には「朝食食はんとすれば、東部軍管区情報を伝えるラジオで小型機の大群来襲の報あり。小型機の来襲はこれが初めて」とある。翌17日の日記にも小型機が関東各地の軍需工場に対して連日、機銃掃射を浴びせたとある。

僕の記憶では来襲した小型機はグラマンの戦闘機だと思っていたがカーチス社の哨戒機もあったらしい。この小型機の来襲は以来、日常化してきて、僕も何度か機銃掃射を浴びせられた。3月のある日、僕は動員先の東京の蒲田の軍需工場内の道路で、掃射された。搭乗者の飛行帽やメガネが識別できるほどの低空からの攻撃だった。6月には、これまた動員先の千葉県の利根川運河の浚渫現場であった。幸い弾丸は退避した土手に当たり九死に一生をえた。

小型機による攻撃は当初は軍事施設や工場などへの戦術的なものだったらしいが、次第にエスカーレートし無差別化してきた。終戦で際の8月5日には東京八王子市の中央線湯の川トンネル入口に停車中の列車が襲われ、乗客50人が犠牲になっている。八王子では品川区から集団疎開に来ていた学童までP-51の機銃を浴びて亡くなっている。終戦2日前の8月13日には、艦載機の来襲はないとみられていた善光寺のお膝元、長野市まで機銃掃射を受け犠牲者が出ている。

B-29爆撃機による空襲で全国200の都市が被害にあい、一説には100万人以上が死傷している、といわれているが、戦後70年経ってもいまだに空襲被害の全体像は明らかでない。小型機による機銃掃射がいつ、どこであり、被害者がどのぐらいあったのかも不明である。