山野は萌黄色の装い
一年のうちで最も華やかに命が躍動し、希望と可能性に胸が膨らむときです。
若葉の萌え出る季節は少年のように、疲れを感じさせないでしょう。
柔らかい芽吹きに囲まれて、野天風呂なんかもいいなぁ。
新録の香りに浸かって、遥かな時空の旅に出ようか。
若葉の樹間をくぐるように走行していると、山中の息吹がどっと覆いかぶさってくるのが感じられる。山の『気』に染まると、現実からかけ離れた世界にいるような、妖気さえも漂って、たった一人の漂泊する旅人に変身してしまうのだ。
山の『気』を全身に吸い込んで一体となったコックピットの中には、「星の王子さま」の顔が見えた。雨上がりの山々はずっしりと葉を湿らせて、何処までも行っても緑の中である。
春の野に小さな花の忍び恋
ゴルフ場の林に沿って砂利道を散歩していると、あちこちの草むらに小さな花が咲いているのを見つけました。この季節になるといつも出会う小さな花たち、春風にゆれて人恋しそう・・・楚々として、隠れるように咲いている野の花がいぢらしい。
歌曲流れる工房の温もる春や忍び雨降る
ベランダの鉢植えの花木が若葉の色艶を増している。少し体を動かせば、じんわりと汗ばむほどの陽気になった。あっという間に地球は自転している。
東京で行われた北朝鮮核問題の「六者会議」も、蕾のままに散る羽目となった。
北朝鮮による拉致問題も国際的な議題にあがって、横田めぐみさんたちをめぐる新たな情報が入らないまま、北朝鮮のいっそうの硬直が懸念されるところだ。
目的完遂のためには手段を選ばない「北」の政治手法は、手に入れたあらゆる状況をも政治の手段として、簡単には手放さない。われら日本人には想像できない感覚だ。
「北」の最大の援助国中国にいたっても、一衣帯水の緊密な仲であるから、国の存亡にかかわる瀬戸際までは、本気に説得するとは思われない。
大陸から飛んでくる黄砂の嵐は、くしゃみとともに春の眠気が破れて、胸の辺りが疼きます。
つい先ごろ、マルチセッションとかセキュリティだとか設定に呻吟していたのが、ある時にとんとんとんと、悉く片付いてしまった。
何度やっても上手くいかなかったものを、やっているうちに操作に係わる周辺が、何となしにけじめをつけてくれた感じの、インターネットノウハウ。朧ながら一部的ではあるが、暗示的な閃きで解決の糸口へと至ったものもある。OCNとNTT東日本フレッツの2セッションは、かくして陽の目を見たのでした。(どおってこと無いけどねー)
今日の今日まで、スタッドレスタイヤで事も無げに走ってきたけれど、さすがに桜花の下ではそぐわない・・・ですから、ノーマルタイヤに履き換えてきました。
桜前線も今頃は東北南部あたりであろうか、迎える方と見送る方の、桜に寄せる思いは、儚さの織りなす人生模様そのもの。
桜にまつわる妖艶な情話に眼を引かれるのも、桜の妖しさ潔さが人生に重ねられるからでしょう。まるで桜の精が命を宿しているかのように、人に呪いをかける。そんな話も新聞の片隅にありました。戦火を潜り抜けた人は、咲き誇る桜に拒否反応を抱くとか、やはり爛漫と咲き乱れる花の中に、死の翳りが潜んでいる。同胞や家族の死が桜の薄命に重なるからなのだろう。散った花びらが川面に浮沈している光景を連想させる。
それにしても桜の散り際は寂しい。騒がしい世情がむしろありがたいと思える時だね。幻想を忍ばせたとしても、心の奥底にそっと沈めることができるから。
花の下老いも若きも寝転びて・・・
多摩川の河川敷に面した土手の上を、1キロメートルにわたって桜の道が続いている。
満開とは行かないけれど、6分くらいは咲いているその下で、花観賞もほどほどに午餐の弁当を食べ、くちくなった腹を抱えて昼寝をしているのが見える。
空は青空、遠野は霞
そよ風に揺れる柳の
柔らかに川原になびく
桜咲く堤の上を
ゆったり歩く
老いも若いも風のよう
昼寝の空のした
夢を誘う草上の褥
あちこちマグロのセリ市場
のどかなる木陰の宴
子犬はよろこび
母犬の周りを跳ねる