<人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ>
もの言えば唇寒し秋の風 芭蕉
このコロナ禍の最中に、コロナ対応が不十分だったと集中砲火を浴びた菅首相だが、一方で当人の事跡を当人が披瀝して、有終の美を飾ったかに見える菅首相。
我々もそうだが、一国の宰相もまた芭蕉さんから見れば、途上の人と笑われそうだ。
全ては結果に現われる。世界が混沌として秩序崩壊の序章にあるとしても、ウィルスの生存維持レベル以上の人間知を獲得している我々だから、危機脱出の手段を見つけるに違いない。今こそ偉大なリーダーの出現を待ち焦がれる、と言っても、危機は未だ序章に過ぎないので、さらに困惑の度合いが高まって後に、窮余の展開となるのか。かつては英雄待望論とかも時局の話題になったそうだが、どうも胡散臭い感じがしてしまう。
今はただ、「無い袖は振れぬ」心境で、最悪の結果が出ないよう見つめている。
旧暦上の中秋の名月と、月齢上の満月が8年ぶりに重なりあうというので、母娘は団子を作り早々に夕食を済ませてから月の出を待ちました。6時を少し過ぎた時点では斑な雲が連綿と東の空にかかって、見頃となる上空に達する頃には果たして見られるだろうかと気を揉ませたけれど、7時半頃のベランダに出てみると、雲は切れてまん丸の月が煌々と照っていた。月の照射が雲を照らす中を、横田基地の大型飛行機が旋回しつつ低空で月見としゃれて帰投したのは粋か無粋か。
今宵の名月をブログに載せるのは、何となくC調の趣きもあるけれど、「ブルームーン」が偶然に撮れたので載せてみよう。
アメリカは日本をどの様に利用しているのか、将来にわたってどの様に利用しようとしているのか?日本は国として主体性を持っているのか、未来の子供たちに何をレガシーとして残していけるのか?戦後数年経った頃、米国から見た日本人の精神年齢は13歳と揶揄されたことがあった。当時としては先ず食べること着ること、一家を支える職場があってこそで、高邁な精神性等というものは、敗戦の虚脱感と打ち萎れた被占領国の従属性にひたすら忍従していた時であったから、とても身につくはずもなかっただろう。あれから75年、朝鮮動乱を経て日本経済は復興期に入り、国防力を押さえても経済発展に力を注いだことで、ものは豊かになり生活は向上した。望むものは手に入るようになったが、置き忘れてきたものもあった。国としての主体性と尊厳である。今日、国際情勢は混沌の中にあり、アメリカの威信も傷ついている。世界に出て行く余力はもう無い。内を固める米国の政策から、従来の権益を温存し、影響力を持続させるためには、同盟国にも応分の支出を要求する。獲得している権益は膨大な基地と自主運営の都合良さ。軍事的には有無を言わさない、強権的な外国支配そのものである。ここに沖縄の基地問題や内地の米軍基地で、許されない行為が起きている。環境汚染問題だ。
ましてや、外国の航空管制空域を我が物同様に支配している、横田管制空域は誰が見ても前時代的な遺物であり、日本の政治家は国民がどうのという前に、己の力不足を嘆くべきだ。
パラリンピックが去って政局喧しい総裁選の動きが出てきました。安倍政権を引き継いだ菅政権は予想通り短命に終わるようです。安倍カラーは国民にとって飽食気味のところ、それを引き継いだ後は何の独自色も出せなかった菅総理なので、期待が集まらなかった。政局を支配していたのはコロナの影、黒子が見えつ隠れつから堂々の白昼舞台に躍り出て、主役を袖にする今様の戯画だと云っても笑えない話だろう。総裁選で誰が総理になろうと、コロナに変わって主役を取り戻すのは無理難題である。
夢の如く幻の如く、パラリンピックは影をひそめて、文字通り幻影となって瞼の奥に映し出されてきます。ハンディを背負いながらも、持てる力を十分に発揮して戦った選手たちの感動場面がよみがえる。感動を呼ぶものは何だったのか、と自問してみると、自分の限界に挑む、チームワークで他者と競り合う、オリパラ共通しているこれらだけの要素ではない何かが、競技を見ている私たちに訴えてくるようだ。「制約された環境」にも拘わらず、私たちの予測を超えた精神的パワーが、私たちのハートを射貫いたからではないか。吃驚すると同時に尊敬の念が湧いてくる。観戦者の我々は持てる力を十分に発揮していない凡庸な存在なのだと気づかされる。自分を精一杯生きると覚悟するのは、後々の黄昏人生になってからで、物事に一所懸命に対処する気概も色褪せて、落日のごとく沈んでいく。
一般大衆の感性は、明日への希望に寄りかかっているので、現在という時間は悠長に過ぎてしまう。切迫感が乏しいと言えばそれまでで、為す術もない。