conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
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選挙と畑

2017-10-22 14:30:49 | 日記

台風が控えているだけに重々しい雨模様の中を、投票所まで行ってきました。
今回の衆院選挙に関心を持たれる人が多いなと感じたのは、雨にもかかわらず駐車場が満杯であったことです。
最高裁の判例も事前に紹介されていたことで、判事の適否の判断が以前より身近に感じられるようになったのは進歩。
ただ、若者の姿が見えないのは些か意外でした。新聞報道によれば関心大とあったので、時間の都合をみて来ようとしているのかも知れない。
喧騒を街中に振りまいてきた選挙運動中の弁舌と、国会討議におけるにおける言動とを相対してみる必要があるでしょう。
「いいとこ取り」の取り合いで、従来のパターンの域を出ていない運動中の弁舌には、些かウンザリです。

帰り道に畑の苗の育ちをみてきました。長雨にもかかわらずレタスやほうれん草の若緑色の葉が、萎れずに立っています。
植物の健気な生育が、育てる者に元気を与えてくれます。何よりも嘘をつかない正直な結果として、収穫の喜びを与えてくれます。
秋口には収穫もほぼ終わり、雑草を取り除く作業が多かったのですが、ひとたび土に手が伸びるとなかなか止まりません。延々と土の魔力に取りつかれてしまうのです。土に接しているとイオン効果が健康を保つと言われます。イオン交換が土壌の改善を促して、土壌に活性化をもたらす。この活性化が人間をも元気にするのでしょう。畑作業では脇役の助勢に徹している吾、主役のカミさんが「終わって帰ろう」といってもなかなか帰りません。


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オーバーフロー的考察

2017-10-15 20:33:06 | 随想

秋雨が冷たい。天気予報では前線が停滞して、当分晴れ間は見られないようである。
10月恒例の運動会も雨間を縫うようにして過ぎてしまった。時の経つのは早い。最近は特に感じる。
政局の推移も滝壺に落ちるがごとく一蓮托生と言った趣がなきにしもあらず、人それぞれの判断に責任が持てればいい。ストレスの多い時代に生きる老若男女は、いかにして時代の濁流にのまれないで対岸に泳ぎ切れるか、そうは言っても濁流だからね、、、無事を願うなら濁流に飛び込まないだけのことだけど、浦島太郎のように世迷い人となって、桃源郷に行ってもどってこないか、いずれにしても金がかかる。
政府は一人あたり1千万円の国家負債を抱えこんいるというけれど、国家がパンクする前に通貨単位の切り上げなんかでチャラにするとなれば、明治初期以来の伝家の宝刀を抜いたことになる。デフレ気味の個人消費が低迷している現在では、そんなこともないと思うが、寒風の中にある我が懐を思うと日本銀行の懐が恋しい。「馬鹿を見るのは国民」とならないよう経済の立て直しをお願いしたい。
国民皆保険制度が根づいたおかげで、安価な診療を受けられるのはありがたいけれど、安易に診療を受ければ、高齢者人口の増加とともに制度も崩壊しかねない。できるだけ未病の状態を保つように、対抗策を考えて健康に留意すれば、将来の若者に負担を押しつける割合も減ってくるだろう。我が内にエイジレスのマグマを感じられるように、肉体と心を柔軟にしておくことが大切ではないか。

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十五夜

2017-10-04 20:50:00 | 随想

ベランダのミニ菜園に鉢植えのシークワーサーが、幾つかの実をつけている
直径2センチほどの小さな実ではあるが、隣のカボスにも負けないキリッとした存在感を呈している。昨年はサイダー割りのジュースや、焼き魚の絞り汁にして美味しく戴いた。小味の利いた酸味が南国の風情を連想させて、ちょっぴり悦な気分を味わらせてくれたものだ。今日は旧暦の十五夜ということで、ススキを五本と月見団子を供えて月の出を待つことにした。

余韻のないブッチ切れの政争に幻滅したか、月は上空に仄明かりを反映しただけで姿を見せていない。十五夜と言えば月を仰いで、夢想の世界に分け入った子供の頃を思い浮かべる。この日は青い茅(かや)の茎を20センチほどに揃え、箸にしてお萩やご馳走を食べたものだ。今にしてみれば何と優雅な風習で十五夜を迎えていたのだろうと思う。世が変われば形も変わる。月には餅をつくウサギに変わって、アポロ11号以来の足跡がてんてんてん、、、見えてくるようなアバタが地球を見下ろしている。
呑気なことばかりを言っていられない諸事情もあって、笑いも1オクターブ下げた苦笑気味なのは一般的傾向なのかも知れない。

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