初めに
桑名図書館所蔵のデジタル版をダウンロードして、「白川古事考」をずいぶんと温めてきた。広瀬典さんの謙虚で誠実な文面を拝していると、傍らで典さんの息遣いが聞こえてきそうな親近さを覚えるのである。江戸中期の白河を中心とした広域の古事伝承を集めたもので、老公松平定信公の命により当時としては大掛かりな歴史文書の探索と記録の保持の大役を受け、広瀬典が老躯を押して取り組んだものと察せられます。
古文書の文体と内容を損なわずに出来るだけ本意のままに心掛けたという典さん、頭が下がります。ただ、どうにも江戸時代の表現様式ですから、現代人には読み込むのが苦痛です。古文書の成文はそのままに、広瀬典さんの解釈だけを出来るだけ意に反しないように心掛けながら、現代文に近い形で訳してみました。不肖の文面でありますから先が覚束ない面はご容赦ください。
白川古事考一<広瀬典に触れる>
白川古事考序
國之存古事。政也。治今為経繹古為律。而後俗厚風正矣。故雖以蕞蛮國。苟(いやしくも)存典則明於文物。別重於当時称於後世也。不然別土宇広𤄃。人煙蕃殖。亦(又)不可視以為夷撩能興之地。有今而知古之國。在自古君道立於上。政教修明。則必有編集之挙。使民通於古。而用於今。甄陶開済。得以達村焉。我白河之称為名郡。久矣。奥羽二州。居天下疆界之少半。而白河扼其興天之六十余州。径還南北之所径由。在于治世。則為名勝之区。名公臣卿。題詠相臨。在于最年。則為要害之郡。塞以一丸之渥。能支吾十葉之軍。未戦。而知其不可攻。其不知盛乎。土人記傳。甞(かつて)有往昔記。写物語耳。率皆沿襲。三編猶一編。自天文。至天正六十年間。有二三事実之可取。安能在存其古事乎。前者 官命下諸侯。撰封内風土記。我公使臣典 等預其事。卒業奉献。於是。我郡始如人開耳目。聞見不蔽(ふへい=遮らず)壑(たに)走其所走。山立其所立。而又人事之未属煙汲者。如宗広親光之忠壮奮躍。百目木修理亮之視危授命。政朝之文藻都雅。標々能而出焉。然体裁異冝。検閲各便事不以類従。地限封内。故此編衍封内之所限。以及一郡之全。推一郡之全。以極他郡他州之所干渉。頗役束月之力。収集録之功。唯帳稀疎歴落。或曠数十年。得牝失牡。有頭無尾。合浦之珠。雖或有還。延伴之剣。率正難合。方今賢明在上。人文隆盛。風俗律儀。可以耦吾支固多。須及迄捃摭輯録。弁為古事于後世也。窮惟
官之所以修風土記而
公継命此選者。盖無以是乎。臣典瀀幸従事于斯奉。日取紙墨掲国光。非金石而謀永傳。
上奉選述之栄命。下馳好古之私情。然恐才識淺短。聞見寡狭。徒足當菟園之𦾔册。而不得備邦國之墳典也。
文政紀元元仲冬念一日
白河藩臣廣瀬典謹撰(押判)
白川郡当今境界図
予(典)は久しい間、白川郡全図を探索していたが、世に未だ図を作る者が無かったので得ることはできなかった。西北半片は白河釜ノ子(榊原候の陣屋の在所)に属して其の図は元よりあり、近頃棚倉の小笠原候が肥前国唐津に封されてより、(白河)侯の蔵する図として東南半郡を得ることができた。よって二図を合せるために、自ら当地に至って取捨増損(取ったり消したり)してこの図を作成したものである。
猶、恐らくは過誤もあるかと思う。但し大概の形勢を知るには一助となるであろう。
白川古事考巻之一
その1
郡名建置郡界を定める
我が白河の名は何れの時に始まったのか不詳である。元明帝が六十六カ国を分け建て郡界を定めておられるので、その時より郡を成されたものと思う。名の由る所は今の下野の境なる旗宿村の南端にして、古関跡の下を流れる小流を白河(川)と云い、此の水名より地に及ぼして土地の名とし、また土地の名を郡に及ぼして郡名と成されたものであろう。
一、続日本紀
『元正天皇霊亀二年夏巳未割常陸国之石城標葉行方宇田亘理菊田六郡置石城国割白河石背会津安積信夫五郡置石背国』又
『聖武帝神亀五年(頼長国史には四年とあり)陸奥国請新置白河軍団又改舟取(類聚国史作に名取郡)軍団為玉造軍団弁許之』此れこそ白河の名、古(いにしえ)に見えてくる始めである。
按=旧事記国造本紀に白河国造の下に『志賀高穴穂朝御世天降天田都彦命十一世塩伊之己自直定賜国造』とあるのは、神亀霊亀よりは遥かに溯って古ではあるが、此の書は後より偽造されたもの、との論もあるので確証にはなり難いけれど、按中(考察)に載せて考古の便益とする。又和漢三方絵図は俗書にして引証(元の書を証明する)の書さえ詳らかではないが、関の事が記してあり
孝徳帝の御世に白川の関が始まったと記録されるこの事、若し事実であれば是もまた霊亀よりは古となるであろう。
一、令義觧(解)には軍団毎に大毅小毅などと云う官を立て、長(おさ)を置いたとする事が見える。奥州は古にて蝦夷の警備多く、武を備えるにも他州よりは厳しく具えたであろう。
これ等の長官は他の軍団にすら設けられるのだから、白河は固より置かれていたと見る。従卒の員数は総て定かではないけれど、
王朝の制は、多分李唐に本づき建設されたものであるから、国志に見えている『凢天下十道置府六百三十四府士以三百人為団〝有校尉云〟』に依れるならば、其の数三百人の従卒はいたと思われる。
(「白川城東二里余借宿村に古瓦裂砕きしめ集めて土手をなせし」は、軍団十と有った地であろうか。土人(土地の人)は古の星の宮とか云われる人の宮居の跡と云うけれど、別に詳らかなる事も伝わらず、借宿と云う事も朦朧(漠然とした)の説く傳會(伝承)として取るに足らない。考えてみると、軍団の兵数に加わった人々の多くは、此の地の人ではなく、例え此の地の人だとしても我が家から出て営中に入るのであるから、借りの居住という義を以て名づけたものか。他国において借宿と云う地名を聞くかと云えば、其の古事を聞かないかぎり相証するべき事もない。下野那須郡小屋村は頼朝卿の狩り場の跡であり、駿河駿東郡の御狩場は頼朝卿の御殿の跡地である。古より一時の家屋を作ることに因って村名となることが多い。借宿も其の類いではなかろうか。)註*()内は見者の立場で述べた典の解説。
一、本文に載せている旗宿村のこと、白河の西二里許りの所に黒川という水あり。白川とは白黒の対比にあって、考証として為せるかどうか、探索を費やしてみたが異なる口碑もない。其の川の側に黒川という人家が在ったので尋ねると、天正四年小田倉村の農夫藤兵衛半十郎と云う者が開発したと云う。其の頃の会津黒川は蒲生氏郷の故郷、近江の若松と云う地名所を慕い、黒川を改めて若松と名付ける。(蒲生軍記には伊勢の松阪より会津へ来り、松阪を忘れ難く若松と云うと也)
然として此の新田会津領の果て、下野の国境の村に若松の旧名を名付けたとある。
去りながら村こそはそうであっても、水名は是より先に黒川と既に云われて、文明年中の道輿准后の四国雑記に「下野の内にて此の黒川を渡られた」事見えているので、天正年中に始まるものではない。此の水は白河郡の西南隅、下野と堺なる赤頬山より出て東流する四里程はこの川を以て國界とし、畔界の意にしてクロ川と名付けたものではないか。後に黒川と書いてから白川に対する疑いも生じたものか。(会津にある黒川は郡界を流れる川であるから、クロき義には当たらない)
一、土人の説には白河の名は後白河帝が此の地の形勢を御巡覧なされて、平安城に似ているとして白河の名を給われた。勅名の地と誇れるけれども、其れよりも昔よりの名である事は既に上に挙げたように著わしてあるので、書籍など読まない人の言伝によるものではないか。形勢は実に京に似ていると言える。又土人の説によると、後白河帝の蹕(ヒツ=さきばらい)を此の地にとどめられている所は、今は王村であると云う。和名抄より大村の名であることを知らない故である。
一、四十八代
称徳帝神護景雲三年三月辛巳陸奥国白河郡人外正七位上文部子老賜姓阿倍陸奥臣同郡人外正七位下靱継人賜靱大伴連
一、五十四代
仁明帝承和干年十一月庚子陸奥国白河郡百姓外従八位上勲九等柏造智成戸一𤇆改姓為陸奥白河達 同帝嘉祥元年五月辛未陸奥国白河郡大領外正七位上賜姓阿倍陸奥臣(「按右四人の事跡は考える所なし」本文は縦書き)
一、延喜式兵部省陸奥国伝馬、白河、安積、信夫、刈田、柴田郡各五疋(以上三条の記は、白河の郡名が出ていたので考察するための備えとする)
一、東鏡二位殿禁裡へ奉り給う事書と云う中に
一、陸奥の白河領事(もとは信頼卿の知行、後は小松内府の領)
按信頼卿は宇治の悪左府ではないだろうか。小松内府は平重盛公であり関門の部に載せたように、頼時以来清衡等白川迄押領したとある。あるけれど、此の譜のように紳家の知行も交じっているのを見ると、郡史庄官等が何度も下っているので治庁の造営
もあったのであろう。
一、古文書(下に載せた)それぞれに白河庄が見えているのは、頼朝卿より後に結城七郎へ賜わった地名であり、白河郡の境界とは広狭も異なっている。
郡界沿革(当今名目付)
一、続日本紀
元正天皇霊亀二年夏巳未割常陸国之石城標葉行方宇多亘理菊田六郡置石城国割白河石背会津安積信夫五郡置石背国
按=この文に拠れば此等郡々は常陸国へ属して、奥州に属するものではないと云うに似ている。恐らくは陸奥を誤って常陸に作ったとする外に明証なし。石城は今の岩城であり、石背は今の岩瀬である。この二国が置かれた時は白河郡も石背国の内に属していたものか、また幾程も経ないうちに此の建国の事が廃されて陸奥国の郡に併せられたものか、延喜式にはこの郡々を加えて陸奥国三十六郡と見えている。
一、源順が和名抄に、白河を二カ所に載せて一カ所は延喜式の如く三十六郡の一として、一カ所には白河『之(し)良(ら)加波(かわ)ノ國分テ為高野郡今分大沼河沼二郡』と、
之良加波を郡とは言わず國と云って注書している。
按=注書誤ることを会津四家合考に論じて、「之良加波ノ国分テ為高野郡マデ十字ハ此注ニテ下八字白河ノ注ニ非ズ」と云う、大に是であろう。白河と大沼河沼の地勢に隔たりがあり、白河を分けるのではなく、高野郡を分け合う事を別に考える。白河を国と云うのは郡をグンと呼んで国(クニ)と誤ったのではないだろうか。
一、又、和名抄に白河の郷名を載せている。
白河郡、大村、丹波、松田、入野、鹿田、石川、長田、白河、小野、駅家、松戸、小田、藤田、屋代、常世、高野、依上
按=和名抄に載る白河郡は陸奥を三十六郡に分けた郡であるから、境界も今の五十四郡よりは広大であったであろう、この郷名のうちで今は他郡となり名を改めたのもあろうと思う。今知っているのは「大村」、白川城東に大村あり。「入野」、棚倉城の地を土人が今イノの郷またはイノの庄と云う。古の入野である。「石川」、今は一郡の名となっているが、数十村を管掌して郡となったもので、昔は郷名であった。石川が其の界を広めて郡となった故は、源太有光より世々此の地に居て、足利家の中頃より天下何方も兵勢の強さに任せて土地を争奪するのが常のことであったので、広狭伸縮の時に応じて域は異なるけれども、天正の頃の石川昭光は、始め佐竹に属し後には伊達に随って東は岩城と戦い、西は白川と争うことで領内も広狭いろいろ変じたのであるが、界を広めた石川家の領する地を石川郡と定められたものであろう。慶長前は石川を多くは庄と称していた。しかし古い時にも郡と云った文書もある。(古文書略)
(石川の項中断)
「屋代」今は社郷と称して数か村ある。「常世」棚倉の東南に当たり数か村ある。農民今にトコ世の郷と称する。「高野」「依上」別の部に出す。その他は今の世に至って所在を知らず。
(和名抄外の古文書等に郷保等の名あり、各その文書に即して現今存在の地名を證するので、ここには記載せず。)
一、当今の名目、「竹貫郷」岩城へ境して十三村あり別に出す。「赤坂郷」別に部を出す。「南郷」「北郷」南郷の名は足利頃より見え、今も称する。棚倉を境にして高野の地を南北郷に分け称する。「西郷」白河城より西の村落を、白河城下にて云う呼称。「五箇村」白河城東の五か村で、米穀殊に甘美である故に五か村を組み合わせて称する。天文年中に早くも此の称があり、結城晴綱より松林寺への文書(寺焼失の時に本書を失ったが、写しがあった)(文中に掲載あるがここでは載せず)
今、白川郡の内に白川領がある。また塙御陣屋付御料所があり、越後高田榊原候お預かり釜ノ子村陣屋あり、棚倉に隷従する者もある。
山川
甲子
白河城より西に六里、連山断つことなく十余里もあり、下野の那須郡、我が白川郡、岩瀬郡に跨がっている。白河郡にあるのは赤面、朝日、白森と云う三峰である。また赤面の西、朝日の南に甕(瓶)を伏せたような三本鑓という山がある。下野國那須郡と陸奥白河郡、会津郡三郡の堺にあって総称して甲子山と呼ぶ。土人の説明によると、応永年中に州菴という僧が此の山に入り、寺平と云う所に住んで湯泉を見つけた。人が入れるように場所を整えて供したのが甲子の年だったので、甲子と命名し山の名にも及ぼした。とあるが応永に甲子の年はない。「或る日猟者は、傷ついた猿が浴して癒やしているのを霊湯と見て、浴場を作ったことから猿の義を以て甲子と云う」との伝えもある。(此れも俗説であろう。猿の緣であるならば申子となる)
按=古に青澳山(おうくまやま)ありて、今其の名なし。夫木集に『昔ミシヒトヲソ今ハ忘レ行ク青澳山ノ麓ハカリニ』大くま川の条に述べる如く陸奥国の南隅、白河郡の又西南隅の山であれば、此の山を指して大隈と云うのではないか。其の故に此の山より源を発する川を大隈川と云い、此の山にある瀑布を大隈滝と言い伝えているのである。(川と滝に名が残って、山の大隈の名は失われたようだ)
*古文書に対する廣瀬典氏の解説は、沢山な資料をもとに歯切れのよい展開をみせてくれます。conparuブログに載せた「東夷奥の地 ある地方の郷土歴史1~3」も、『沢山な資料』の中に入っているのかも知れませんが、白川古事考と付き合わせる事によって、より巾広く理解できそうです。 弓矢鉄砲と言った戦国時代の戦法ですが、悠長な時間の中での戦いが絵物語のようでもあり、どこか別世界の抗争と云った趣があります。500年前の戦国時代争乱が遠い昔に感じたり、極間近な出来事のようにも感じるのは、歴史が血肉の中に生きている証しでしょうか。
関山
白河城東南、古関跡の北にあり絶嶺に満願寺と云う寺がある。百石の除地(年貢の対象にならない?)を有する観音堂は、聖武帝御祈願所の額を掲げる。旧記を失ったため古事の詳細は分からないが、仙道三十三ヶ所の札所である。
那須記に『天正十五年丁亥十月二十六日、伊達政宗岩城常隆と心を合せ、佐竹義重を討つ計らいをした。佐竹は七千余騎を催して奥州へ発向したところであったが、伊達岩城の動きを知った佐竹は、戸村(佐竹の族)に仰せて陣を引かせた。岩城は勝に乗じて追掛てくる。其の勢は、最上、二本松、長沼等三万余騎。白河義親は佐竹へ加勢するにしても、馳せ来る敵が大勢なので平場ノ合戦では敵わないとみた。
昇関嶽へ引き退かせよう。嶮岨である彼の地なら、敵軍が山へ登ろうとする所を待ち請け勝負を決するべしと言った。此義尤であるとして関山へ引登ることにした。そうするところに奥州勢が極少数で寄せて来たのを見て、義親は居城を大切に守ろうと思い、己の城へ引返してしまった。是によって佐竹は無勢になったと思い、那須へ加勢を要請した。那須資晴は軍勢を催して関山へ馳せつけ、義重と対面して軍評諚をする。そうする内に奥勢は山下に陣を取って打囲み、二本松長沼ノ勢が歩立になって持楯を突出して攻上ってくる。山上より手頃の岩石を取って雨の降る如く投げかけると、矢庭に死する者何百騎と云う数を知らず。これを恐れた左右の寄手は進むことが出来なくなった。その日も暮れて遙かに引除けて居た佐竹那須勢が、夜中に下知して山中ノ大小の木を伐倒し、木ノ葉を山頭へ引伏せた。また、一騎を十騎に見せる為に、旗十本づつを差し上げさせ、天の明けるを待っていた。早朝になって是を見た奥勢が、「昨日の合戦で利を得て威を増した折り節であり、夜の間に雲霞の如く軍勢が馳せ着いたか。此の上は山中ノ戦いは敵わない。兵糧攻に如くは無い」と云いつつも、此の関山は那須の境であり兵糧は那須より十倍も入るだろうから、此の戦始終勝利は有るまじと囲を解いて、各々帰陣することになった。白河義親是を聞いて一人も逃さないぞと勢いよく追いかければ、守勢の引立てとなる奥勢なれば、一タマリもたまらず我先にと落ち行きぬ。
また那須郡民間より出た書付に(此の条大業廣記、安民記にもあるけれど、民間の記ながら詳述してあるので此処に記載する)白河の城代は妹川縫殿頭、同越前守林蔵人在城也。加勢には金子美作守柳崎右衛門、横田大学、大道寺平林、その他歴々楯篭る。ところが慶長五年子九月十四日に奥州勢が野州伊王野に押し寄せ、一手は関山へ取り登ると告げられた。其れにより伊王野下総守は諸臣を集めて籠城を決め、諸所からの加勢を待つべきか、又此方から出向いて一戦すべきかと評議した。下総守の嫡男伊王野又十郎が進み出て、今度奥州口の押さえとなる当城なれば、籠城しても無用である。敵が急に押し寄せて来るとすれば、今夜か明朝までであろうから、此方から駆け出向いて一戦し、討ち散らしましょう。先陣は其れがしが仕ります。と申し上げれば下総守大いに喜んで、又十郎資重を首魁として家臣薄葉備中に申されるのは、敵が関山の城を取手の城に抑えたと聞き及んで、「今夜中に汝等が我らに先行して彼の地へ発し、不意に敵を襲って打ち散らし、関山の出備えを此方に取り抑えて然るべき」と言われた。
備中承り「御知謀の程感じ入り候」と其の夜中に乗り出して寅の刻に関山へ駆け上がったところ、朝霧深くして未だ夜も明けずに寝入っていた番人どもが慌て彷徨(うろつく)くところを数人討ち取って、備中が旗を押し立て弥勢を待って居たところへ、又十郎資重が押し寄せ来て関山に挙げ登る。備中が出迎えると資重は大いに喜んで「備中が魁首の働き、手柄の程感じる所なり。イザ敵が寄せ来る前に備えを立て直し其の用意あるべし」と云い、それぞれに手配をして敵を待ち受ける所へ、景勝の先手の勢が此の事を夢にも知らず九月十五日の朝、関山に寄せて来て山を見上げると、此の山の切り崩しが険しく一重山であることから、先手の勢は馬を降りて引き連れ、我も我もと声を出して一面に挙げ登る。又十郎資重は下知をして、「敵勢千万騎寄せ来ると云えども、下知無きうちは此方から弓鉄砲を放ってはならない」と制すれば、薄葉備中走り回り下知を通達する。
観音堂並びに満願寺の修復用材として所々に積み重ねた材木や大石の陰に、伊王野勢が鳴りを潜めて待ち構える。それとは知らぬ奥州勢が山上近く迄上り詰めたところで、又十郎資重が下知を放ち一斉に弓鉄砲を発するとともに、積み重ねた材木や大石を投げ落とした。山木立の無い急坂を転げ落ちる木材や大石に敷かれて、死ぬ者数を知らず。頃会いを見計らって又十郎資重は坂口より切って出て、敵を山麓へ追い散らした。其処へ山麓で待ち構えていた伊王野下総守資信が、奥州勢の中に一文字に威勢良く討ち懸かる。伊王野猪右衛門(下総守の弟)、家臣礒上兵部少、田中藤兵衛、小瀧勘兵衛、鮎瀬弥五郎、小田井玄蕃、田代長門守等真っ先に進んで攻め戦う最中に、伊王野又十郎が関山の上から奥州勢の真ん中横筋交いに馬を乗り入れ味方に下知をする。
薄葉備中突き懸かる、相続いて黒羽太左衛門尉、小山田監物、秋葉助右衛門、熊久保内蔵之助、高久善右衛門、大島源六郎が戦場にあり。松本内匠、澤口四郎兵衛が真っ先に進んで、後先より息もつかせず揉み立てに攻め戦うと、流石の景勝方の先勢も躊躇いかねて一度にどっと崩れて敗走し、白川指して引き退いて行った。
ここに到って下総守資信は、士卒に下知をして見方勢を引き上げさせ、その功を次のように記す。
討ち取った者の首級百七十三、味方に於いては雑兵ともに三十九人の討ち死となり、直ちに伊王野へ帰陣した。
八溝山
常陸久慈郡、下野那須郡、陸奥白河郡の堺にあり、その山脈は四方に走り中央の高い山が八溝山である。昔は完全に白河郡の山であった。此の事は神社部に詳述する。
元禄年中に水戸中納言光圀卿がこの山に登り、所々の名を命じたのが左の如くである。
雲苓岱 清涼溜(山偏に留) □(穴冠に卯)穹巓 □(穴冠に毳)嶺岩 碧萱峰 碧深峰 □(ネ偏に騫)禮嶽 卷圓峯 右八峯
清浄谷 蓮華谷 菩提谷 鬼里谷 獅子谷 濃鮮渓 沈永渓 右七谷
鬼渟池 汨湃池 嬰児池 右三池
龍馬瀧 漲滝 淋濃落瀧 激水瀧 以上
珊瑚(さご)室(むろ)山
常陸と陸奥の境にある高山で、南東は常州に入り、北は白河郡那倉村片貝村の地である。東海は菊多郡を隔ててはいるが海に面している故に、遠く漕ぎ出す漁舟が此の山の隠れ見濃淡を計ることで里程を論じたとある。
佳老山
下ノ関河内村の西にあり、木石明媚な山であるが僻地に在るため、山川を観賞する者が無ければ景勝地とならない。山上に熊野小祠あり、石に承応二年益子某建立の記あり。
人不忘山
白河城と棚倉城との間にあり、今はシンチ山と云い老松生い茂っている。夫木集に
『陸奥の青澳川のあなたにぞ人忘れずの山はさかしき』
(宗長の旅日記に刈田嶽の事は記してあるけれども、人不忘ノ山については言っていない)
仙台封内の刈田郡にある刈田嶽が人不忘山だと云うけれども、古にその証明はない。
我が新地山は文明年中の道興准后の四国雑記に、『転び寝の森より八槻へ赴く道すがらに人不忘山を過ぎぬ』と記してあるので証しとする。
転寝森
白河城東、鹿島の側にあって、昔は木立の茂る地であったが、今は周辺の悉くが田となって僅かに残された地には杉二株と若木の桜二本があるのみで、香取明神の小祠を安置している。
この木の下で暫しの間、義家朝臣が仮寝をしたとある事から、この名が起こったと云う。
八雲集には清少納言の歌として
『陸奥の転寝の森の橋たえていな負せ鳥もかよわざりけり』また四国雑記に「白川を出でて転寝の森と云て、いと木深き森の侍りように花の散すきけるを見て」
『散る花をたた一時の夢と見て風に驚く転寝のもり』と歌われている。
古老の談にも「慶長の頃までは茂りたる森にて有りし」と言う。(転寝は義経朝臣また佐藤庄司元治の事跡とも言うけれど、清少納言の(平安の)歌にあるので、義家朝臣だと言っても新しい(時代の)付け足しのようなものだ。
桜岡
白河城東にあり、古名木の桜があると言い伝えられる。
『桜咲く桜か岡の桜花ちる桜あれば咲桜あり』これは此の地で詠んだ古歌と伝えられている。
京師また仙台にも同名の地があり、此の歌を引いて各その地の証しとしている。そうではあるが、土人の口碑には我が郡こそ是(桜か岡)だとしている。遙かの古は如何にあったであろうか。宗祇法師は当郡を誠の桜岡とし、この郡へ来られたとき
『春よ待て散桜あればおそざくら』と古歌を転用して当郡の事に用いている。(鹿島の一万句の時、宗祇来る。手に綿を持った女に遇って「綿売りか?」と云えば、女は「大隈の川瀬に栖る鮎よりウルカ、ワタ少し有りけり」と聞かされて宗祇が戻ったと云う。此の地も今は城下町端にあり、これも京にあれば京の事として扱われるだろう)
合戦坂
搦古墟(搦目城は戦国時代の結城氏の本拠)の南の小さな坂である。結城氏は佐竹の為に攻め押されて此処にいた時、佐竹の物見が出てきたところを、大塚左八郎が二人の郎党を従えて二人を討ち取った。左八郎の父宮内左衛門も続いて兵を進め、佐竹の隊将渋井内膳と散々に相戦い、遂には佐竹を打ち負かして此の地から引き退かせた。因って合戦坂と名付けた。引目が橋と云うのも合戦坂の彼方にあり、また十三原と云う討死した十三人を埋めた所の、「十三の塚」が引目橋の西にある。
また枯野と云い、引目橋の東に当たるところに首塚あり。これ等は同時に起きた戦いの事跡であるのかは不詳である。白河の軍師と頼む佐藤大隅守も、此の地において討ち死にしたと云う。(大塚左八郎は今の町年寄、大塚半左衛門の先祖。佐藤大隅守は今の双石村佐藤儀藏の先祖だと云われる)
(渋井は元来東白川郡の地名である。渋井内膳は大坂御陣に討死して名を顕わす。我が郡に元来生まれた人なのか、又は佐竹に従って常州より来て白川領内の渋井を領して氏としたものかは知らない)
スクボ塚
借宿村にあって高さ四丈、回り九十間という。今の水戸岩や船ノ御堂が此の地に在った時に、堂宇造営が多かったので役夫の糧となる籾を磨って捨てた塚だと云う。下野那須郡高舘の西にも糠塚という大塚があり、城攻めの時にモミ糠を捨てたと云う。坂東奥州にはヌカ塚と云うところが多い。田村郡に糠塚村と村名になった所もあり、皆この類いである。口碑の外に別の考察として、唐土の古の習いに従えば、神明を拝するために祭壇を設けて額ずく事から、糠塚は拝(ヌカ)ヅク塚であろう。スクボはスクホイ拝する塚というのではないか。
人なつかしの山
関和久村の西、今は木ノ内と云う所の烏峠と云う山に続いている山である。烏峠絶頂に稲荷祠あり、白河、石川、岩瀬、田村、安積等の郡を目下に見る事ができる。
西行法師の古歌に
『白河の関は越えれど人見えぬ人なつかしの山はいつくぞ』
又読み人知らずとして
『陸奥の阿武隈川の川すそに人なつかしの山は有りけり』
「川すそ」の語から、我が郡に有るものこそが当然と思える。仙台封内にも同名の山があるという。
甲子温泉
上に載せた甲子山谷の内にあり。浴槽を造り、客屋を設けて春三月より秋九月初まで浴する。冬月は深山の下で人の至る事もない。疝気癪、頭痛、血症等諸症を治す。
湯岐
中風、痛風、打ち身等を治すのに功あり。
塩湯
木野反村にあり血症、鬱閉を治す。
瀧澤温泉
関岡村にあり、血症、腰痛、打身を癒やす。温気薄く煎じ湯として浴する。
湯沢
棚倉の東三里、東河内村にあり、疥癬、湿瘡を療する。
赤坂郷(鮫川)、東野村の湯、野田冨田村の湯川等、各湯涌出しても病に効なし、浴槽を開かず。
殺生石
中寺村にあり。下野那須湯本の殺生石を僧玄翁が法術を以て一撃すると、石は三つに割れて飛んだ。一つは会津示現寺に墜ち、一つは中寺へ来るという事が会津四家考等に出ている。頗る性談に渉るけれど、去る文化十四年の夏に、石が閃光を発して雷鳴の如く空中を飛び、武州八王寺に墜ちた。江戸近辺の人で見ない人はない。玄翁も右の事象等を己の力によるものと吹聴したものか。
久慈川
常陸国久慈郡に出でて海に注ぐ故に久慈川と名付けると云うが、源は白河の内に発して数派合流しつつ大きくなった川で、白河の内において既に久慈川の名があり、常陸に流れている。源流の大概は八溝山の北面の谷々から、山液が集まり合って川となり、大梅村の奥では久慈瀧という瀑布となって落ち来ている。また一派では棚倉城下の東北山渓間より流れ来て棚倉城下にて合流するもの、また一派に八溝山麓の山本村奥より東流して、八槻村近津明神の社後を経て来り合流するものがある。合流する前は宮川と云う。また一派に珊瑚室山より出でて那倉村、川上村、川下村、を経て塙村の東で合わさる等、その他細流を合わせるもの多く南に向って流れ、依上を過ぎて常陸久慈浜にて海に入る。
万葉集にこの川の歌なりとして
『久慈川はさけくありともしをつ子をまかちしらすきわはかへりこん』
(久慈川は激しく流れていて、子を叱るように静かにしなさいと云っても岸の流れは聞く耳を持たない=概意)
後訳=此の歌にはもっと深い意味がありそうだ。おそらく幼くして子を亡くした母親の詠嘆が読み取れる。
(久慈川の叫ぶような流れを見ていると、我が子を叱ってまっとうな道を示そうとしても、もう子はいないのだ)
大隈川
文字いろいろと書き、阿武隈、逢隈、大熊、青隈などと記している。音韻が同じところから各様に記されるが、なぜそのように記したかの訳は伝わっていない。近頃思うのだが奥州に大河二つあり。一つは名取宮城の方へ向って流れる川で、宮城の府より見れば、奥の南部地方から来る川なので、北を源にした「北上川」と云う。もう一つは下野国に隣接した奥州西南の隈にある、白河郡を源流とする故に、大隈川と云う川である。肥後国球磨郡は肥後のクマであり、越後国妻有郷は(太平記には郡と誤る)越後一国のツマリである。大隅国は日本全形のスミと云っているのである。この大隈川は白河郡の西南、甲子山中に発して赤面川、ビル澤川、黒ド川、鶴生、羽太、二つの内川堀川、谷津田川等を受け合わせて流れ、石川郡へ入り岩瀬郡に出でる。又数郡を経て東北へ向い、伊具、名取二郡の間より海に注ぐ。白河一郡の田で西北にある田は、この川を引いて耕し、南東は久慈川を以て引く。二つの川の功は大である。大隈川の水源に真下三十丈の大隈滝があり、天下瀑布の壮観に類するこのような滝は少ない。これを雄瀑と云い、雌滝は一里滝、白水滝など山中に多い。(今、土人は多くアブクマと唱える)
古今集に『アブクマに霧立ちわたりあけぬとも君をばやらんまてばすべなし』
後撰集読み人知らずに
『夜と共にアブクマ川の遠ければ庭なるかげを見ぬぞ悲しき』
女の曹司に夜々立ち寄りてモノなど云いて後
藤原輔文
『逢隈の霧とはなしに終夜立わたりつつよにもふるかな』
橘為仲朝臣陸奥守になって侍りける時、延住(在留延長)すると聞いて遣わした。
雲葉藤原隆資
『待つ我は哀し八十年になりぬるを逢隈川の遠ざかりぬる』
一条院上東門院へ行幸させ玉えるときに読める
相葉集入道前の太政大臣
『君が世に逢隈川の底清み三千とせをへつつ住まんとぞ思う』
陸奥国の介にてまかりける時範永朝臣の許に遣わしける
新古今高階経重朝臣
『行末に逢隈川のなかりせばいかでかせましけふの別れを』(この先、逢うくま川が無かったなら、如何して別れた今朝に戻せるのだろう)
返し
藤原範長朝臣
『君に又逢隈川を待つべきにのこりすくなき我ぞかなしき』
新後撰民部□成範
『年ふれどわたらぬなかにながるゝを逢隈川と誰がいえけん』(年をとって渡るにも渡れない川を、逢うくま川とは誰が云ったモノか)
藤原秀宗朝臣
『人しれぬ恋路のはてや陸奥の逢くま川の渡りなるらん』
嘉元百首歌奉りける時述懐を
続後拾遺前内大臣
『君の世に逢隈川のわたし舟むかしの夢のためしともかな』(逢隈川の渡し舟に乗って過ぎてしまった昔に逢いたいものだ)
拾遺祝部成久
『またれつる此瀬も過ぎぬ君が世に逢隈川の名を頼めとも』
二条院讃岐
『いかなれば涙の雨はひまなきを逢隈川の瀬絶しぬらん』(如何してこんなにも涙が出るのだろう、逢隈川の瀬も枯れてしまうほどに)
新後拾遺権中納言為重
『立くもる霧のへたての末みえて逢隈川にあまるしらなみ』
堀川百首藤原顕仲朝臣
『名にしおはゝ逢隈川を渡りみん恋しき人の影やうつると』(名の通りならば逢隈川を覗いてみたい、恋しい人の姿が映るかも知れない)
同権僧正永緣
『ぬれ衣といふにつけてや流れ釼逢隈川の名残をしさに』
建保三年名所百首御歌
夫木集順徳院
『あすは又逢隈川の柵にきのふの秋の名をや残らむ』
同 定家卿
『立くもる逢隈かわの霧の間に秋そやゝらん関もすへ南
最勝四天王院名所御障子
同大蔵々吉家
『冬の夜をながしや契る友千鳥逢隈川のたへぬみぎわに』
題知らず
同読人知らず
『逢隈をいずれと人に問いぬれば名こその関のあなた也ける』
建保三年名所百首
同兵部内侍
『あけぬるををちかた人も逢隈の七瀬の霧に袖ぞみへゆく』
最勝四天王院名所御障子
同後鳥羽院
『風はやき逢隈川のさよ千鳥涙なぞへり袖のこほりに』(逢隈川の風の冷たい夜に千鳥がこほり《冬衣》の袖を涙でぬらしている)
同参議惟経
『わすれしに又逢隈の川風にしばしなれぬと鵆(ちどり)なくなり』
建保四年百首
同順徳院御製
『小夜千鳥八千代をさそう君が代に逢隈川のしき波の声』
同具親朝臣
『夜を寒みさまよう千鳥たゝむ也合曲川の名や頼むらん』
最勝四天王院御障子歌
定家卿
「思いか子妻とふ千鳥風寒みあふ隈川の名をや尋ぬる」(おもいかねつまとうちどりかぜさむみおうくまがわのなをやたずぬる)
中務家集ある人
『かくしつゝ世をやつゝまん陸奥の逢くま川をいかて渡らん』
返し
『逢隈をわたりも果てぬ物ならばかはる〱にわれいかゝせむ』
逢隈
重之集
『逢隈に霧たちといひしかて衣袖の渡に夜も明けにけり』
拾遺定家
『我君に逢隈川の小夜千鳥かき留めたる跡そうれしき』
詠草宗隆
『みなはなすもろき命もはやき瀬に逢隈川のいつと頼まん』
千五百番の歌合小侍従
『名にしおはゝ尋も行む陸奥の逢隈川は程遠くとも』
新拾遺祝部成久
『またれつる此代も過ぎぬ君が代に逢隈川のなをたのめども』
鎌倉嶽
竹貫郷竹貫村の南に当たる群山中に在り殊なる岩山なり。竹貫の城主十代の内で何れの時のことか、鎌倉より嫁に来た婦人の故郷恋しさ故、「我が慕わしい鎌倉は何方に有りや」と問われ、此の山の方を指して此方を鎌倉と教えたので山の名となったという。
大沼
(初めに古い堤の跡が有ったという。けれども葦茅が茫々と生い茂った地であったので、顧みる人も無かった。定信公がご覧なされて有司に開墾を命じられてより、近郡稀な景勝地となった。人功を用いて絶大な沼を成し遂げ、余りの流水は新田に注ぐ。歌よむ人は関の湖と云い詩村居も出来た)
白河城の南にあり、(詩歌を)作る人は南湖と呼んで湖の畔に雅名を命名した。文化中諸国に聞こえ、詩歌の名人の寄題を求めて、その賞を有益なものとした。
関の湖(詩に南湖と云う) 近衛左大臣基前公
『影うつる山もみとりの波はれて見わたし廣きせきの湖』
共楽亭 我老公定信公
『山水の高きひきゝも隅なり共に楽しきまといすらしも』
月まつ山 廣橋儀同伊光卿
『待むかふ月待山の霧はれてさきたつ光そらにくもらぬ』
錦の岡 加納遠江守久周朝臣
『さゝなみの浪に浮める花紅葉にしきの岡のはる秋のいろ』
真萩カ浦 芝山前大納言持豊卿
『かけひたす波も錦によせかへる真萩か浦の花さかり哉』
常盤清水 牧野備前守忠精朝臣
『万代をかけて結はん深みとり常盤の清水たへぬ流れに』
松虫の原 佐竹右京大夫義和朝臣
『旅衣ゆきゝかさ子て幾秋かしめてみん千世を松虫の原』
月見浦 烏丸中納言資董
『たくひあらん出しほの影も秋にすむ月見か浦の波のみるめは』
子鹿山 阿部備中守正精朝臣
『子鹿山月にはなれも妻乞のうらみや深きせきの湖』
有明カ﨑 廣橋大納言胤定卿
『白河の関の山風ふくる夜の月影てらす有明カさき』
みかけの島 有馬佐京亮誉純朝臣
『神のますみかけの島の松か根にとはにぞよする浪の白ゆふ』
下根カ島 大久保加賀守忠真朝臣
『関の海や下根カしまの秋くれて月かけさゆる蘆の村立』
千代の堤 堀田摂津守正敦朝臣
『雨かぜにゆるがめ千代の堤こそ國を守りのすがたなりけり』
発聲村 土井嘯月超
『明けぬ夜の夢や覚ると庭津島八声の村に行きて子ましを』
千代の松原 梶井宮実超親王
『立ならふ緑の色のさかへつゝ末かきりなき千代の松原』
鏡の山 定信公
『湖のこゝも鏡の山なれや心うつさぬひとしなけれは』
松風の里 小笠原信濃守長尭朝臣
『世の塵は余所にはらへる松風に此里人や千代おくるらん』
鮫川
赤坂郷の内山渓を源流とし、水が集まり川となる。竹貫郷へ出て田畝に注ぎ、流末は菊多郡へ出て東海に入る。
金山
今の金山村の端、村入山の奥二、三里の間に黄金を掘り出した跡が幾つかあると伝えられるが、其の数は分かっていない。その辺りに人家数千軒があったと云われ、跡と思われるところは谷々に多く、寺屋敷などという小字の地も残っている。土地の人は風雨に晒された跡の土中から、黄金を磨いた磨き石なるものを取り出して香物の重石などに用いている。
此の八溝山の山脈から黄金が出たと云うことで、神社部に載せた続日本紀、承和三年遣唐使の費として供した黄金は、ここから出たものと思われる。(黄金産出の)村名の金山郷は建武二年(1335年)文書に初出している。
入山に金光山清水寺と云う寺があり、金山の盛んな時の寺だと云う。古色な笈の中に古い作と見られる五智如来像を納めてある。文禄十一年常陸の僧金蓮上人という者が書き記した縁起には、寺側に大きな塚があり、「頼朝房」とか云う僧が六十六カ国納経のために、此の地に来て此の地で没する際に、経文を銅筒に入れて埋めた塚であると言い伝えられている。近辺から参詣する者が多い。また八溝山の巽の方にあるソソメキ(祖々免金)より黄金を出す金穴が多い。山本村の地内にあって五里ほど隔てた地に、昔は人家が沢山あったが悪徒が立て籠っていたので、棚倉城内藤候領主の時に金山が廃されたという。今の元流村の上流寺という禅院はソソメキより引いた寺である。
白川古事考巻之一(第一巻)終り