いくつか保守系のブログで「愚民」と日本人をののしっているのに対し、やんわりと反論のコメントを入れて来たが、まだまだ延々と「愚民扱い」は続くようだ。・・・女性に多い!
「愚民」と言うことによって、叱咤激励しているとか。
もっと大きな視点から物事を見ないと、「排他的」になるのではないか。
プライド高い共産党との類似を感じる。
国民を「大衆」と呼び、自らを「前衛」と言う。
それを保守で言いかえれば、国民を「愚民」と呼び、自らを「草莽」と言う。
確かに、今の日本人は「平和ぼけ」しているのかも知れない。
マスコミも異常だ。
韓国や中国の報道機関の「出向」が、日本の各放送局に同居している現実もわかった!
でも国民はバカじゃない。
今、このように報道規制されている日本で、NHKまで真実を報道せず、民放はスターのスキャンダルや大相撲の件で、多くの時間を割いているけれど、それでも日本人はわずかな隙を見抜いているところがあると思う。
活動家よ、どうぞ謙虚に、と祈る気持ちである。
現実面での売国政策は、それを堂々と訴えればよい。
それが受け入れられていないことで、自分を高みに置き、国民を「愚民」など蔑視するなど不遜だ。
「唯我独尊」であり「排他的」だ。
また、火事がそこまできているなら「火事だ!」と叫ぶことだ。
「火事」に対して、ダラダラ言う必要などどこにもない。
売国政策に対して、その通りに言えばいい。
また、メディアには正しい報道をと、訴えていく。
これを私は「手作業」と言っているが、何の力もない一般人の私たちにできること、これでも十分だ。
これでも必死の心だ。
「愚民」と言われて誰が動く?書くほうはそれこそ手段を選ばぬ傲慢さに気付かずますますボルテージを上げる。
これはひとつ間違えば「バカどもめ、さっさとすべきことをせよ!できない?愚民だ!日本を出て行ってくれ!」
などと、全く道を間違えてしまって自分が「ファッショ」発言になっていることも気がつかない。
これを「愛国ヒステリー」と名付けたい。決して「愛国心」ではない!「指図魔」だ!
誰でも気づく、言える、憂う、そして不安をその通り伝える。これが大きな力となる。
「大声」でけたたましく命令?することはマイナスはあってもプラスにはならない。
かつて、屈原は君主が騙されて「売国」に乗せられているのに忠告したが、聞き入れられず、長江のほとりをさまよっていた。
そこへ漁夫が「どうなさったのですか」と声をかけると、屈原は「世の中は濁っているが私は澄んでいる。みんな酔っているが私は醒めている」と悩みを打ち明けた。
漁夫は「まわりが濁っているならあなたも濁ればよいのです。みんな酔っているならあなたも酔えばいい」と言った。
屈原は「それはできぬ」と言って、死んだ。
やがて国が滅び、人々は屈原を思って命日の5月5日(端午の節句)にはチマキを供え、やがてそれが広まっていった。
私はこの話を何度も書いた。
屈原は一言も民衆を罵倒していない。
自分の力量のないことを悲しんだ。
しかし、この話は後世に伝わった。
屈原だけでない。歴史上、こんな話は多い。
また上手くいった例として、「人生意気に感ず」と言った魏徴がいる。
彼は唐の建国時、太宗皇帝に嫌われるのを覚悟で、忠告しまくった。
追い出されたこともある。斬られる寸前だったこともあった。
(「帝王学」として皇帝自身が厳しく自分を諫めることを説いたのだ。
耳に心地よいことはひとつとしてなかった。当然、皇帝は激怒する。)
それでも、魏徴は言い続けた。彼はカラッとしていたのだ。
代々の唐の君主は、あの玄宗皇帝まで、魏徴の忠告で自らを制した。
時を超えて魏徴の言葉は国を守ったのだ。
ただし、玄宗の晩年はそれを忘れた・・・美しい楊貴妃のために。
平沼氏は、「たちあがれ日本」で与謝野・園田らにひっかきまわされ、それでも一言も彼らを責めていない。
それも自己の責任と思っている。「党首ですから」と。
真夏の選挙戦でも、背広・ネクタイをつけ、記者にも丁寧な言葉で答えている。
「人様にお願いするのですから、きちっとするのは当然です」
彼に武士の心をみた。選挙に負けても、「おかげさまで1人当選できました」と言う。
ロシアの北方領土での軍事演習には真っ先に抗議文を出し、金賢姫や中井には「国と北朝鮮との外交による交渉で」とビシッと言う。彼は負けていない!!
この姿が、私の心をひきつけ、高めるのだ。
辻元とは大違いだ。
すぐに「損得」で動く薄っぺらさ、その時の現象でことを左右する千葉法相、こんなのは信用できない。
外交ではキッチリと日本の立場を言う、これができないとやがて「属国扱い」になるだろう。
今の政治家でどれだけの人が「外国人参政権」などの売国政策と向かいあったというのだ。
政治家が逃げて、どうして国民を責められようか。