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時事問題を中心にブログを書く日々です。
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南木倶楽部の南木隆治氏が三宅博先生のエッセイ『日本の外交の責任者は誰か』を激賞 

2016年02月07日 | 政治

★ 三宅博前衆議院議員のサイトから、下記のような記事があり、ここに転載します。


下記は南木隆治氏(南木倶楽部)の寄稿

三宅先生はここで、「外務省」に全責任を押し付けるような発想でよいのかということを問うておられます。

これは三宅先生だからこそ言えることであって、例えば拉致問題一つ取ってみても、普通の国会議員は、官僚から「調査の結果こうなっています。」と言われればそれを信用するしかなく、「それは嘘だろ。」、と即座に官僚の持ってきた情報の中の嘘の部分を見抜ける国会議員はほとんどいないのが実情です。

そして官僚は政治家をそうして値踏みし、コントロールするものです。

桜井先生はその外務省官僚たちのあり方を問うておられるわけだが、そもそも、それら官僚が持っている情報が「嘘」であることを見抜けない政治家の情けない実態については述べておられません。

三宅先生はここで、そのことこそが問題だと言う、我が国の政治の根本問題を提起されており、私もまったくその通りだと思います。

三宅先生にはなんとしてでも、国会に戻っていただきたいと思います。

少なくとも、拉致問題について、あるいは日教組や、解放同盟のことについて、また、教育行政の根本問題について、いい加減な資料を持ってきて、三宅先生を適当に言いくるめる事のできる官僚はいないでしょう。

我々国民は、官僚よりもその現場の実態を熟知しているような人を議員に選び、国会に送らなければならないのです。
政治家はエリートでなく、たたき上げ、しかもあるテーマで若い頃から戦闘的に戦い抜いてきたような人を選ばねばなりません。

左翼活動家から政治家になった人々は、方向性は違っても、その点では鍛えられていることを忘れてはなりません。

三宅先生を南木は今後も応援いたします。

尚、この三宅先生の玉稿は上記アドレスの三宅先生のブログに掲載されており、フェイスブックでも、上記解説をつけて、南木からも拡散いたします。

                                           南木隆治拝
南木隆治(みなきたかはる)  
    


1、http://www.sankei.com/premium/news/160201/prm1602010006-n1.html
【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】
祖国の名誉のために闘わぬ外務省に「性奴隷の国」からの名誉回復は任せられぬ
2016.2.1 12:00更新

2月15日からジュネーブで開かれる国連女子差別撤廃委員会で政府がようやく、「慰安婦は強制連行ではない」と反論する。これは昨年7月、同委員会から「慰安婦の強制連行はないとの主張がある、見解を述べよ」と問われた件への回答である。

 わが国への執拗で根深い歴史非難は、外務省が国際社会に向けて一度もまともに反論しなかったことが最大の原因である。国益を深く傷つけた従来の沈黙に比べれば、今回は最小限の反論ながら、反論した点で一応評価してよい。

 しかしここに至るまでの深刻な対立を見れば、日本の真の名誉回復は外務省ではおぼつかないと考えざるを得ない。差別撤廃委員会への回答は、実は、昨年11月までに完成していた。クマラスワミ報告書をはじめ国際的対日非難の勧告に、「一方的で裏打ちのない内容が記載され」たと反論し、客観的事実に基づく日本理解を求めるしっかりした内容だった。

慰安婦強制連行に関する日本側の証言者、吉田清治氏の記事を『朝日新聞』が取り消したこと、1990年代初頭以降の日本政府の調査は軍や官憲による強制連行を示す記述には行き当たらなかったこと、20万人の数字は慰安婦と女子挺身隊の混同で具体的裏づけはないことなども、明記していた。

 ところが、昨年12月28日、日韓外相が慰安婦問題は「最終的かつ不可逆的に解決される」と合意すると、外務省が右の回答に難色を示した。「一方的で裏付けのない内容」などの「強い」表現の反論では国内の強硬論と向き合わざるを得ない尹炳世外相がもたないとして、「最終的かつ不可逆的」という合意と、国際社会では非難し合わないとの合意だけを書いた一枚紙を代替案として出してきた。

猛然と異論を唱えたのが首相補佐官の衛藤晟一氏らである。国連の問いにまともに答えない正当な理由は何か。事実の客観的陳述は、非難し合わないとの合意には反しない、という氏らの主張は全てもっともだ。そこで出された折衷案が冒頭の回答だった。

 強制連行は否定しているが、文書では20万人、性奴隷などの非難には全く触れていない。それらは、ジュネーブの会議で杉山晋輔外務審議官が口頭で述べるそうだ。

 状況の厳しさを外務省はどこまで理解しているのだろうか。口頭説明だけで日本への根強い歴史非難を打ち消せるのか。そもそも、今回反論の機会に恵まれたのも、外務省の働きによるものではない。

 前衆議院議員の杉田水脈氏らが昨年7月、同委員会準備会合で強制連行説には根拠がないと訴えたのがきっかけである。委員らは「初耳だ」と驚き、日本政府に問い合わせた。国際社会に向けて外務省がいかに何も発信していないかを示している。

昨年暮れの日韓合意は確かに両国関係を改善し、日米韓の協力を容易にした。しかし、それは短期的外交勝利にすぎない。「保守派の安倍晋三首相さえも強制連行や性奴隷を認めた」と逆に解釈され、歴史問題に関する国際社会の日本批判の厳しさは変わっていない。長期的に見れば安倍首相発言で日本は以前よりさらに重い課題を背負い込んだのである。だからこそ、いま、楽観を排して、以前よりずっと賢い永続的な情報発信をする重い責務を負っているのである。

 首相が国会で日本のこころを大切にする党の中山恭子氏の質問に答えて、「性奴隷あるいは20万人といった事実はない」「政府としてはそれは事実ではないとしっかり示していきたい」と明言したのは、その点を踏まえているのであろうと、私は推察した。

「軍の関与の下」との発言は「慰安所の設置、管理および慰安婦の移送」に間接直接に関与したという意味で、強制連行ではないとの発言についても同様である。

 国会という最も公の場における首相の重要発言に外務省はなぜもっと真剣に向き合わないのか。国益を守る信念を首相の言葉から読みとり、国益を守る闘いにどこまでもコミットする気概を、なぜ外務省はもっと明確にしないのか。まさか、首相ひとりを前面に立たせて孤独な戦いを続けさせるつもりではあるまい。

 萩生田光一官房副長官は日韓が互いを非難しないことと客観的事実の説明は全く別次元と明言したが、外務省がその意味を理解しない間に、韓国でも世界でも、日本をおとしめる計画がさらに進むのである。

合意の日、岸田文雄外相は韓国側が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に慰安婦問題を世界記憶遺産として申請することはないとの認識を語ったが、韓国側は翌日、真っ向から否定した。現在、中国は、韓国、インドネシア、台湾などに呼びかけ2年後の共同申請に向けて準備中である。慰安婦像も撤去どころか韓国内外で増えつつある。

 いま全力で闘わなければ日本に対して植えつけられた「本性はけだもののように残虐」(中山恭子氏)との曲解を解くことなど到底、難しい。だが交渉しても闘わないのが外務省の習性である。マイク・ホンダ氏、朝日新聞、クマラスワミ報告、いずれにも、外務省は実質的反論をしなかった。日本の名誉をかけた闘いから逃げ続けてきた。

外務省は自らの使命は外交交渉にあり、歴史情報の発信や祖国の名誉擁護は任ではないと考えているのか。であれば、歴史情報の発信は他の組織に任せるしかないではないか。歴史の事実を武器に、知的に果敢に闘う新体制づくりが首相の責任である。




2、http://blog.goo.ne.jp/yaonomiyake/e/cc2bc1b6dbaf01cf0e35d1c05551ec23
日本の外交の責任者は誰か 三宅博前衆議院議員

櫻井よしこ氏が本日2月1日付けの産経新聞1面コラムで『外務省には任せられぬ』の一文を寄せられている。

ここで論じられているのは、昨年末の日韓合意の問題点についてその原因は外務省にあるとの結論を記されている。

またそれ以外の日本外交の失敗と問題点はすべて外務省にその責任を負わせているのである。

これを読んだ読者の多くは、日本の国益と真実を背景にした日本政府と、虚偽と売国的政策を繰り広げてきた外務省との戦いが永きに渡って存在するような錯覚に陥るのではないだろうか。

意地悪く考えればひょっとしてそれを目的として著されたコラムではないかなと思われるが櫻井氏の真意をはかりかねる。

冷静に考えれば理解できると思うが、日本の外務省は国から独立した組織であろうか。そんな馬鹿な話はあるはずもない。

日本国外務省はその名の通り日本の政府の一機関であり内閣の意思と命令に基づいて行動し運営されている我が国の外務省である。

確か櫻井さんは昨年末の日韓合意の直後、これを日本外交の全面的勝利だと手放しで称賛されていたのではなかったのか。

その後日本国民の多くから日韓合意についての批判が巻き起こり、日本政府もやむなく2月15日からの国連女子差別撤廃委員会で反論せざるを得なくなったのではないだろうか。

この日本政府の行動を受け、桜井女史も昨年末の評価を軌道修正をすることになったのであろう。

果たして国連での反論も多くの日本国民が期待できるような内容を伴うものであるか非常に心もとない。

また外交の失敗を常に外務省に押し付け、国民の批判の矛先ををかわそうとする日本政府の姿勢に姑息なものを感じる。

確かに日本の外務省に多くの問題点があることは理解するが、常に外務省をスケープゴートにしようとするこのような姿には怒りさえ覚える。

我が国外務省の職員が気の毒で可哀想にさえ感じる。

彼らの中にも内心強い怒りと口惜しさを覚えている者も少なからずいるはずだ。

外務省の失敗と不作為は日本政府の意思によるものであり、全ての結果責任と評価は日本政府が全面的に受けるべきである。

北朝鮮による拉致問題についても、これと全く同じ構図が存在しているのだ。

本来は北朝鮮との交渉は内閣がその全責任を負って拉致問題の解決に向けて率先して当たらなくてはならない。

にも拘わらず外務省にこの交渉を丸投げし、解決できないことに対する国民の怒りを外務省にそれが向けられるように仕向けている。

本来、慰安婦問題も拉致問題も内閣がすべての責任と批判を引き受けてこの任に当たらなくてはならない。

我々国民は冷静にこれらの実相を見つめなければならない。

                          前衆議院議員 三宅博


★ 私も南木氏のご意見を尊重します。

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ヴェルディ『アッティラ』序曲~短い曲ですが、心に浸透する名曲です。指揮はリッカルド・ムーティ、ミラノ・スカラ管弦楽

Riccardo Muti - Verdi - Attila - "Obertura" - 1991  (3分15秒)



コメント (8)
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