ネットの電子書籍を覗いていると、「島尾ミホ著『海辺の生と死』」の文庫本が目にとまった。
彼女については夫、島尾敏雄ともども、よくは知らないのだが、書評によれば
奄美の自然に育まれた、素直で明快な文章が才能を感じさせるというので、1冊注文した。
夫、島尾俊夫が特攻隊長としてどのような人格を持ち、どのように部下の隊員と接していたのか、
間接的に記述されているかも知れないという期待もあった。
結婚自体は終戦の翌年だったから、戦中の部隊生活まではどうであろうか。
何はともあれ、久しぶりの購読である。
もう1冊は、これも文庫本だが、松本健一著「山本覚馬 付・西周『百一新論』」という、馴染みのない題名ではあるけれど
おなじみのNHK大河ドラマ、『八重の桜』に出てくる兄の覚馬である。
まだ完読していないけれど幕末の動乱期に、一人の会津藩士がよくもこれ程に世界の趨勢を観察して、
日本の進むべき時代を提言し、岩倉卿に建白書を差し上げていたとは驚きである。
山本覚馬と云う一人の軽輩が、藩命によって佐久間象山の門下生となり、多くの知己を得る
ことによって時代の感性と云うものを磨いていった。
鉄砲の指南役であったことも、西洋の文明に向き合わせた一因だったろう。
勝海舟に出会ったことは、外洋の見聞を広げたに違いない。
オランダ留学をした西周と出会い、国際法とも言える『万国法』の知識を得たのも
藩制を超えた、世界の中の日本を意識する大きな元になった。
日本を救うことと、会津藩の瓦解を食い止めようと奔走する姿が、同時進行して痛ましい。
じっくりと読んでみたい本である。
年をとると遠出が億劫になる。
熱暑の中を長時間のハンドルさばきとなれば、これまた面倒!
ついつい住処の周りをうろつくか、早朝の菜園へ収穫に赴くていどだ。
若いころは、(30代ではあるけれど)連休ともなれば、三浦半島の城ケ島へ行くのが常だった。
ごつごつした岩場に座って相模湾を航行する船を眺め、どこまでも広がる太平洋の水平線の彼方に眼を追いやっていた。(すごくロマンチック)
城ケ島から大橋を渡り、三崎港のマグロセンターに行くと、トロが安く手に入る。
持参した醤油で弁当を食べるのも楽しみの一つ、だった。
鎌倉の夕べの由比ヶ浜は散策にもってこいだったし、文学館の前田侯爵邸も
趣のある雰囲気と容姿で、そこに至る谷戸の道筋が何とも言えない鎌倉らしさを感じるのだった。
夏の尾瀬も青春のメモリーだった。
すべては「だった」なのだが、記憶の映像は色褪せていない。
だから非常に近い記憶の時間として、昨日のように感じてしまう。
過去はこのくらいにして・・・
今朝は日照り畑に水やりをしたが、先に来ていた隣の畑の知人が、フェリーで奥さんと北海道旅行した話を今日もして来た。
洞爺湖畔に立つ「ザ・ウィンザーホテル」に泊まったことが自慢のようだった。
折も折、『洞爺湖サミット』の後に行ったそうで、室内の豪華さといったら!
室内の豪華さと宿泊料の豪華さに熱弁をふるうのだった。
それぞれに思い出があり、胸にとどめる一際インパクトの強い思い出というものが、生命力を高める効果があるのかも知れない。
そう!!私たちは若い!のだ。
作物にとって干天の慈雨だ
と言ってもキュウリやトマト、
スイカ、トウモロコシは
とっくに胃袋の中に消えている
狭小な畑に実をつけているのは
秋ナスとピーマン、
それに万願寺とうがらし、、、
おかずとしてはパッとしない
作物は手をかけるほどに
嬉しい果実をもたらしてくれる
天の恵みは慈雨あってこその
結実ではあるけれど
干天の続くときは
水道水を持参して畑にまいた
じりじりと陽に焼けて
育たなかったのもあった
愛し児を育てるように
もの作りの手から
形あるものへ
ひと夏のテーブルにのぼる
野菜たちにビールで乾杯!
そうそう、
パンと張った枝豆をつまみに
やれやれ、、、と思う間もなく、時局の混沌が内に外にと滲みだしている。
政局は一党支配の下に、念願の方向性を打ち出そうとして懐手の思案を
抱いているだろうし、四方の海はここに来て急激な三角波を打ち始めた。
とかく経済が順調にいっている間は国内の不平不満も少ないし、国際関係もほぼ順調な位置関係を保って来た。
ここに来て地球上が混乱の坩堝にあるのは、ITの進歩と国際経済がグローバル化してパイの奪い合いとなり、富の配分が偏っていることと無縁ではないと思う。
超大国の力関係に変化が出てきたことも大きい。
一種の運動エネルギーが豊満状態にあるのではないか。つまり、地球上にエネルギーを投下する隙間がなくなっているのではないか。
リーマンショック以来、投資機関は神経質になり、ファンドのように一過性の利潤を追っている。
エネルギーの行き場が豊満状態だとすれば、次に何が起きるだろうか。
絶壁を登るか、引き返すか。
どっちにしても現状維持は難しい。
カタストロフィの反転機が歴史をどのように導くのだろうか。