相模の初冬は・・・と言うより感覚的にはまだ晩秋なのだけど、風が枯葉を舞い上げて空中に漂う時間が長く、車窓を開けると湖水を駆けてきた山風がひやっと頬に触れる。
月末は用事があって湖のある町へ車でやって来るのだが、山間の町の通りは歩く人も少なく、車の往来も少ない。緩やかにハンドルを握って、前方左右の景色を見ながら目的の工房へ着いた。
辺りは既に錦秋の時期が過ぎて木枯しの季節を迎えつつあり、山の賑わいにも翳りが出てきた。用事が片付いた後にコンビニで買ってきた弁当を、ゆっくり食べようと思って相応しい場所を探したが、なかなか見つからない。全山が黄葉や枯葉なのだから何処でもよさそうなのに欲が出ている。
弁当の後にはコーヒーも飲みたい。途中の山中には不釣合いなほど洒落た感じの喫茶店があって、この店に入る。客は私一人。一杯¥380(税込み)で深みのある美味しいコーヒーでした。
晩秋の相模の奥の喫茶店窓より山の静けさ入る
午後三時半を過ぎて自然公園の一角に来た。太陽は西空の遠い山並みの上にかかって、光芒の輪を大きく広げて照らしている。白いユニホームを着た野球少年の歓声を包むように、グラウンドの三方を囲った土手の上には老木の楓が夕日をいっせいに浴びて、赤々と葉を照らしていた。
上空は風もなく、薄い綿雲がポツンと黄金の光に縁取られて浮かんでいる。山々は夕映えの光をうけて一日の終りに向かい、グラウンドに長い影を落として少年たちの帰りを誘う。何事もない平和なひと時がグラウンドを一周する。
妻と愛犬タローは家に置いて来たけれど、このひと時がぐっと胸に迫った。
見るうちに夕日は山の端にかかり、赤い閃状光を木々の間から覗かせながら、だんだん暗赤色から山稜の黒い中へと沈み込んでいった。
先週、日曜日に行った自然公園へ今日も行こうと思う。妻と愛犬タローを連れて、自然のままの林道を歩いてみよう。
荒ぶれた世相の、あまりにも残酷な事件が後を絶たない中にあって、心に降りかかった毒素の解毒を施す必要がある。
向こう見ずで凶暴で、低年齢化する犯罪、幼児児童の誘拐そして殺人。大手を振るう詐欺行為と民を食い物にする業官界の腐れ縁、そして終の棲家のマンション強度不足。一把一からげに人間を料理しようとするこの行為は何処から来るのか・・・
これらの事件を並べてみると、まるでスマトラ半島の津波のように見えてくる。手のつけようもない大自然の災害だが、自然が狂い出すときは人間社会も狂って、激変が見舞われる。これも自然界の変動の表われ。
ただその中にも救いがあるとすれば、人間の行動は無制約では無いと云うこと。悪に対する批判、監視の目が広がるほど悪はしにくくなる。事象が深く潜行して事件が見えてこないときが、もっとも悪の盛んなときだから、「見えている」時は手直しの利く、変革の時とも言える。
愛犬と秋探索の山に入り
小春日和が続いて山肌の色は晩秋から初冬へと、すっかり衣替えをしている。季節の移り変わりに気分が追いつかないまま、黄葉を今日まで見ずに来たけれど、頃はよし妻と愛犬のタローを連れて、都立自然公園の中へどっぷりと浸かり、自然の懐に埋没してきた。
十一月も下旬になると、山中の雑木林は葉を落として山路の上に重なりあっていた。その中を私も妻もタローも思いのままに歩いた。
所々に常緑樹の杉や松が見えて、枯れ葉や落ち葉にいっそうの哀れを誘うのだが、楢やクヌギの落葉の上を、かさっ、こそっと踏み行く感触は、自然との一体感に迫って気宇壮大でもある。
葉を落として裸木になった姿にも、それなりの風情がある。巡りくる季節のやがて来る時のために、力を貯えているのだ。
調理する妻の腕に小春日の窓より細き陽が射す
先日、妻は家庭菜園で採れた八頭の茎を、近所の初老の婦人にあげようと持っていった。ところがその婦人は「面倒くさいことはいやだから、要らない」という。
芋茎の皮をむくとき指先が黒くよごれるし、第一気の利いた料理には向かない食材かもしれない。
しかし料理してもらうと結構活けるのだ、
田舎料理と言われても、豚肉と合わせて料理すると結構おいしい。
我が家は何でも食材として活かす方だから、芋茎とてもったいない、ありがたい食材なのである。
欠礼の文かく部屋に過ぎし日の 香をおびたるハイビスカスの花
冬は駆け足でやってくる
と思ったら 木の枝には
黄葉しきれない葉が
暖冬の陽だまりの中で揺らしている
ハエが背を温めてじっとしていても
狂い咲きの庭に目をやっても
やっぱり冬はやって来る
夜になってストーブをつけ
ブログの前に座るとき
足の冷たさに気づきます
カフェの「足跡」を一巡し
どうにかこうにか自分に返ると
心のなかにも微かな風が吹いて
うつろい行く時の流れを感じている
夜半の暗い天井に目をやると
夜気のなかにも肌の寒さが
忍び寄る
やっぱり冬はやって来る
クラブハウスと言うと少し翳りを感じていましたが、どうしてどうして翳りは微塵も感じませんでした。松浦先生の性格と「クッキングハウス」の作業療法の開放性にあるのか、両方係わってのことでしょうがとにかく明るい。
少々驚いたことは患者さんの身の振る舞いに薬の服用によるボーうとした、あの特徴が見られないのです。
クラブハウスのことは、知っているなどと言えた身ではないけれど、ハウスによって性格はずいぶん違ってくるようだ。
「クッキングハウス」は食の場を通してお互いの心の交流を確かめ合う、そこから自信を得て社会に戻る準備をするところと聞いた。
活動の場は三つに分かれ、
第一の活動:ふしぎなティールーム、
第二の活動:レストラン
第三の活動:クッキングスター
下手な説明をするよりHPアドレスを紹介したほうが興味のある方にはいいでしょう。
http://www.cookinghouse.jp
ブログカフェに入ったとたん目に飛び込んできた、ある女性の短い日記紹介文を見て、本ページを覗いて見た。
読んでいるうちに体がこわばった。異世界の状態を見たというのではない、今の世の苦痛に打ちひしがれた「叫び」をもろに浴びたからである。
そこには家庭が壊され、ずたずたになった心のうめきに溢れて、一度は自死を決意したが懸命に立ち直ろうとする、必死の覚悟が見えた。PTSD(心的外傷)を抱えたままである・・・。
人は何故こんなにも残酷な仕打ちを受けなければならないのか、一度死の淵にいながら現実の生活に引き戻されたのはなぜか、
ある日突然、最も信頼すべき伴侶に裏切られ、奈落のどん底に突き落とされた身が、周囲の励ましによって地上に引き上げられる。この構図は聖書の中にも見られる、「死と再生」で語られるイエスの原型かと思う。「人はどんな苦しみが来ようと耐えられないほどのものは来ない」パウロの言葉だが、苦痛の果て「自死」を選んだ若者には異論もあろう。
”死”を超えて生きている(生かされている)と言う自覚が「同じような境遇にある人たちの手助けになれば・・・」という女性の言葉に救われた思いがした。
「将を得んとすれば・・・」は「将を射んとすれば・・・」の間違いだし、その意は「物事の根本を追求すること」と辞典にありました。
悲しむべきは間違った諺なり字句を、間違った解釈のまま表出してしまうこと、これではちんぷんかんぷんのアイデンティティを発信することになってしまいますね。
恥をかくことには謙虚にして反省です。
さまざまな環境でさまざまな人達がさまざまに考え行動する、人間社会の当たり前な基本構図ですが、その結果に及ぼす影響について責任を持つことが最低条件です。
このカフエにおいても目に見えない(外見上はそうなのですが)かたちでお互いのアイデンティティを交感しているのですが、残念なことは誹謗中傷によってカフエを退会する人が絶えないことです。
特に女性が言葉の暴力にあって胸を傷めている姿は想像するのもつらい。男としてはそのような瑣末なところに神経を使うのでなく、現実の世の有り様に心を向けよ。
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