conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
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心象風景 その5  過去との遭遇

2016-01-31 01:00:00 | 小説的随想

心象風景 その5 ー過去との遭遇―

  常陸国(現在の茨城県)は関東の外れにある。と言ってもその歴史は古い。朝廷の勢力圏からすれば、任命を受けた国司が赴任する最果ての地であり、その奥には蝦夷の支配する陸奥国が控えていた。
 早くから桓武平氏の根づいた地でもある。将門が関東一円を荒らしまくった承平の乱も、平氏一族の内紛が発端であった。地元に根づいた国司の子孫が起こした争いでもある。将門に父国香を殺された平貞盛は、藤原秀郷と共に将門を誅殺して、平氏の中核に躍り出ることになる。貞盛の子維衡が伊勢に移り住んで伊勢平氏の始祖となり、やがて清盛の時代を引き寄せる端緒となるのだが、その根源は常陸国の原野を、思う存分に駆け巡った祖先たちの、野性的な闘争心を培ったお陰ではないだろうか。
 
 平氏一門が関東一円に勢力を広め、鎌倉を中心とする有力な豪族として活躍して来た。源頼朝が武家の棟梁として鎌倉に幕府を開いてから、源氏の優位性が高まったこともあり、関東の地にも甲斐武田氏や上野新田氏、下野足利氏など源氏流が力を発揮してきて、花の乱の戦国時代を迎えることになる。
 戦国時代の常陸国は清和源氏佐竹氏が領有していた。戦国時代の末期にさしかかった頃、ある事件が起きたのである。佐竹(義瞬か)は隣国を侵略して強大な勢力を誇っていた。そのような情況の中で佐竹四天王の一人、大塚掃部介国久という武将に降りかかった災難なのである。
 掃部介に良からぬ思いを抱いていた佐竹公の陪臣の一人が、掃部介の人となり行動に疑念があると、佐竹公に告げたのである。掃部介は常陸国の北部にある多賀庄を治めていたのであるが、白川結城氏の領土と隣り合わせであったことが災いしたらしい。陪臣の眼には、掃部介と云う武将が目障りで、天敵のように存在を認めたくない敵対心を持っていた。戦いでは前線で指揮を執り、神とも崇められていた掃部介の器量が、腹の底から疎ましく感じられて見るのも嫌であった。そのような折に噂が流れたのである。

 戦いに明け暮れていた時代でも、隣国との間に義理が絡めば、相手の領地田畑を荒らさない暗黙の了解があった。手加減をするのである。掃部介にもそのような義理があったのか、結城氏領内での噂が陪臣の耳に入ったのであった。
 掃部介と結城氏との間に何やら関係があると告げられた佐竹義瞬公は、掃部介を呼んで問いただしたが納得のいく説明が得られなかった。掃部介には養子説があって、他所から貰われた子だというのである。その辺の仔細も聞いてみたが、ハッキリしたことは分からなかった。
 掃部介自身には深い謎があった。確証はないが後世の説によると、掃部介は小山氏の子だという。大塚氏は何代か前に佐竹公と主従関係を結んでいた同族であり、小山氏や結城氏といった藤原氏出とともに重要な国の守りについていたのである。また鎌倉公方の持氏との絆が強かったことも、謎を深める一因になっている。いずれにしても小山氏の子であるならば、佐竹公の疑念は生じないはずである。大塚氏の子として成長した国久は、佐竹四天王の一翼を担う大将として、常陸国の北辺を守ってきた。陪臣の眼にはその辺の経緯が謎として映っていたようだ。
 戦国時代に主従関係を疑われるとなると身辺は穏やかでない。佐竹氏系図のなかに『この者出自を詳らかにせず』とあるので、養子縁組には、かなり入り組んだ背景と謎を生む境地があったのであろう。
 佐竹公の疑念をうけて多賀庄に居ることはできない。多賀庄どころか身辺の危惧を思えば、常陸国から出ていかざるを得ない状況に追いやられた。この窮地に手を差しのべてくれたのが、奥州白川の結城氏だったのである。
 常陸多賀庄を出る決意をすると、北方の山間地より結城氏のもとへ向かった。結城氏とともに佐竹氏の領有となっていた南郷の羽黒城を攻め落とすのである。羽黒城は元々結城氏の管轄領域であったが、佐竹氏によって奪われていた山城である。国久の攻略によって本来の領地に戻したことになる。再び羽黒城は結城氏の保護領となり、大塚氏の居城となって最前線の防御戦を担うことになったのである。国久は羽黒城主となってからも源氏を名乗っている。

 時代は遡るが常陸の大塚氏の祖は、鎌倉公方の足利持氏にかなり目をかけられていたようで、太田亮著「姓氏家系大辞典」の大塚条にも鎌倉には恩義があったと記されている。上杉禅秀の乱を鎮めた報酬として、禅秀の領地を拝領したことを指している。鎌倉公方の持氏は将軍後継争いで、京都の幕府側に敗れて自害したが、子の成氏は助命されて後に鎌倉公方になる。兄の春王丸や安王丸は、関東の有力者である結城氏の保護の下にあったが、幕府との戦いに敗れて二人とも首をはねられてしまう。また末弟の4才男児が京都から鎌倉に向かったとも言われるが、その後の消息はわからない。このような時代背景の中で、国久が幼少期を迎えていたことになる。さて、何処にいたのだろう。太田氏の推定するように小山氏のところか。

 国久が羽黒城を落としたとする永正二年(1505年)を基点に考えてみると、武将として四天王として名実ともに最盛期にあったとすれば、三〇代半ば頃ではなかったか、と推察するのである。それから逆算すると大まかな幼少期の年代が分かってくる。鎌倉公方や古河公方との関係は知る由もないが、小山氏や結城氏、大塚氏の関係からみると、どうやら背後関係に歴史がうごめいているのを感じるのである。

 国久が羽黒城主となっても源氏を名乗っているのを見ると、故あって小山氏から大塚氏の養子となったとして、その後は佐竹勢の一翼を担う四天王の一人になっていた訳で、相当の力量を発揮していたと思われる。常陸との縁が切れた後も出生本来の源氏である大塚姓をそのまま使っているところを見ると、出生家系を名乗ることもできない由来が介在していたのかも知れない。

 白河結城氏は会津蘆名氏と連合して南部一帯を支配していたが、北は須賀川の二階堂氏、東には岩城氏、南に佐竹氏と云うように戦国特有の蛮勇割拠の挟撃にあって、常に領土を脅かされていた。それぞれが離合集散を繰り返して自国領土の拡充に血眼を上げていたからである。国久は永正二年に南郷の羽黒城を攻略することで初代の羽黒城主となり、越前守吉久―大膳大夫久綱―宮内左衛門尉と四代続いたが、天正年間佐竹氏の大軍勢によって攻略され、南郷はおろか白河も進略されて、白河結城氏も佐竹氏の軍門に降って国境の争いはついに終幕を迎えたのである。
  戦国時代が終わって徳川家康の治世になると、大阪の敗將石田三成と関わったとかで、佐竹義宣は秋田に移封されてしまう。佐竹氏が結城氏や大塚氏を滅ぼしたことで、国久を追いやった陪臣にとっては、眼の上のタンコブが取り除かれたことになる。しかしその代償として酷寒の秋田へ移封されて、減封と耐乏を忍ぶ境地へと変転するのは、因果と云うべきであろう。

  徳川幕府の体制も固まって南郷は幕府直轄の天領となり、白河は丹羽長重や松平定信等の親藩が領した。最後は二本松城の管轄に置かれて幕末に至った。白河が松平氏の封地になったころ、佐竹氏に駆逐された結城氏や大塚氏はどのような身の振り方をしてきたのだろうか。大塚氏は何代か後に白河藩の御典医として代々勤め、江戸後期の天保年間まで命脈を繋いできた。おそらく結城氏も同様な経緯を迎えたと思われるが、直系筋の一子が秋田の佐竹氏に仕えたという記録もある。


 世にもおぞましい血脈の争いが、絶えることもなく続いてきた。佐竹公のもとで陪臣が放った讒言の一矢が、晴明のブログを通して飛び交い、500年もの過去から清二のブログを射貫く攻撃となって飛来して来たのである。晴明と清二の家系が、千年二千年の時を織りなして対立関係にあったことは、否が応にも認めざるを得ない。怨霊が身に迫ってくるなど清二には想像もできなかった事件だが、こうして晴明の血脈に潜む暗い過去が、清二を遡る代々の先祖の身にも現われて来たと思うと、宿根の深さに戸惑って仕舞うのであった。海中からやっとのことで顔を出して息を吸おうとしたとたん、河童に足を取られて水中に引き込まれてしまった。宿根は河童にとっても日の目を見ない深淵の闇であり、囚われの牢獄なのである。暗陰な世であればこそ、霊障的な世相も現われるのだと清二は思った。希望の輝きで光明の灯を照らせるなら、晴明と清二の闇は晴れて世相も変わるだろう。その時まで、苦痛に耐える気持ちを持ち続けることだ、と清二は思った。無限の時間が解決に導くまで、そっと灯明を忍ばせておこう。



                          心象風景 おわり




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心象風景 その4

2016-01-30 11:07:07 | 小説的随想

 独立と言っても自分のオリジナル製品を作るわけではない。自分でデザインした作品をプレゼントしたことはあるが、あくまでも趣味の範囲である。三〇年も続けた協力工場は偏に多忙の連続で、社長の愚劣さを容認しない間の三〇年であったか、若しくは容認しないまでも無視した三〇年であったが、どちらにしても実態は下請けに甘んじて、会社の利益に貢献してきたという思いはある。

そんな時に社長が外部協力者と幹部とを集めて説明会が催された。その席では突然の工場閉鎖の宣告であった。つまり生産の売り上げに対して人件費の増大が嵩み、これ以上経営を続けるのは難しいと言うのだった。これは口実に過ぎないのではないか?生産が極度に落ち込んだわけでもないし、億ションの不動産を手に入れて私財を積み増す余裕もあったのだから。

 社長が外部協力者へ閉鎖の宣言をした後に、其れまで黙って話を聞いていた清二が社長に話しかけた。「私が入社した頃に小包が届いたそうですね」古い事件だが一瞬まわりが静かになった。ただその一言であったのだが、明らかに社長の反応があった。清二が入社した頃に起きた事件で、社員宛名の郵便小包を猫ばばしたと噂に上っていた。社長の対応に戸惑いを見た清二は、息子への世代交代をして難を逃れようとしているのだ、と剛にはそのように思えた。

  閉鎖と同時に社長の長男が別会社を起こす手はずになっていた。社長は私を部屋に呼んで、「君が望むなら新しい会社組織で働いてみないか」と云うのである。建売住宅をローンで購入したばかりであり、ほかに手立ても余力もなかったので二つ返事で受諾した。
 工場はかなり遠方のK県の山中にあったが、高速道を利用して何とか納品することが出来た。納品日には往路を中央高速道路で走り、帰路は一般国道の曲がりくねった山間の道を、ハンドリングの切り返しを楽しんで走行した。採算度外視の観光納品と言った方が相応しい。
 暫くして前社長が死んだ。その一週間前に秘書の儀妹も死亡している。そこに至る経緯には謎がある。ここでは平氏が鳴門の渦潮に源氏を沈めた戦いがあり、共倒れの戦場だったのである。なぜなら会社も名目的にではあるが同時に潰れたからだ。しかし、その息子は形を変えて会社を再興する手はずを整えていたのだから、首根っこを押さえられている清二の立場は、頗る頼りない捕囚の哀れな存在でしかなかったのだ。

 清二にすれば鳴門の渦潮に閉じ込められて、藻掻いてもどうにもならない思いに長年浸ってきたので、一朝事あればなどと云う頼朝の気概からは随分と遠い意識に追いやられていた。浮かぶ事も叶わない海底に閉じられている身ではあるが、いつの日か陽の当たる場所に立ち返るのだと云う、暗黙の希求が清二の生を支えていたのは確かである。
であるから、この事を以て全てに終止符がうたれたわけではない。今起きていることは歴史の一ページに過ぎないのだから。

 過去を顧みて事象を追うだけなら歴史の傍観者に過ぎないが、歴史に巻き込まれた当事者にしてみれば、これが元で命の危険に曝された身である事を考えると、氷河期に死滅したはずのマンモスが、なぜ20世紀の現代に出現したのか??比喩的なこの問題には人類の謎が隠されているような気がする。この世には解らないことが多くあるようだ。ナンセンスにして解けない難題である。連綿と後世に尾を曳く、彗星のごとき冷ややかな触手で在処を探り、時代のほころびを縫って現われる亡霊。遙かに遡る太古の事変や、源平の争乱に潰えた栄華の残滓に浮遊する亡霊たち、過去に生きた人間の意思、魂と言うものが子々孫々に相伝して、相応の敵対者に報い得るものであろうか?

 清明と母親のように、強烈なインパクトで敵と味方を峻別する潜在力は、常識的には此の世のものではない。時代を超越して代々の血脈の中に隠れていて、時としてムラムラと時代の表層に現われてくるのは、それなりの時局の巡り合わせによって眼前の対象者に焦点が合ったときである。時代が平和で協調に彩られた社会では現われてこない現象であるから、よほど陰湿な時代を引き込んで延々と今日の情勢の中に、自らの居場所を保ちつつ潜んで来たものであろう。

 翻って国内では、戦争のない平和な時代から争乱の時代へと時局は動きつつある。持てる者と持たざる者の貧富の格差や、憲法の根幹に触れる九条にも手をつけようとしている。国論が二分される大きな問題であるから、時代の悪鬼は虎視眈々と行方を見つめているに違いない。未だに覇権争いに明け暮れるアジアの大国の行方はどうなるのだろう。資源を持つ国と輸入に頼る国の互恵関係はいつまで温存されるのか。大国と中小国の生存競争はナショナリズムに呼応して一層激しくなりそうだ。将来において水などの資源確保と食糧の分配問題では、凄惨な争奪戦が待っているかも知れない。大国による世界支配が崩壊して、新しい世界秩序が出来るまで混沌は続くのだろう。混沌とした時代だからこそ亡霊が闊歩する闇が存在するのである。歴史は繰り返して止まない。

 輪廻の永劫の塵芥を引き摺り、あるいは彗星のように光の尾を曳いて後世の闇に現われる悪鬼、それらは時代によって醸成され拡大していく。宇宙組成のマクロ現象が人間社会に波動を及ぼしている可能性も無視できない。地球規模の大変革期を呈している世界情勢を見ていると、もう一つの大きな生命組成体が存在して、宇宙の運行の中で連結しているようにも見える。それにしても今世紀は中山伸弥教授の多能性幹細胞、iPS細胞の再生技術が飛躍的に発展する世紀だ。欠けているものを補い、或いは新たに再生して元に戻すという、は虫類もどきの医科学が時代を引っ張って行こうとしている。スサノオと天照大神は喧嘩をしている場合ではない、蘇えって21世紀の神話を作ってほしい。

 







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心象風景 その3

2016-01-26 11:30:52 | 小説的随想

「なぜ来た!」先生から発せられた言葉に息をのんだ。
「霊なんて言うから・・・」先生の困惑した顔から、予想外のことが起きていると直感した。小さい声で「馬鹿!」と言ってから暫く黙っていた頭をもたげ、「もう帰りなさい」と私を突き放した。(やはり晴明は道を踏み外したのか?)
先生がこのような態度を見せるのは初めてであった。親近の情を抱いて指導を仰ぐ気持ちで来たが、先生のもとを退出して屋外の高台から海を見つめる眼も、茫洋と定まらなかった。胸の動悸は高鳴ったまま、おぼろに水平線を見つめていたが、暫くして眼前の島影に眼を移すと胸の鼓動もようやく収まって来た。眼前の島が露わになるにつれて、島を覆う全体の気迫が自分と一つになり、太平洋の大海原とこの高台の大地から立ち上る大気の抱擁を一生忘れまいと心に誓った。清二の胸の中に熱いものが流れた。

こうなる前に清明が自嘲気味に話したことがある。
既に二人の間には輝かしい気脈は脱薄して、清明の方が一歩引いていたのであるが、「俺がどのように変わるか君は分かっていない」と、ぽつりと言った。悲痛さはなかったが将来に幻滅した様子が窺われた。清二は返す言葉が無かったが、その意味を理解していた。運命の対極に存在する私を通して、彼は自らの運命を予見したのである。
もっと以前にもこんなことがあった。
彼の家には彼の他に誰もいなかったが、居間にあった蓄音機で一枚のレコードをかけてくれた。題名は覚えていないが彼の説明によると、絶望した少年が沖合の海に向かって何処までも泳いでいくという悲歌だった。この時に不思議な予感が頭をよぎったのを思い出すのである。彼も泳ぎが得意だった。海の家でアルバイトをしていたのも、彼には相応しい姿だった。海に育ち海の申し子のようにV形の胸元が眩しかった。


 いつの間にか清明少年のことは表面的には意識から遠のいていった。職場にすっかり馴染んできて、美術工芸品の製造ラインに組み込まれながらも、自分の将来に希望が持てるようになっていた。バラ色の夢といかないまでも、少なくとも今よりは豊かな生活ができることを信じて、仕事に精を出していた。夢を追うような淡い希望の灯が、微かに燈ったのである。
そのような情況が続いていたなかにも、清明への再起を願う気持ちが心の隅にあった。彼の将来に軌道を外す事など無いように、心密かに祈ることで私の心も救われていた。


仕事が一通りできるようになり、生活にも潤いが出て来たところで、女が近づいてきた。女は積極的に私の前に現れたが、或る使命感があったのと、女の方に邪淫な感性を観たので深く付き合うことはなかった。女は淡い輪郭を描いたまま別の男へ飛んでいった。     

清明に限らず眼に見えない対立が何処に起こっていても不思議はなかった。不運にも会社の経営者が清明と同じ壇ノ浦系だったので、職場の中にも渦潮が逆巻いていたのだった。私欲の強い経営者ではあったけれど、社員の福利厚生では毎年一度の一泊バス旅行を企画して、関東信越の温泉地を巡って来たのが思い出になっている。企画は当番制で社員が当たっていた。

問題も起こしていた。社員宛の郵便小包を勝手に開封して私物化したことや、技術的な特許申請で他社と揉めたことがあった。もっとも小包を開封した件は、ずっと後になって判明したことであり、在社中はあり得ないことと思っていた。10年後のふとした切っ掛けが元で、社長の義理の妹が口にした言葉、『返すように言ったのだけれど・・・』この言葉が清二の脳の中枢を刺激した。(・・・自分が知らないところで事実あったのだ!)何かとごたごたが起きやすい会社ではあったが、規制の緩い社風が若者を惹きつけた面もある。
絶えず新人の入れ替わりがあった流動性の強い職場には、若者の熱気と退廃が同時進行しているところがあって、良く言えばほどほどの自由な空気の中で仕事をしていたことになる。清二も当初はなかなか社風に馴染めなかったので、直ぐに消えていく流動社員の一人と見られていたようである。当の本人は10年間も会社に居続けて、すっかり板についた社員になっていた。


入社してから10年目を迎えたある日、社長室に呼ばれた。「君も10年勤続だな。社の方針として、長年勤続の優秀な社員の中から、独立させる考えがあるんだがどうかな」少し間をおいて「君より先輩もいるが、君が一番適当と思うのだがどうだろうか、君の気持を聞きたい」
社長の言葉が本心から『優秀だ』と思っているか如何かは疑問だが、「これも潮時かな」と思って応諾した。社長の声掛かりで工場を三鷹市に開設し、結婚したばかりの妻と夜遅くまで就業した。働けば働くほど自分たちの収入も増えると思っていた。確かに借金を返すほどに始めは良かったけれど、その内に社内幹部から特別扱いだと言う苦情が出て、あっという間に釉薬の単価が二倍に跳ね上がり、いくら生産してもぎりぎりの生活費を稼ぐだけとなるのであった。そうこうして30年も下請工場を続けることになったのである。美術工芸品の焼き物を製造する工場は、出来高に対する工賃制であるから、安い工賃で会社に上手く取り込まれることであった。製品を加工して納めるだけの自転車操業で30年が過ぎた。


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心象風景 その2

2016-01-22 20:57:26 | 小説的随想

 清明の母は東北の日本海に面した港町に生まれ育った。地元では有数の網元だったと云う。漁期には鰊がたくさん獲れた。多くの漁師を抱えて浜は活気に満ちていたが、代を重ねるうちに漁は細り鰊の浜揚げも減っていった。いつしか家運も衰退して祖父の代が最後となったのである。
今でも網元だった家はあるようだが、血縁は切れているらしい。子細は分からないが養子を跡継ぎとして迎えたからである。由緒ある旧家には血筋よりも家筋を大事にする家風もあって、何らかの事情があるにせよ清明の母は結婚して他の地に一家を構えたことになる。

 「お袋に言わせると、俺はお爺ちゃんに似ているそうだ。」母の云う祖父は漁師たちの面倒見が良くて、困っている人を見たら放っておかなかったという。誰からも尊敬されていたが、清明が生まれたころは既に亡くなっていた。

古風な旧家の坊ちゃんと云った清明の風貌は、祖父の姿を映していたのかも知れない。
何時だったか清明の家に遊びに行ったことがある。専門学校が夏休みに入ってすぐだったが、彼の家に電話をすると、「明日ならいいよ」ということだった。

 夏の暑い日差しが砂浜を熱していた頃だった。清明の家は湘南の海辺にあった。その日は清明と母親の二人が清二を迎えてくれた。清明は清二を母親に紹介すると、母親はにこやかに清二の前に立ち、家族の話や戦前は南方の島に住んでいたことなどを話してきた。「清明ちゃんは海の家でアルバイトをしているの」「女の子のお友達も多いのよ」何気なく息子の生活ぶりを話したのであろうけれど、一日を無駄に過ごしたくないと、暗にくぎを刺してきた言葉であったかも知れない。 一区切りついた後で「ご先祖は常陸国に住んでいたでしょう?」と突拍子もないことを言って来たのを覚えている。「そのようですね」とは言ってみたものの話の脈絡を測りかねていた。

その後の話で母親が言うには、昔「常陸の国の去る大名に仕えていて、移封後も日本海の東北で殿の御側にいた」と云うのである。
過去の栄華を懐かしんでいるのだろうか?とその時は思ったけれど、そうでは無いらしいことがだんだん解ってくるのである。過去のある事件、気の遠くなるような古い事件が頭をもたげてくるのだ。

 何かを探している・・・古い記憶を手繰り引きよせ或るものを追い求めている――直感的にそう感じた。その後も何度か遊びに行ったが、行くたびに最初に受けた歓待とは違うものを感じるようになった。紛れもなく清二を避けるような、よそよそしい対応へと変わっていくのである。
 清二が霊性に関心を示すようになったのは、清明の影響によるところが大きい。眼の前の情況に対応するだけで精一杯の自分が、遥かな過去に引き戻されて相手の出来事と向き合うなんてナンセンスだ。地球外の異次元の怪物に出会ったような驚きである。しかし、このような結果を招いたと云うことは、既に種はまかれて来たと解すべきだろう。
意識の有無に関わらずDNAに取り込まれた先祖からの遺伝子情報を、他者が覗き見ることが可能な情報としてインプットされているとしたら、膨大な容量のハードディスクが街を歩いているようなもので、危険この上もない。とても自分の責任に負えるものじゃない。
 どの様に思ったところで相手次第で展開する過去なのだから、こちらが防御する手立てはないのである。清明が初めの頃に話したことを繋ぎ合せると、先祖は将門や源平合戦の平氏一門に関わっていたこと、古代における出雲神スサノオの霊を祀っていることなど、歴史から見ればネガティブな話ばかりだった。

 古い記憶を忍ばせ、後々の世に引き継がれた陰湿隠微な復讐の力を、千年、二千年という気の遠くなる時間を超えて果たそうとする執念は、見事と云うか時代錯誤も甚だしく滑稽にさえ思える反面、これまで要した時間の長さを考えれば哀れに思う歴史の敗者なのだった。ようやく探し当てた仇敵をどのように処理すると云うのだろう。歴史に残る記録を改ざんすることは出来まい。こう思った後に、「待てよ、改ざんもあり得るのではないか」と思いなおした。清明は以前に「出雲スサノオの古事記を大和が盗った」と云ったのを思い出したのである。
 清二とは対極にある茫々たる歴史の軋みが、櫛名田比売(くしなだひめ)を救った出雲のスサノオや鳴門の渦潮に沈んだ平知盛の幻影を、否応なく渦中から引き揚げて現実の世界に連れ出すのであった。

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  心象風景 その1  邂逅

2016-01-18 21:39:32 | 小説的随想

過去を振り返ることは無意味なことではない。そこから反転して未来を展望する糧にもなり得るからである。過去を顧みて鏡面反射のように未来を予測するのは難しいが、経験から学ぶことは多い。
もし誰かに過去未来を透視する力が与えられているとしたら、人間の霊的な原始世界を覗くことも可能かもしれない。心の中を洞察することも可能となる筈だが、人間の領域を超えてしまう。

透視という特殊能力を持つゆえに、人の願いに沿って助言をし、人生の伴走者となる奇特な人もいる。ある人の家系が遥か遠い先祖から系譜的に見えてくるとしたら、常識的には「嘘だろう」「あり得ない」と一蹴されてしまうに違いない。「先祖は立派だったが親の代でだめになった」とか、「君は長男ではないが家を再興する役目を負っている」などと遺伝子レベルの情報を告げられたら、荒唐無稽だとして聞き捨てられるだろうか。その中に少しでも信じる内容があったなら、信じる人にとっては有意義な生きる処方となるかも知れない。要するにガンジガラメの状態に追いやられている人に対して、現状から這い上がる突破口を与えてくれる灯明の存在であるこのような人を、「霊能者」と言うのだろう。

遠い祖先からの霊脈を受け継ぐ選別された人のみが受け継ぐ特殊な能力者、霊能者と言われる方が二十世紀にはいた。自分なりにそのような人を『死者の眼を持つ人』と定義づけている。

この特殊霊能力と云う判然としない能力は、後天的に備えた経験に基づく推察や、先人の知恵の蓄積に依存するといった現世的なものではない。生まれる前の胎内で、遺伝子の流れを潜って着床したものらしく、神秘の世界から降下してきたのでは?と思わせる異次元のものだった。

心身を鍛錬して宗教家のような洗い清める所作を経て、おそらくは長い修練を積んだ結果なのだろうが、目の前に静かに座っている方から放出される見えない力の霊的感応をひしと受け止めながら、静謐な気の授受を執り行う。魂の浄化に他ならないのだが、再び生まれ変わることが仮にもあるとするならば否定する理由は何もない。
巷には占いをして衆人を惑わす人もいるけれど、占う人を選別するか避けるのが無難のようである。どのような人にも祖先との関わりがあり、『死者』は近い存在だと思えるのだ。
清二は占いと云うものを信じていないが、特殊な領域に身を置いている方の霊能者の力は信じている。

「先生!私の霊を見てください」これが全ての発端であった。
海の見える高台の一室で、先生はじーっと清二の眼の奥を手繰るように覗きこんでから、ホッと軽く息を継いで言った。
「清ちゃんは、もとは京都にあった〇〇の〇〇で直系だ。武家〇系の公方さんのあと、大名~~~代官そして最後が庄屋だった」――代を追うごとに先祖の下降運を覗かれてしまったが、すんなりとその言葉が理解できた。そのことは一部に未知の部分があったものの、清二の内に秘めていた既知の事実であったからである。

「先生を知ったキッカケは、美系専門学校に入学した時に後ろの席にいた少年が話しかけてきたことに始まる。彼と付き合うようになってから、彼の口から先生の存在を知るようになったのである。少年の名は「清明」と言った。清明もまた霊感の強い人だった。歳の割には大人びた物言いや見方をして、自分の中の霊的な存在を信じて疑わなかった。断言的なところはあったが少年にありがちな純な心情も持ち合わせていた。
彼は清二のDNAの中にある霊性に興味を持ったらしく、清二の先祖について聞きたいと云う素振りが見えた。そのためか、その前に清明の母親の家系を話してきた。

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NHK大河ドラマ

2016-01-14 17:02:35 | 随想

NHK大河ドラマ『真田丸』が10日スタートした。前宣伝が絢爛たる幕開けを予報していたように、スタートから戦雲急を告げる展開である。織田徳川連合軍に対する甲州軍団率いる武田勝頼の敗色濃い展開は、やがて天目山への敗走と自刃を滲ませている。勝頼公の菩提寺、曹洞宗天童山景徳院には勝頼と共に夫人と子の信勝が弔われている。信勝は死ぬ前に父自らの手で元服式を済ませたと言う。また三体の首なし地蔵が祀られているのが哀れを誘う。この寺は勝頼主従の菩提を弔うために徳川家康が建立したと説明板にある。

戦国時代も終末期を飾る一大ドラマとして、武田一族の盛衰は花火のように光輝を放っている。しかし此処にも時代の変遷についていけなかった老雄家系の哀れさと云うモノが、現代にも問いかけているような気がしないでもない。
それに比べて織田信長の出来は、機を得て妙な力を発揮した稀有の存在と云うのであろうか、歴史が生き物のように人物を配したエポックそのものと云う感じがするのである。こちらこそ華々しい線香花火の燃えたぎる一瞬を連想させるものだ。
『真田丸』が何処かに行ってしまった感の書き出しになってしまったけれど、信州の小国でありながら大坂と江戸を両天秤にかけて、どちらが勝っても生き残れる道を考えた昌幸の苦渋と、そこに至った思考過程に時代を超えた知恵を感じもし、常識に囚われない自由な発想があったと観るのである。

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年頭所感

2016-01-07 14:59:32 | 随想

今年も年初から荒れ気味の内外世相であります。
新年の初詣からして、パッとしない雰囲気がお賽銭箱の周りに漂っていた。
お願い事も強いて言えば家族の健康祈願のみで、我がことは玉が転がるが如、成り行き次第と相成りました。

毎年来ていた賀状がプツンと切れた人の身の上を案じて、そろそろなのかな?と思ったりして妙な納得を得ています。
大きな時代の波が世界を覆う時、『いつか来た道』が繰り返される予兆を孕んでいる。一たび転がり出すと止めようがない。
異常気象と食糧難の到来は、そう遠い将来ではないだろう。
北朝鮮が水爆実験に成功したと言う。米国は懐疑的だが、日本政府はかなり動揺しているようにも見える。
紛争は鎮まるどころか多発している現状は、正月気分に水を差すものだ。昨夜も濁り酒を飲み過ぎて悪酔いしている。
今日は七草です。奥ゆかしい日本の伝統行事を大事にしたい。もう食べました。

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新年のご挨拶

2016-01-01 17:11:44 | 日記

明けましておめでとうございます。

元日晴れの幸先よいスタートがきれました。
お天気のように、皆さまの初詣祈願も成就されますように
お祈り申し上げます。

賀状の一枚一枚を、名前と顔をすり合わせながら
お節を頂きました。

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