★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

アメリカが手本だった

2019年08月09日 16時01分09秒 | 徒然(つれづれ)
 本日も易きに流れてマクドで2時間宝島読書。

 目に付くのは雑学おじいさん植草甚一のエッセイや、ハワイアン・カウボーイ片岡義男の小説だ。
 どちらも日本的な純文学や私小説でないところ、例えば口語体や乾いた文体が当時の私の共感を呼んだ。
 当時で言うところのフィーリングが合ったのだ。

 両人ともアメリカに対する憧れはハンパじゃない。
 いうならば、ある意味、宝島のサブカル的なカラーやテイストを決定付けるふたりだ。 
 当時のサブカルチャーは、アメリカ的なものとほぼイコールだった。
 
 当時大学生だった私は、彼らの著作を片っ端から読んだものだ。
 アメリカを知るためではなく、アメリカ的なものを知るためだ。

 大学では近代アメリカ文学の講義を受けていて、フィッツジェラルドやヘミングウェイ、フォークナーやスタインベックなどの短編を読んでいた。
 宝島と大学の講義がうまくシンクロして、そこからアメリカン・ニュー・シネマやフォークロックへと視野は広がっていった。
 とにかくアメリカ的で明るく乾いた、ペンキやメッキでコーティングされた、幻想的現実に憧れたものだ。

 その匂いをいち早く嗅ぎつけて、日本的なものに変換し、小説という形にしたのが村上春樹だ。
 その「風の歌を聴け」での登場は4年の後だ。
 その頃私はすでに社会人となり、宝島からは隔絶された生活空間にいた。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする