先のエントリで「花子とアン」の白蓮について少しふれたが、白蓮は華族令嬢に生まれ、たぐいまれな美人、しかも才女であったこと、
しかし華族であっても「芸者の子」としてその出自に深く傷ついていたこと、など思うと、彼女がずっと抑圧から逃れようとして生きてきたことは想像できる。
そこで、オペラで有名な「ラ・トラヴィアータ」のことを書いてみる。
ヒロインのヴィオレッタは美人の誉れ高い高級娼婦で、日本でいえば「花魁」である。
巨額のお金をつぎ込んでもなかなか相手にされない「高嶺の花」でもあった。
しかし、そんな彼女は、ある純朴な田舎の青年アルフレードが真剣に彼女を思い、そのような生活をたしなめているのに、本来、感動しないはずの心が動く。彼女は社交界では隠していたが、肺病を患っていた。
アルフレードはパリ郊外の田舎の家で彼女と生活する。彼女は今までの贅沢な生活を捨て、まじめに生きようとする。
しかし、そこへアルフレードの父が来て、「娘がいて結婚することになった。息子と縁をきってほしい」と言う。
ヴィオレッタは田舎での生活は自分自身の財産であてていて、アルフレードに負担はかけていないこと、自分は不治の病であること、
そしてはじめて人を愛したことを語る。ヴィオレッタはアルフレードの老父に安心させるよう「別れます、でも私の本心は言わないで」と
頼んで彼と別れ、元の社交界に戻る決意をする。
このオペラの最も悲しいところである。
ゼアーニはルーマニアのソプラノで1960年代に全盛期を迎え、カラスやテバルディ、ステッラと並んで絶賛されたが、レコードは
ほとんどない。しかし第一級のプリマドンナであり、しかもイングリッド・バーグマンをおもわせる美貌、豊麗な美声、劇的な表現力など
その卓越した歌を実演やラジオなどの録音で知ることができる。この動画でアルフレードの老父を歌うのはバリトンのヘルレア。
VIRGINIA ZEANI & NICOLAE HERLEA"Ah! Dite alla giovine" La Traviata
・・・5分40秒からお聴きください。・・・
・・・ヴィオレッタはアルフレードの年老いた父に語る、
「美しく清らかなお嬢さんにいつの日かお伝えを。あわれな女がたったひとつの幸せをあきらめ、死んでいくことを」そしてアルフレードの前から姿を消すことを約束する。「あなたの娘のように抱きしめてください、強くなれます」、その清い心にアルフレードの父は涙する。
これほど自分の誤った道を悔いても、神はこのような女をお許しにならないのだ、アッディーオ(永遠にさようなら)と。
このオペラを語るとき、私が私淑していた往年のプリマ、N女史は「罪多き職業をしていたヴィオレッタが人を愛し、逃れられない罪をおもい、やがて乙女になって死んでいくのね」と言われたことが忘れられない。
ヴィオレッタは「マクダラのマリア」か・・・しかし、キリストは「マクダラのマリア」を許したという・・・。
★ ドナルド・キーン氏はその著書にこう書かれている。
>・・・ときどき人々は、日本文学研究者のこの私が、日本の伝統的な価値基準である余情とはまったく対照的と思われているオペラに夢中であることに、驚きの気持ちを表明することがある。
確かに「アイーダ」のラダメスの勝利の帰還は、「熊谷陣容」の熊谷直実の勝利の(と思われている)帰還とはまったく異なった印象を生み出すものである。
しかし、われわれには人間が生まれつき持っている、変化を求める気持ちがあるから、パルテノン神殿と桂離宮の両方に感嘆することができるのである。
だが、それは別にしても、芸術にはどこか深いところで、互いに理解しあえる要素が確かに存在しているのだ。
六條御息所が光源氏の愛と、現世という「火宅」を捨て去る前に、鳥居の前でためらう瞬間は、「椿姫」(ヴェルディ「トラヴィアータ」)で、ヴィオレッタがアルフレードを追い払う前に「私を愛して、アルフレード、私があなたを愛するのと同じくらいに・・・さようなら!」と最後の愛の言葉を発する瞬間と、実はそれほどに違っていないのだ。 (以上、ドナルド・キーン)
宮本某と駆け落ちした白蓮とは別の展開になるが、心痛むストーリーである。