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時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

小幡敏氏「偽善と感傷の国、日本」/討論「台湾侵略・尖閣最新映像紹介」

2021年04月02日 | 政治

 西部邁先生亡きあと、これら政治雑誌は買わなくなっていた・・・しかし下記に転載のこの記事は最後まで読みたい。果たしてこの先はどのような展開になっていたのか。
 私は野党の意見であっても、特定の考えに固執せず良いところは良いと認めたいと思っている。
尊敬する三宅博先生が亡くなられてから、どの政治家の支持もしていないし応援にも行っていない。
三宅先生は豪胆なだけでなく、柔軟な考えのお方だった。若い頃は職人として必死に働き、大学は60歳になってから通われたが、どのインテリにも決してヒケをとることなく、頭脳明晰であった。
政治で重要な多くの事柄は細部まで一度で正確に覚えていらっしゃって、すべてが「日本の為」だった。私は今に至るまでこんなに無私で誠実な政治家をみたことがない。
そして「冷静にて豪胆」だった。私が我慢できない程のひどい政治家の悪口も決して仰らなかった。

そのことは「中山恭子」氏にも言える。
謙虚で優しい声で話されるが、その丁寧な物腰から出てくる「内容」は大変鋭く的をはずさない。
その賢さは「女性が~」と叫んでいる議員にはない。
つまりそういうのはやかましいだけで中身は空洞というのが多いのだ。中山恭子氏は「けたたましい女」ではない。
しかし大の男でもこの聡明で気品高い女性にはかなわないのだ。
 タリバンによる日本人人質事件が起きた時、外務省は「その国に任せましょう」と言った冷たさに憤慨され、たったひとりでタリバンのところに乗り込み、「一日に一人ずつ殺すぞ!」という脅しの中でご自身の命をかけられた。
そして日本人捕虜を5名全員取り戻したのだから。(ウズベキスタン全権大使の時、政府や外務省に逆らって自分の国の国民を護られたお方だ)



【小幡敏】「偽善と感傷の国」日本、理念なき国家

 我々は常に偽善と感傷によって現実を処している。偽善とはすなわち、民主主義の原則に忠実であることに道徳的な評価を混入させることであり、感傷とはそれに引き続いて起こる問題、つまり、単なる問題解決の手段である民主主義を道徳的な目的と見做すことにより当然に引き起こされる現実の障害や困難については、それが民主主義の原則に従った結果だからといって情状酌量する甘さである。この時、我々が為すべきは問題の解決であるという当たり前の事実は、既に背景へと退いてしまっている。

 言わば、日本において課題とは解決すべきものですらない。それは常に予め中絶されてしまっている。日本とは、性的な乱脈(安全保障上の怠慢や無節操な憲法解釋)を繰り返しておきながら、その妊娠の事実(破滅の脅威)と関係なしに中絶手術(平和の叫び)を繰り返している不埒な臆病者であり、彼らにとって望まぬ妊娠という不都合で不愉快な事実は、全て予め、何等の苦痛も、何等の倫理的な葛藤をも通り越して回避されてしまっている。妊娠したかどうかなど分かりさえしない。そしてそれは我々の道徳的な感覚を衰弱させ、終いにはあらゆる問題解決から疎外されてしまう。

 果たして日本人は、日々の状況の中で慰めならぬ言い逃れとしての努力(あらゆる日本人の善良さと献身とは、このあまりにも小さな器に殺到しているが、大学受験に臨む者がいくら漢字計算ドリルを熱心にこなしたところで意味を成さないように、頑張りや動機の純粋さは全てを贖わない)を自動的に繰り返す新たな“兎小屋の働き気違い”となり、出荷され、清算されるその瞬間まで繰り返される徒労の道をただひたすら歩む。ひょっとするとこの道は破滅への道ではないか、そう立ちどまる者は、感染症騒ぎで自粛という努力に熱中する仲間のヒステリーによって村八分にされた如く、抹殺される。

 そういう国を生きる人間は、為さねば生存が脅かされる他国との闘争を猶予されているが故に日本の輪郭を認識できず、自分が日本という国家の一員であり、祖国を愛そうが憎もうが、その一人として生きることから逃れられないことが決して理解できなくなる。
言うなれば彼は、自立していない。なぜなら、自立とは親から離れるだけでなく、親と自分との新たな関係の構築を必要とするから。彼は自由に考え、あらゆる相手と交渉し、自らの生存を懸けて生きているつもりかもしれないが、それは親の金で賭け事をするようなもので、如何に目の前のカードやスロット台に血眼になろうが、それは言わば負けても構わぬお遊びに過ぎず、ディーラーも店も、彼を一人前の客と扱うことはない。言ってしまえば日本人は今もなお、口では一人前になった気でいる少年に過ぎない。

 そしてそんな風だから日本人は、マッカーサーに“十二歳のガキ”だと嘲笑されてもニコニコと笑っていられる。自衛隊のようなもっとも国益に直結する活動に従事し、国家の輪郭を肌で感じられる場所に居る日本人でさえ、その振る舞いを一人の日本人としてふさわしいものにはし得なかった。
一番腹が立ったのは、幹部候補生学校時代に米海兵隊から講師が来るというので、歓迎の意味をこめて海兵隊の歌を英語で練習し、歌わされたことだ。私は腹が立ってしらばっくれていたが、下手な英語で歌う連中を見ていたら気が抜けてしまった。あるいは”God Bless America”を共同演習の際に歌ったなどという話も聞くが、ここまでくれば米兵に“海ゆかば”を歌わせるようなものであり、もはやお寒いギャグとしか思えず、米兵の苦笑いが目に浮かぶ。

 だが、それを自衛官の無知と軽薄であると嗤わないでほしい。これこそ日本人の性向なのである。であるからこそ、マッキンゼーだかチンパンジーだか知らぬが、交渉上手と評される茂木外相は、中国の王毅に尖閣は中国領であると面前で宣言されてもなお、へらへらにやにやとやり過ごすくらいのことしか出来ないのだ。なぜなら、それが思想を持たない日本人にできる精一杯の社交術であるのだから。

我々が直面する時代

 (中略)何より、我々が直面する時代は、国家という概念が溶解し、旧国家勢力がその一体性を自明のものとして用いることが困難になる中で、如何にして国民概念、公共概念を吊り支えていくか、ということが最重要の課題となっているが、これに自覚的である者は思いのほか少ない。
国家という古臭い枠組みがグローバル化によって希釈され、自由で明朗な新しい個人主義の時代を夢見た楽天家一同には悪いが、グローバル化の後に現れた混沌の中に生じたのは、国家という概念の再構成の必要に過ぎない。それは、心情的紐帯を当てにできなくなった国家が、如何にして住民の気を引いて国家間競争に引きずり込めるかという問題であり、現状この課題をもっとも有効に処理している中国が国際競争の先頭を走っていることは当然である。

 少々想像が難しいかもしれないが、軍事領域を見ればこの必要は明瞭な事実であり、中国人民解放軍の将官による『超限戦』では、現代の軍事環境は次の様に描かれる。

かつて全く隔離されていた領域は何もかも打ち破られ、いかなる空間も人類によって戦争の意義を付与されてしまう。場所、手段、目標を問わず、攻撃を仕掛ける能力さえあれば、そこは即座に戦場となる。コンピュータールームや証券取引所にいても、敵国に致命傷を与える戦争を引き起こすことができる。こういう時代になればいったいどこに非戦争空間があるというのだろうか。

指摘するまでもないが、人類が平和の呼びかけや戦争の阻止に多くの注意力を集中しているときに、もともとわれわれの平和的な生活の一部だった多くの事物が、平和を傷つける狂気へと次々と豹変しているのだ。

 軍事と非軍事の境界さえ消滅する斯様な状況下で国家同士が繰り広げる競争に、均衡はあってもルールはない。それはこの著者自身が、「ルールを無視する敵に対応する上で、最良の戦法はただルールを破ることだけである」と述べている通りであり、この無法に抗し得るのは現状では国家しか存在しない。
そこではすべての要素が戦争の手段となり、すべての住民が戦争の担い手となり得る。そしてそれがこの困難な時代の戦争様式であり、現にその様式に対応しつつある国が存在している以上、我々とてそれに無関心でいられるはずがない。日本に求められているのは国民国家の再設定であり、誤解を恐れずに言えば、日本国民全員の戦力化であり、国民の構成員化である。

 そのように言うと多くの日本人は戦争には反対と叫ぶが、恐れるべきは戦争ではなく、戦争になった時に何も出来ないその無力である。妻子が蹂躙されているのを指をくわえて見ているというなら好きにすればよいが、私は御免蒙る。
平和のためにこそ戦争の備えが必要だというのは本来子供でも分かる道理であり、そのためにも、まずは国家と国民の関係を改めて適切に規律していく必要がある。

この点たかだか商業施設の営業云々を巡って国家権力がどうのと遊んでいる有様を見れば、戦争など夢のまた夢である。健全な国家概念の導入こそが、国境が取り払われてしまった現代における最重要事であるというパラドックスを理解しなければならない。

中国には如何に向き合うべきか

 では、これを認識した我々は何をすべきか、如何にして中国という新時代競争の一番手と伍してゆくべきだろうか。

 人はこれに具体的な手段をもって立ち向かうことを説くだろう。それは核保有かもしれないし、新たな同盟関係の模索かもしれない。
しかしながら、既にお分かりの様に、我々の追っているものは得ようと思って得られるものではない。戦後日本人は軍部の圧政から逃れて自由を勝ち取ったと喜んだが、それが単なる新たな軛の始まりとなったように、我々が真の成果を得るためには、日本は何を目指すのか、戦争をするにせよ、一体何を守る為に戦争さえも辞さぬのか、その理念を改めて迎え入れねば、あらゆる努力は次なる敗北の先送りにしかなるまい。
 それでもなお、一つ目標を挙げるならば、やはり我々はあの偽善と感傷の殿堂である憲法を…(続く)

(『表現者クライテリオン』2021年3月号より)

【小幡敏】「偽善と感傷の国」日本ー理念なき国家 | 表現者クライテリオン (the-criterion.jp)

★ この先、どう書かれているのか、「なるほど!」or「何だ!」かどちらかだ。
この文には興味がある。いつのまにか私は「クライテリオン」の雑誌には興味を失っていた、他の「WILL」も「Hanada」も。しかし書き手による。


【討論】いつやる?どうやる?中国の尖閣・台湾侵略/尖閣最新映像紹介三月二十八日~二十九日[桜R3/3/31]

パネリスト:  
井上和彦(ジャーナリスト)  
古森義久(産経新聞ワシントン駐在客員特派員・麗澤大学特別教授)  
石平(評論家)  
矢野一樹(元海上自衛隊潜水艦隊司令官 海将)  
矢野義昭(元陸上自衛隊小平学校副校長 陸将補)  
ロバート・D・エルドリッヂ(エルドリッヂ研究所代表)  
渡部悦和(元陸上自衛隊東部方面総監 陸将)※スカイプ出演
司会:水島総

【目 次】
00:00:00 準備画面 00:02:28 番組開始(テーマ概要、パネリスト紹介など)
 前半テーマ:中国の尖閣・台湾侵略 現状分析
00:07:42 【古森義久】尖閣に関する(国家主権の原理、米中関係、国際問題・国難)
00:12:12 【矢野義昭】国家・公務員による抑止、全廃抑止、拡大抑止の自覚
00:21:50 【石  平】台湾危機の方が大きい
00:25:56 【井上和彦】政治家の国難意識の無さ(頭の中が侵略?)
00:29:12 【ロバート・D・エルドリッヂ】中国の常識は世界の非常識、海保は中国海警傘下、現状維持・打破・変更 00:35:07 【渡部悦和】日本の危機感(軍事力低下、2027年台湾併合)、中国による米自由主義の見下し
00:38:43 【ビデオ紹介】3/28尖閣周辺状況
00:49:57 【討  論】日本政府内部文章解説、海保小規模化、中国への制裁方法、尖閣軍事シミュレーション
01:10:19 【討  論】海警法の問題、久場島共同訓練の実現性、義和団の乱の例(利害の一致)、政経の体たらく
01:21:40 【討  論】国防諸相(米中戦シミュレーション)、日本の法整備急務、政治の意思決定軟弱化
01:30:06 【討  論】日本人の危機感の無さ、軍事力の優劣で国境が決まり国際的な信頼・経済力を失う
01:37:33 コマーシャル(「めぐみへの誓い」上映告知あり)

★★ 後半テーマ:中国の台湾侵略問題
01:45:58 【水島 総】後半テーマ説明
01:50:26 【討 論】日台関係、日本の国民意識問題(好転している)、媚中派一掃、第一優先安全保障
01:57:24 【討 論】台湾有事時の日本の姿勢、トランプ政策とバイデン政策、日台横の連携、日米防衛強化
02:07:59 【討 論】日台防衛強化、次はフィリピン、日本の民主主義国家間の経済強化、日本経済界の問題
02:14:44 【討 論】各国経済界の問題、日台関係強化、台湾危機に対する日本の意識の低さ、後方支援は戦争行為
02:20:17 【討 論】台湾を守る日本の大義名分、2023-5年中国侵攻不安、日台関係強化、日本の防衛力強化
02:30:58 【討 論】日米台軍事同盟化、中国包囲網の構築、日本国内世論の変化、ISR強化
02:47:27 【討 論】日本国家戦略の欠如、オリンピック参加・中国国内の日本労働者の安全保障への決断、憲法問題、
02:54:07 【各パネリスト総評】
03:02:10 クレジットタイトル(「めぐみへの誓い」上映告知あり)


「ブログのティールーム」

本日は1949年・1950年というほぼ同じ時期に歌われたヴァーグナーの舞台神聖祝祭劇「パルジファル」から

マリア・カラス/ワーグナー:舞台神聖祝典劇「パルジファル」全曲(1950 ...

 最初はマリア・カラスが歌います。指揮はイタリアを代表する名指揮者ヴィットリオ・グイ
Maria Callas "Grausamer!" Parsifal  Africo Baldelli (Parsifal) Orchestra Sinfonica di Roma della RAI Vittorio Gui, conductor Roma 20./21.XI.1950



続いて、バイロイト最高のクンドリと称賛されたマルタ・メードルが歌います。とにかくこの場面は驚異的な声と表現力が必要です。
Martha Mödl sings Kundry "Grausamer!" from Parsifal (Köln 1949)


この場面は絶世の美女だが気性の激しいクンドリー、(彼女はキリストの十字架による死刑を笑った罪で死ねない。)
クンドリーの誘惑をはね返すパルジファルとのやりとりがあります。
これはヴァーグナーの「舞台神聖祝典劇」としてバイロイトの為の作品とされてきました。

パルジファル
落ちぶれ女め、僕に近寄っちゃだめだ!

二度と目の前に現れるな!(パルジファルはほとんど立ち上がり、クンドリーを突き飛ばす。)
クンドリー
(必死になって、激しい口調で)
ひどいわ!
あなたが他人の苦しみを
感じることができるのなら、
あたしの苦しみも感じてよ!

・・・この名場面はヴァーグナーのオペラ(楽劇)の中でも最も激しい表現力と声が必要です。



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