Chun日記~両足脛骨欠損症の娘をもった父親の育児&子育て奮闘日記

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学校の意義

2015-02-04 00:05:05 | 障害者の父親になって学んだこと
学校の意義

学校は、試験やテストの成績という限定的な要素だけを伸ばす場所ではなく、『人間的な成長機会』を与える場所。
?学校という社会で生きる事により、人と調和をしながら生きる事を学び、規則校則の中で生活する事で、秩序の成り立ちを学ぶ。人の気持ちを感じ、社会の生き方を感じ、友情や愛情・喜怒哀楽の感情を育て、未来を生きる上で必ず必要な『自我』を築き上げる。
?極論を言えば、子供の頃のテストや試験の点数なんて、将来を生きる上では、何の役にも立たない。
?しかし、自我というのは、人間の根底の部分になる。人に優しく、愛し、受け入れながら生きる事ができるか。社会に優しく、愛し、受け入れながら生きる事ができるか。これができるかできないかで、将来の幸せは大きく異なってくる。

以上 WEBの一部引用記事を自分なりに咀嚼してまとめ直してみたもの。


そう「学校とは。」
難しい問いだと思う。

娘が学校で学ぶべきこと。
自らの障害を理解しながら、できることできないことを把握し、予定調和や規律の中で、どうやって折り合いをつけていくべきかを学ぶ。選択肢が一つではないことを学ぶ。
自らの不自由を受け入れ、それをカバーするべく自らのありたい姿を模索する。

当たり前に、目立ちながら生きること。
実はとても大変なことだけれど。
それを自分なりに受け入れた上で、逆に生かしていくことができれば、生きやすくなる。
そんな風に思うのだ。

人には得意不得意があり、できることできないことがある。なりたい自分も夢だって違う。
学校という場で、様々な経験をしながら、たくさん嫌な思いや失敗もしつつ自我を築き上げられればいいな。と思う。

どうしても過保護になりがちな障害児がいる家庭。
娘が外で頑張れるように、自宅をオアシスにしてあげること。困った時に頼れるような人間関係を保つことを忘れずに。
でもある意味心配しすぎずに、任せてやらせてみること。
とても大切に思うのだ。

この観点から障害児の学校選択を考えた時、いろんな議論が生まれる。いろんな場合がありいろんな家族がいる。
ただ一つだけ思うのは、だれにでも自我形成はかけがえのないものだということ。
そしてそのための機会として学校を捉えた時には、ある見方が生まれるということだと思う。

何が言いたいかわからないかもしれないけれど、ふと考えた。
わかる人にはわかるかもしれない。

独り言として、備忘録。
なんというか、考えてしまったな。



コメント
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