民主主義の危機が叫ばれて久しい。世界経済の牽引は中国を中心としたアジア圏に移って来たことで、これまでの米国の繁栄は陰りが見えてきた。米国はベトナム戦争、イラク戦争、アフガン紛争に介入して、結果的に失敗に終わった。この世界の紛争地に介入したことで人的にも財政的にも疲弊して今日に至っている。世界の覇者としての他国への干渉には、もはや余力がない。経済や世界戦略の構成を見直して、自国の屋台骨を立て直すため、国外への出費を縮小して、国内の産業強化に走ったのがトランプ政権ではなかったか。自国の経済を優先するあまり、相手国にたいしては強権的な貿易交渉で譲歩を引き出したり、国家安全保障の基地問題でも負担率の底上げを求めてきたことなど、なりふり構わない米国の変わり様が目についた。成り行きを注視してきた日本や西欧の陰で、ロシアや中国の指導者たちは自国との立ち位置を計りながら、米国の力を凝視しつつ、折りあらば世界に躍り出る機会を伺っていたに違いない。そしてプーチンの『頃は今天が下知る五月かな』となって、ウクライナへの全土侵略への狼煙が上がったのだ。賛同するものは消極的ながら中国と北朝鮮ぐらい、ベラルーシはロシアと一体だから別格だ。それにしてもロシアという国は大きい割に、あまりにもローカルな存在だと思うのだが、欧米のように歴史の表舞台で輝くコトもなく、光りが弱い。北方の熊と恐れられた畏怖の象徴のような歴史が、暗い沈着の色を湛えているからなのか?ロシア民族文芸には素晴らしい遺産があるのに残念である。ソビエト時代から民主国家ロシアとなっても指導者の素質は旧態のままで、自分に背中を見せたからと言って、隣家に土足で踏み込んだのが、ウクライナ侵攻の悲劇となっているわけで、独立国の尊厳と選択の自由を踏みにじった蛮行と言わざるを得ない。「ウクライナはロシアがあつて成りたつ」と言ったプーチンの言葉は19世紀以前に生きた人の戯れ言に過ぎない。核戦力の「特別態勢」を指示したと有っては、まさに狂人の言である。
今月初旬にコロナワクチン接種の3回目を打っていただいた。わが家ではアレルギー反応の心配から打てない者もいて、外出には特に気をつけている。マスクは当然のことながら、出来るだけ人混みを避けるとともに、外出後の手洗いと嗽は欠かさない。最近の感染者急拡大のニュースなどを見ると、コロナに対する危機感が鈍麻しているように思える。若年層の罹患者が増えて、高齢者の死亡率も高くなっているのは防疫体制に穴があるからで、患者を自宅待機させる処遇が、結果として患者を医療から遠ざけている現実であり、政府の政策そのものが医療の後進性を端的に示していると解されても仕方がない。湯水の如く補助金をばらまいて最後に残るものは何か。
混沌とした世はぞれぞれの国を分断する。そして一国の事情は内向きになって、連帯よりも自国の利益優先に走っているのが、時代の陰りをいっそう深くしている。グテーレス国連事務局長も嘆いているように、世界をリードする大国が協調性を持たないから、『地球規模の課題を解決すべき時に』解決できないでいる。『持続可能な開発、すべての人の人権と尊厳といった共通の望みを解決するには、改革が不可欠であり、国家主権の問題を考慮しなければならない』今まさにウクライナが危機の中にある。
日々の出来事は個々人の意識の内縁に打刻して通り過ぎていく。早鐘のように急ぎ足で過ぎ去る『時』の背後で、置いてけぼりの『今』が何故かリアルに鼓動して安らぎを与えてくれるのは、せめてもの老境者への時の慰労か。というのは横断歩道を渡るタイミングのずれ込みに過ぎないのだが、確実にゴールに向かって一歩一歩前進している。
幸いに肉体の軋みはさほど無く、至って元気なのが取り得であるけれど、相応の物忘れがピンポン球のように老夫婦の間を取り持っているのは、確実前進の証左ではないか。性分とも言えるけれど、記憶の貯蔵庫を執拗にまさぐっている内に、閃き返ってくるのがせめてもの救いだと、敢えて前進を引き留めるブレーキも自認している。それにしてもパターン化した日常は、料理を作るのは妻であり、片付けるのが夫というシンプルな関係が家庭の平和を保っている。