光陰矢のごとし、疾風怒涛騒乱の一年も、はや年の瀬の幕間に入ろうとしています。時の流れは絶えずして千変万化の綾を織りなす――燻るミサイル攻撃の硝煙に重ねて、Withコロナが暗い世相を引きずって来ました。とにかく天地に轟く狂相の年でした。
あっと言う間に一生が終わる人の世だというのに、道草を食っているのは誰だ。
『門松や冥土の旅の一里塚』一休宗純
来年も代わり映えのしない世相かも知れませんが、ちょっとだけ良いことがありますように。
自分の本当の姿というものは、なかなか分からないものである。自分で分からないから他者にも分からないだろうと思う凡人の浅はかさ。他者の姿は、程よい距離の鏡面に映し出されるかの如く、全姿全景が眼中に認められてしまうものだ。
ロシアのプーチン政権が、核を使用すると脅しをかけている背景には、アメリカの広島長崎への原爆投下が既成事実として、ロシアにも同等の執行権があるというもの。つまりアメリカの背信を、痛いところを突いている訳で、「未だに謝っていないじゃないか」プーチンの言い訳は自分を正当化しようとしている言質だ。が、本意は別にしても正論と言えなくもない。歴史というものは妙なところで原姿を現すからである。
2週間ほど前の朝日新聞『オピニオン&フォーラム』という記事で、『核の正当化にあらがう』米ウィリアムズ大教授ジェームズ・L・ノーランJrさんの論説が載っていた。第2次大戦中に開発された原爆の実験で驚異的な影響力を把握しながら、それをひた隠して広島長崎に投下したとあった。投下後の被曝線量についても故意に過小評価を指示したというから、倫理的な問題は今でも引きずっている。時代背景は似て非なるものではあるけれど、プーチンの拠り所が20世紀のアメリカにしがみ付いているところが、おぞましくもある。