「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          河野洋平氏の叙勲に違和感

2011-11-04 06:22:31 | Weblog
今年の秋の叙勲で河野洋平元衆院議長が「桐花大綬賞」という最高の勲章を貰った。勲章なんかに、まったく縁のない僕だが、この授賞には何か違和感というか抵抗を感じる。おそらく同じ思いの人は他にもいるのではなかろうか。理由は平成5年、彼が官房長官のとき誤った史実に基づき発表した、いわゆる「河野談話」がひっかかるからだ。

僕は改めて「河野談話」を読んでみた。明らかに誤りなのは「従軍慰安婦」という言葉である。河野氏は戦前生まれといっても、昭和12年生まれ、戦争中は幼児で知らなかったのだろうが、あの時代「従軍看護婦」「従軍記者」という言葉はあったが「従軍慰安婦」の言葉はなかった。それよりも「河野談話」が責められなければならないのは、当時の官憲が直接”慰安婦狩り”に関与していたことを思わせる記述である。

談話が発表になった当時、朝日新聞など一部のマスコミが、吉田某というインチキ男が発表した済州島での日本軍による”慰安婦狩り”を記事にして、まことしやかに伝えていた。朝日新聞好きの河野氏が、これに影響をうけたとは思いたくないが、戦争中、日本軍が直接、強制的に慰安婦狩りをしたという事実はない。まったくありえないことだ。

河野氏は今回の授賞に当たって、政治家の質の低下を指摘し”政治家は歴史や先輩政治家の経験を正しく学ぶべきだ”と談話を発表している。僕はこれを聞いて、この河野という政治家の質の悪さを改めて知らされた。史実にもとる「談話」の発表により、この国の政治の道を誤り”従軍慰安婦”が国際社会で独り歩きしてしまった。その反省もない男に勲章を授賞する国も国である。


           「明治節」も遠くなりにlけり

2011-11-03 06:32:34 | Weblog
今日は「文化の日」である。といっても僕ら昭和1ケタ以上の世代にとっては「明治節」のほうがピタリとくる。昭和の御世になって明治天皇の遺徳を讃え、誕生日の11月3日を祝日に制定したものだ。「明治節」は「新年」(1月1日)「紀元節」(2月11日)天長節(4月29日)とならんで「四大節」(四大祝日)の一つで、この日は学校の授業はなく、式典があって祝日を祝った。

「明治節」では「君が代」とともに「明治節の歌」を合唱した。
     ♯ 「明治節の歌」(作詞 堀沢周安 作曲 杉江秀 昭和3年)
     亜細亜の光 日出づるところ  聖の君の現れまして
     古き天地閉ざせる霧を  大御光は隈なく払い
     教えあまねく道明らけく 治めたまへる御世尊し

僕はこの歌詞の三番が好きだ。”秋の空澄み菊の香高き、今日のよき日を皆ことほぎて”の歌詞である。戦前の東京の「明治節」の頃の季節がよみがえってくる。東京の空は、あくまで天高く雲ひとつなかった。そしてどこの街角からも、丹精して育てている菊の香がただよっていた気がする。

”降る雪や明治は遠くなりにけり”-この句は作者の中村草田男が明治の御世が終わって20年ぐらい経った頃、東京の母校の小学校を訪れた感慨を詠んだものだが、平成も23年もすぎた。僕らが「明治節」の歌を歌い、紅白のお祝いの饅頭を貰って嬉々としていた、あの昭和の御世も遠く感じるようになってきた。当然である。73歳以下の日本人は学校でこの歌を歌ったことはないのだ。

         孫の”外遊” 羽田の蝙蝠(こうもり)

2011-11-02 06:48:26 | Weblog
大学生の孫が昨日、友人二人と東南アジアの”外遊”へ旅たった。彼にとっては初めての国外旅行である。特に目的を持った旅ではなさそうだが、とかく引っ込みがちだといわれる今の若者にとって、かりに単なる遊びにしても若い新鮮な目で外国を見てくることはよいことだ。僕が孫の年だった60年前には外国旅行は”あこがれのハワイ航路”の時代であり、飛行機に乗ることさえ夢の夢であった。

僕が始めて飛行機で”外遊”したのは昭和37年(1962年)31歳の時であった。それでも当時としては早いほうで、外貨の持ち出し制限から一般人には海外渡航は禁止されていた。報道記者の特権で、僕らはまだ利用客の少なかった羽田空港から、ジェット機のはしりのコメット機に乗ってロンドンに向かった。途中給油のため10いくつかの地に立ち寄り30時間以上の長旅であった。

この一世紀、100年間で長足の進歩を遂げたのは航空機であろう。先日亡くなられた作家北杜夫さんの作品「羽田の蝙蝠」は、自伝的に、この航空機の進歩を語られている。北さんは飛行機マニアであった実兄の影響を受けて、子供の時から立川の旧日本軍飛行場や出来たばかりの羽田飛行場へ出かけ、飛行機を観察していたが、昭和6年に出来た羽田飛行場の滑走路は600mしかなかったそうだ。そして滑走路の周囲には蝙蝠が群生していたと書かれている。

昨年から国際空港に復活した羽田には今3000mの滑走路が二つ、2500mが二つあって昼夜の運用が可能になった。戦前、僕は小学校の遠足で羽田へ潮干狩りへ出かけたことがある。羽田に流れ込むエビトリ川では黒鯛の子のチンチンも釣れた。孫の”外遊”から隔世を改めて感じた次第である。

       半世紀前、事件記者だった頃の有楽町

2011-11-01 06:39:52 | Weblog
昨夕、学校を出てすぐ勤めた新聞社のOB会に出席した。今年僕は80歳、傘寿のお祝いに預かり記念品を頂戴して夜8時すぎホロ酔い気分で帰宅した。馬齢を重ねると、夜の会合は苦手になり、極力遠慮しているのだが、やはり出れば、昔の友人たちとも顔をあわせることが出来楽しいものだ。

僕はこの会社には16年しかいなかったが、最初の勤務とあって色々想い出がある。入社したのは昭和28年(1953年)だが、すぐ地方支局勤務となり、本社勤務は翌29年からで、社会部に配属され、事件記者のタマゴとして都内の警察まわりや警視庁クラブ詰めを経験した。

会社は当時有楽町の国鉄(JR)のガード下近くにあった。NHKラジオの連続ドラマ「君の名は」が一世を風靡していた頃で、その舞台になった数奇屋橋が近くにあった。まだ外堀の埋め立ては始まっておらず、高速道路の建設も着手されていなかった。宝塚劇場は進駐軍専用で”アニー・パイル”と名前を変え、日比谷公園界隈には進駐軍兵士が大勢たむろしていた。

社会部勤務中の大きな出来事としては昭和29年1月,二重橋で一般参賀客が混雑から倒れ16人が亡くなられた事故。同9月の青函連絡船「洞爺丸」が台風で沈没、1156人が死亡不明になった事故があるが、直接取材したわけではなく、駆け出し記者の僕は、犠牲者の”顔写真”集めに狩り出された。

直接取材した一つは、帝国ホテルで来日中の”ネブラスカの野牛”というリング名のプロレスラーが強盗した事件であった。このレスラーは当時力道山の好敵手だった木村政彦と試合した男だったが、僕は談話を取りに人形町の"リキジム”へ行き、力道山から話を聞いたが、力道山が意外に背が低く、言葉使いが丁寧だったことを覚えている。そのほか元保安隊(自衛隊)員がカーピン銃を使って強盗を働き、愛人と一緒に全国を逃走していた事件など。当時の時代を反映する事件が多く、想い出深い。