ある地方の郷土歴史概説
沈黙する城山
福島県南の地形は、県境の矢祭町を南端に茨城県側に深く食い込んでいる。この地形が示すように戦国時代の領土領域は、佐竹氏と白川結城氏との間で度々戦いが繰り返され、その都度領域は変転していたのである。国境の戦いに揺れた地盤の上に羽黒山と言う一山があり、山城が存在していた。歴史に埋もれて久しく往古を語る人もいないが、五百年間も眠り続けていた町の遺跡発掘調査で、羽黒山上の平地に御殿跡が発見された報は記憶に新しい。群雄割拠の戦国時代は、何処においても凄まじい戦いに明け暮れた歴史が潜んでいる。
名も無い前線基地の山城にも命をかけた戦いがあった。佐竹四天王の一人、大塚掃部介国久という武将は常陸国北辺の多賀庄を治めていたが、佐竹公の疑念によって多賀庄を去ることになります。佐竹公の陪臣による讒言告げ口が、大塚掃部介の信用を落とし込めたのです。多賀庄どころか常陸国から出ていかざるを得ない状況に追いやられてしまった。この窮地に手を差し伸べてくれたのが、隣国の白川結城氏でした。常陸を出るとともに結城氏と組んで、佐竹領となっていた南郷の羽黒城を攻め落とすことに成功します。羽黒城はもともと結城氏の所領であるから、佐竹氏から取り返したことになる。以来結城氏の保護領となり、大塚氏の居城となって最前線の防御線を担うことになります。
佐竹氏系譜(戸村本系図)によると、国久を指して『この者出自を詳(つまびらか)にせず』とあるから、大塚掃部介国久の生い立ちに疑念を持たれたものと思われます。一説には「佐竹氏の族大塚国久」と載せている文献もあるが、佐竹氏系譜の言うように『出自を詳らかにせず』とあるからには一族にはあたらない。確かに国久には謎めいたところがあった。
常陸の大塚氏の祖は、鎌倉公方の足利持氏にかなり目をかけられていたようで、太田亮著「姓氏家系大辞典」中の大塚条にも、鎌倉には恩義があったと記されている。上杉禅秀の乱を鎮めた報酬として、禅秀の領地を拝領したことを指しています。
鎌倉公方の持氏は将軍後継争いで京都の幕府側と争い、敗れて自害します。子の永寿丸(六歳)は助命されてのちに成氏として鎌倉公方になりますが、これに先立ち兄の春王丸や安王丸は、将軍家に対立した鎌倉方の有力者、結城氏の保護下にあったために、結城氏の敗戦で首をはねられてしまいます。末弟の四才男児が京都から鎌倉に来たとも言われるが、その後の消息はわからない。
公方成氏は関東武者の地盤で力をつけてくると、管領上杉氏との間で争いが起きた。幕府は管領上杉氏に援軍を送り、鎌倉を実効支配する動きに出ます。成氏は古河に逃れて鎌倉奪回の機会を窺いながらも、古河という関東勢の奥深くに護られて、鎌倉公方としての威を辛うじて保っていた。以来古河公方と呼ばれる。鎌倉を支配した将軍家では、新しい鎌倉公方として将軍義政の弟政知を鎌倉に送るのですが、成氏の攻撃を受けて伊豆の堀越に逃れます。以来鎌倉に戻ることはなく、堀越公方と呼ばれるようになります。足利一族の反目は幕府の基盤を弱体化させる要因となって、やがて織田信長による天下布武の新しい時代へと急転していくのですが、このような時代背景の中で、国久が幼少期を迎えていたことになる。
国久が羽黒城を落とした永正二年(1505年)と云う年代から推定すると、四天王の一人であり武将として最盛期にあったとすれば、三〇代半ば頃ではなかったかと思います。鎌倉公方や古河公方との関係を知る由もないが、小山氏や結城氏、大塚氏の関係からみると、どうやら背後関係に歴史がうごめいているのを感じるのである。
下野には小山氏があり、下総には小山氏から分流した結城氏が居る。さらに結城氏の分流として白川結城氏が居ると云うように関東一円には源氏との結びつきが強い地勢がありました。大塚氏も常陸の豪族としてやはり源氏との関わりが深い。太田亮氏は一説で国久は小山氏から大塚氏への養子であった可能性を述べているが、小山氏や大塚氏はともに藤原氏の系出であるから、小山氏の子とするなら佐竹公の疑念は生じ得ないはずです。『奉公人この者出自を詳らかにせず』と佐竹系図にあるからには、なんらかの情報が佐竹公の耳に入ったのだと思います。このような経緯がなぜ生まれたかは定かでないが、佐竹公の疑念を生むほどに複雑な地勢と人間関係が横たわっていたように思われます。
(誤訂正=大塚氏が藤原氏というのは間違いです。「白川古事考」には大塚氏の祖が佐竹氏の出であると載せています)
国久が羽黒城主となってから源氏を名乗っているのですが、国を追われた国久が常陸との縁を切ることで、出生本来の源氏を名乗ったとしても、大塚姓をそのまま使っているところを見ると、出生家系を名乗ることもできない由来が介在していたのかも知れない。
白川結城氏は会津蘆名氏と連合し、県南一帯を支配していたが、北は須賀川の二階堂氏、東には岩城氏、南に佐竹氏と云うように戦国特有の蛮勇割拠の挟撃にあって、常に領土を脅かされていました。それぞれが離合集散を繰り返して、自国領土の拡充に血眼を上げていたからです。国久は永正二年に南郷の羽黒城を攻略することによって、初代の羽黒城主となり、越前守吉久―大膳大夫久綱―宮内左衛門尉と四代続いたと記録にあります。
太田亮氏の「姓氏家系大辞典」によると、大塚氏の項に『清和源氏佐竹氏流、磐城国白川郡の豪族にして、羽黒城に拠る』『永正二年佐竹氏の族大塚氏、佐竹氏に背き結城家に属し当城に居る』又「大塚系図に『掃部介国久より四代居たり、宮内左衛門に至りて佐竹に攻略さる』(白川古事考)と載せている。度々の戦いに敗れて逃れ、また奪取するといった激動の地盤に羽黒城主は四代も続いたのですが、天正六年佐竹勢の猛攻に敢え無く落城し、更に白河の結城氏も攻め落とされて、白川一帯は佐竹氏の支配するところとなります。
関東は源氏との結びつきが強い土地柄ですが、頼朝の御家人であった下総国の結城朝光は、母親が頼朝の乳母であったことから乳兄弟として重用されました。小山氏と結城氏との間で諍いがあった時には、頼朝は小山氏から総領識を取り上げ、結城氏に与えると云う事件がありました。朝光の孫祐広は奥州白河の祖となりましたが、その子宗広の時に後醍醐天皇の南朝に貢献したことで、白川結城氏が総領識を与えられるという、支流が本家を凌駕する権力の転移が繰り返されたのでした。小山氏と結城氏との力関係が逆転してしまう、本末転倒の時代であったと言えます。この後も歴史の変遷に伴って小山氏が再び勢力を盛り返し、一族の頂点に立つ時が来るのですが、反対に結城氏は勢力が衰え弱体化していくことになる。このような戦国末期の小山氏の再興と、国久のおかれた位置関係には興味深いものがあります。
十五世紀から十六世紀にかけての関東は、鎌倉公方側と幕府将軍家側との対立が極まり混乱した。これに乗じて上杉氏や細川氏の鎌倉公方を補佐する管領が幕府に加担したため、鎌倉は事実上幕府側の支配するところとなりました。足利尊氏が京都に幕府を開いたのはそれなりの理由がありますが、関東の武家集団もコントロールする必要があった。源氏の拠点である鎌倉を押さえておかなければならない。次男の基氏を鎌倉公方に任じて、東国の覇者としたまではよかったが、幕府体制を盤石にするための二段構えの統治機構が、やがて将軍後継問題に端を発して天下動乱戦国時代へと動揺していくのは皮肉なことでした。時代は大きく変わり、足利幕府の崩壊と織田信長の天下統一によって、戦国時代は足利氏とともに終焉していった。
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羽黒城(館)は常世城とも言われた。天正六年の佐竹勢の猛攻に遭い、前線基地は言うに及ばず白河も侵略されて、佐竹氏の権勢は強大なものとなった。会津の蘆名盛氏が仲介して結城氏と佐竹氏の和睦が成立したが、白河及び県南は佐竹氏の属領となって、歴史の舞台から影を潜めてしまいました。徳川時代になると、流石の佐竹氏も秋田に移封されて力を削がれてしまう。変転きわまりない関東の動乱は漸く終止符を打たれたのである。
さて時代とともに羽黒城が戦跡から遠ざかり、白河に落ち延びた子孫たちはどのような境遇を迎えて来たのであろうか。佐竹氏が秋田に移封されてから、その数代後の子孫は白河松平藩の御典医として仕え、幕末まで命脈を繋いできた事が分かっている。
羽黒舘はその昔八幡太郎義家の築造による山城であり、戦国時代は群雄割拠の最前線にあって、攻防を繰り広げた重要な拠点だったと云える。(了)