心象風景 その5 ー過去との遭遇―
常陸国(現在の茨城県)は関東の外れにある。と言ってもその歴史は古い。朝廷の勢力圏からすれば、任命を受けた国司が赴任する最果ての地であり、その奥には蝦夷の支配する陸奥国が控えていた。
早くから桓武平氏の根づいた地でもある。将門が関東一円を荒らしまくった承平の乱も、平氏一族の内紛が発端であった。地元に根づいた国司の子孫が起こした争いでもある。将門に父国香を殺された平貞盛は、藤原秀郷と共に将門を誅殺して、平氏の中核に躍り出ることになる。貞盛の子維衡が伊勢に移り住んで伊勢平氏の始祖となり、やがて清盛の時代を引き寄せる端緒となるのだが、その根源は常陸国の原野を、思う存分に駆け巡った祖先たちの、野性的な闘争心を培ったお陰ではないだろうか。
平氏一門が関東一円に勢力を広め、鎌倉を中心とする有力な豪族として活躍して来た。源頼朝が武家の棟梁として鎌倉に幕府を開いてから、源氏の優位性が高まったこともあり、関東の地にも甲斐武田氏や上野新田氏、下野足利氏など源氏流が力を発揮してきて、花の乱の戦国時代を迎えることになる。
戦国時代の常陸国は清和源氏佐竹氏が領有していた。戦国時代の末期にさしかかった頃、ある事件が起きたのである。佐竹(義瞬か)は隣国を侵略して強大な勢力を誇っていた。そのような情況の中で佐竹四天王の一人、大塚掃部介国久という武将に降りかかった災難なのである。
掃部介に良からぬ思いを抱いていた佐竹公の陪臣の一人が、掃部介の人となり行動に疑念があると、佐竹公に告げたのである。掃部介は常陸国の北部にある多賀庄を治めていたのであるが、白川結城氏の領土と隣り合わせであったことが災いしたらしい。陪臣の眼には、掃部介と云う武将が目障りで、天敵のように存在を認めたくない敵対心を持っていた。戦いでは前線で指揮を執り、神とも崇められていた掃部介の器量が、腹の底から疎ましく感じられて見るのも嫌であった。そのような折に噂が流れたのである。
戦いに明け暮れていた時代でも、隣国との間に義理が絡めば、相手の領地田畑を荒らさない暗黙の了解があった。手加減をするのである。掃部介にもそのような義理があったのか、結城氏領内での噂が陪臣の耳に入ったのであった。
掃部介と結城氏との間に何やら関係があると告げられた佐竹義瞬公は、掃部介を呼んで問いただしたが納得のいく説明が得られなかった。掃部介には養子説があって、他所から貰われた子だというのである。その辺の仔細も聞いてみたが、ハッキリしたことは分からなかった。
掃部介自身には深い謎があった。確証はないが後世の説によると、掃部介は小山氏の子だという。大塚氏は何代か前に佐竹公と主従関係を結んでいた同族であり、小山氏や結城氏といった藤原氏出とともに重要な国の守りについていたのである。また鎌倉公方の持氏との絆が強かったことも、謎を深める一因になっている。いずれにしても小山氏の子であるならば、佐竹公の疑念は生じないはずである。大塚氏の子として成長した国久は、佐竹四天王の一翼を担う大将として、常陸国の北辺を守ってきた。陪臣の眼にはその辺の経緯が謎として映っていたようだ。
戦国時代に主従関係を疑われるとなると身辺は穏やかでない。佐竹氏系図のなかに『この者出自を詳らかにせず』とあるので、養子縁組には、かなり入り組んだ背景と謎を生む境地があったのであろう。
佐竹公の疑念をうけて多賀庄に居ることはできない。多賀庄どころか身辺の危惧を思えば、常陸国から出ていかざるを得ない状況に追いやられた。この窮地に手を差しのべてくれたのが、奥州白川の結城氏だったのである。
常陸多賀庄を出る決意をすると、北方の山間地より結城氏のもとへ向かった。結城氏とともに佐竹氏の領有となっていた南郷の羽黒城を攻め落とすのである。羽黒城は元々結城氏の管轄領域であったが、佐竹氏によって奪われていた山城である。国久の攻略によって本来の領地に戻したことになる。再び羽黒城は結城氏の保護領となり、大塚氏の居城となって最前線の防御戦を担うことになったのである。国久は羽黒城主となってからも源氏を名乗っている。
時代は遡るが常陸の大塚氏の祖は、鎌倉公方の足利持氏にかなり目をかけられていたようで、太田亮著「姓氏家系大辞典」の大塚条にも鎌倉には恩義があったと記されている。上杉禅秀の乱を鎮めた報酬として、禅秀の領地を拝領したことを指している。鎌倉公方の持氏は将軍後継争いで、京都の幕府側に敗れて自害したが、子の成氏は助命されて後に鎌倉公方になる。兄の春王丸や安王丸は、関東の有力者である結城氏の保護の下にあったが、幕府との戦いに敗れて二人とも首をはねられてしまう。また末弟の4才男児が京都から鎌倉に向かったとも言われるが、その後の消息はわからない。このような時代背景の中で、国久が幼少期を迎えていたことになる。さて、何処にいたのだろう。太田氏の推定するように小山氏のところか。
国久が羽黒城を落としたとする永正二年(1505年)を基点に考えてみると、武将として四天王として名実ともに最盛期にあったとすれば、三〇代半ば頃ではなかったか、と推察するのである。それから逆算すると大まかな幼少期の年代が分かってくる。鎌倉公方や古河公方との関係は知る由もないが、小山氏や結城氏、大塚氏の関係からみると、どうやら背後関係に歴史がうごめいているのを感じるのである。
国久が羽黒城主となっても源氏を名乗っているのを見ると、故あって小山氏から大塚氏の養子となったとして、その後は佐竹勢の一翼を担う四天王の一人になっていた訳で、相当の力量を発揮していたと思われる。常陸との縁が切れた後も出生本来の源氏である大塚姓をそのまま使っているところを見ると、出生家系を名乗ることもできない由来が介在していたのかも知れない。
白河結城氏は会津蘆名氏と連合して南部一帯を支配していたが、北は須賀川の二階堂氏、東には岩城氏、南に佐竹氏と云うように戦国特有の蛮勇割拠の挟撃にあって、常に領土を脅かされていた。それぞれが離合集散を繰り返して自国領土の拡充に血眼を上げていたからである。国久は永正二年に南郷の羽黒城を攻略することで初代の羽黒城主となり、越前守吉久―大膳大夫久綱―宮内左衛門尉と四代続いたが、天正年間佐竹氏の大軍勢によって攻略され、南郷はおろか白河も進略されて、白河結城氏も佐竹氏の軍門に降って国境の争いはついに終幕を迎えたのである。
戦国時代が終わって徳川家康の治世になると、大阪の敗將石田三成と関わったとかで、佐竹義宣は秋田に移封されてしまう。佐竹氏が結城氏や大塚氏を滅ぼしたことで、国久を追いやった陪臣にとっては、眼の上のタンコブが取り除かれたことになる。しかしその代償として酷寒の秋田へ移封されて、減封と耐乏を忍ぶ境地へと変転するのは、因果と云うべきであろう。
徳川幕府の体制も固まって南郷は幕府直轄の天領となり、白河は丹羽長重や松平定信等の親藩が領した。最後は二本松城の管轄に置かれて幕末に至った。白河が松平氏の封地になったころ、佐竹氏に駆逐された結城氏や大塚氏はどのような身の振り方をしてきたのだろうか。大塚氏は何代か後に白河藩の御典医として代々勤め、江戸後期の天保年間まで命脈を繋いできた。おそらく結城氏も同様な経緯を迎えたと思われるが、直系筋の一子が秋田の佐竹氏に仕えたという記録もある。
世にもおぞましい血脈の争いが、絶えることもなく続いてきた。佐竹公のもとで陪臣が放った讒言の一矢が、晴明のブログを通して飛び交い、500年もの過去から清二のブログを射貫く攻撃となって飛来して来たのである。晴明と清二の家系が、千年二千年の時を織りなして対立関係にあったことは、否が応にも認めざるを得ない。怨霊が身に迫ってくるなど清二には想像もできなかった事件だが、こうして晴明の血脈に潜む暗い過去が、清二を遡る代々の先祖の身にも現われて来たと思うと、宿根の深さに戸惑って仕舞うのであった。海中からやっとのことで顔を出して息を吸おうとしたとたん、河童に足を取られて水中に引き込まれてしまった。宿根は河童にとっても日の目を見ない深淵の闇であり、囚われの牢獄なのである。暗陰な世であればこそ、霊障的な世相も現われるのだと清二は思った。希望の輝きで光明の灯を照らせるなら、晴明と清二の闇は晴れて世相も変わるだろう。その時まで、苦痛に耐える気持ちを持ち続けることだ、と清二は思った。無限の時間が解決に導くまで、そっと灯明を忍ばせておこう。
心象風景 おわり