あちこちに残雪の見え隠れする湯ヶ島を出て、山間のだらだら道を経て西海岸の堂ヶ島に来ると、パッと目の前が開けて駿河湾の景色が飛び込んでくる。
二月の港湾の波は穏やかで、人通りも少なく眼に入るもの全てがのんびりして別世界の趣があった。
海岸通りに面した土産店を兼ねた喫茶店に入ると、若い娘さん二人が暇をもてあます様にして奥の方に居た、この季節は客が来ないようだ。
喫茶店の中はがらんとして静寂が宿っている。海寄りの窓辺に座りコーヒーを注文した。若い娘さんは土地の人のようで、言葉数は少ないが温かい雰囲気があった。
コーヒーを飲みながら海の景色を眺めていると、娘さんがつつーっと寄ってきて差し出すものがある。「これあげる」といい、見ると一枚のドーナツ盤のレコードだった。一瞬胸が熱くなる。当時ラジオでも流れた、日野てる子の「堂ヶ島慕情」だったのだ。
随分昔の思い出だけど、コーヒーの味は忘れても娘さんの優しい気立てが今でも忘れられない。
独身の頃はよく一人旅をした。時刻表と地図を広げて、目的地あるいは目的地周辺までの旅程をあれこれと想定してプランを練る行為は実に愉しい。
実際に旅たつときはそれまでのプランを頭に入れながら、出たりばったりのフリーハンドに切り替えて気が向くままに出かけます。そのほうが予期しない場面に出会い、旅の味が濃くなるからです。
川端康成の「伊豆の踊り子」では湯ヶ島や淨蓮の滝を通り、下田に抜けるまでの旅芸人一座の娘と一高生のほのぼのとした心情を描いています。映画にもなったその主題歌は今なお耳の底に残る。
そんなこんなで伊豆の山越えをしてみようと思い立ち東海道線で一路三島へ、そして修善寺から湯ヶ島へ、更に淨蓮の滝まで足を延ばして滝の飛沫を浴びてから、その夜は飛び込みで湯ヶ島に泊まることになった。二十代前半の若き旅人である。
まあまあな構えの旅館だったが、二月のシーズンオフと言うこともあって客が居ない。眼に入る客が無いのだ。直ぐに夕飯となり、持って来てくれたのは旅館の若奥さん。
女将さんと言うのに憚れるのは、背中に赤ちゃんを負ぶっていたからである。その奥さんの腕の中には食べきれないほどの猪鍋が...。「うわあ!食べきれないよ、一緒に食べてくれない?」「あらそう?」短い会話の後で「安心したわ」と言うのである。
なんと、淨蓮の滝ノ下へ飛び込みに来たのか、と思われていたのでした。
山深い伊豆の宿、寒い冬を温める猪鍋であった。
空は風に掃われて
きらきら星が降ってます
手を伸ばせば掴めるような
見つめるほどに輝いて
地上の砂を照らしてる
星の世界の言葉でも
美醜なんてあるんだろうか
きらきら星の輝きは
卑屈な胸を打ち抜いて
黒い血潮を流します
大時化の北海の波間に
巨鳥の翼が舞う
大波の浮き沈みの中を 低く掠めるように
黒い翼を広げて滑空している
翼の影を拾うように 行ったり来たり
アホウドリは 何を考えているのだろう
無言に思索する黒衣のアリストテレスか
水面に 顔をうずめるような
雨に打たれ 飛沫に叩かれても
ひたすら
波のざわめきの中を飛翔している
波うつ影は友か 孤高の影よ
アホウドリの翼は舞う
本来はのどかで大らかな海だったはずなのだが近年は海賊の往来する最も危険な海域になってしまった。
マラッカ海峡のような狭い航路帯に堂々と海賊が横行し、通過船を襲い金品を奪う行為は、それを許してきた近隣国や日本がもっと早く手を打たねばならなかった許しがたい行為であります。
世界を見渡せば地球がどんどん海狭化して対立の構図が出来上がっている現状です。
特に宗教や民族の対立は今後ますます深まり、解決の見通しが利かないまま人類の宇宙への進出を模索していくことになるのではないでしょうか。
地球上には美しい山々、美しい島々そして美しい町並みが沢山あります。そして何よりも美しい心の交流があってこその世界です。この思いが海賊に届けばいいのだが。
フジTV「世紀の天才ダヴィンチ最大の謎と秘密の暗号」pm9:00~を見て、「イエスキリスト」の実像を見た思いだった。というのも聖書にあるイエス像とはまったく違う「生きたイエス」が現れたからである。
ダヴィンチの「最後の晩餐」に描かれているイエスの向かって左側の人物がヨハネでなくて「マグダラのマリア」であり、娼婦でなくてイエスの妻だったこと。ごく一般のユダヤ人と同じく、結婚していたことが隠された記録の発見によって明らかにされた。
イエスが神として新約聖書に祭り上げられた経緯はパウロによるものだろうか。
最高傑作とされる「モナリザ」にもダヴィンチコードが隠されていて、あの東洋的な微笑が鏡を見た自像と母親の追憶を宿した
象徴的な人物像であったと言うこと。気高さを漂わせているのもうなづける。
ダヴィンチはマルチ大天才だからいろんな機械の設計図も残している。面白かったのはゼンマイ仕掛けの自動車である。設計を元に復元してみると、実際に動き出した。しかも方向転換も出来てブレーキもついている。いやー参った後の言葉が無い。
昨日の昼前に裏山(山ではないけどそう呼んでいる)へ犬を連れて散歩した。日差しはもう春でそよ風もあるかなしか、歩くたびに生暖かい空気が頬をなでる。
ここ数日、体の調子が良くないので、「癒しの道」になっている裏山の道を歩いた。犬は鼻をくんくんさせながら砂利道の端をうろつきまわり、飼い主のことなど気にかけないで動き回る。犬にとっても「癒しの道」に違いないのだ。
広い畑を見渡せる一角に来ると、若くみずみずしい野草が小さな花をつけて咲いていた。ハコベ、オオイヌノフグリ、そしてホトケノザが同じ場所に群生している。
思わず膝をかがんで近づいて見ると、小花たちの奥ゆかしさが一面に広がった。犬は傍若無人に草の上をまさぐっている。
今日はこまごました用事や買い物で外に出ている時間が長かった。自宅で仕事をしている関係で、普段はあまり外に出ないけど。
スーパーに入ると買い物をしている人の目が優しいな、と感じた。季節の変わり目が人々の心を和ませてくれる。
春になれば花咲く野辺に遊んでみたい。まだ寒気が北の方に綱引きで待ち構えているから、そっとそっと待とう。
多摩川上流ではオシドリの仲睦まじい光景も見られるだろう。せせらぎの音を聞きつつ、水温む春の岸辺に立つのも、懐かしい情景だ。