雪降りやまず・・・つい今し方まで一面の白銀世界かと思わせる降り方だったのに、一転霧雨のような小雨に変わっています。
スタッドレスタイヤに換えてから一月半、ようやく雪上に車輪を置くことに。
でも、こんな日は運転しない。
炬燵に入りながらお茶をすすり、庭を見れば
クリスマスローズの葉上にもお印が・・・
晴天にも恵まれた昨日は、NHK特別鑑賞券をゲットして
横浜美術館で催されている「ホイッスラー展」に行ってきました。
ターナーの絵が陽性だとしたら、こちらは陰性?とも言える色調だろうか。
それでも微妙な夕景の捉え方など、日本人の心情に迫る余韻の深い響きが伝わってくる。
残念ながらポスターは掲載できません。
その代り?こんなものを!
フレッツ光メンバースクラブのポイント交換で送られてきました。
岩手県立宮古水産高校の生徒さん、とても美味しかったです。
ミネラル分をたっぷり含んだ宮古の塩味、甘みがありました。
今まで古代の大まかな流れを掴んできたけれど、ほんの一部分的な解析にすぎないことは十分理解しています。例えば瓊々杵命が『五部族を引き連れ云々』という出雲への随伴を述べた古事記は、それ以前の歴史を暗示しているだけで、何時から、何処で、どのようにして一所になったかは語っていません。
古くは大陸系の渡民であった縄文人の『山祇(やまつみ)族』は、狩猟、漁労、焼畑農業を営んでいた。日本人を形成する最も古い民族である。
『高天原』で天照大神と一緒にいた高木神は山祇族の出だとされる。
大巳貴(おおなむち)命(大国主命)を祖とする海神(わだつみ)族は航海術で舟を操り、漁労の他、水稲耕作農を行い青銅器を生産した。初めの頃、北九州沿岸地域に住み着いた。
この海神族が北九州の沿岸という、大陸や半島からの侵略に弱い地域から、より内陸の――あるいは防御性の高い出雲(?)に居を移したと思われる。
天孫族の祖、天照大神は弟スサノヲと『誓約(うけい)』を交わすことで、スサノヲの心が清いか汚れているかを子産みで決めることになった。清い心だから女児を産んだと言って、スサノヲは『私が勝った』のだと姉の天照大神に宣言する。その後にスサノヲは暴れまくり、天照大神は岩屋に隠れることになる。
スサノヲは大巳貴の神祖であり、出雲の神である。『誓約』に表れたスサノヲの行状は天照大神の領域を侵したものとも言える。天照大神はスサノヲに追われて黄泉に隠れた。つまり死んだのだ。そこが出雲なのか?だとすれば天照大神を祖とする天孫族、瓊々杵命が大国主命から『国譲り』を受けた話は、国を取り戻す復旧の大事業ということになる。
天照大神と高木神が共に居たという『高天原』が、九州高千穂の近くではないかと前篇で述べたが、スサノヲに追われて移行した後の、実在しない架空の象徴的な場所であったのかも知れない。
とかく『高天原』は謎の解けない神話である。
昔語り『因幡の白兎』が古事記に出てくる。隠岐の島から因幡に渡ろうとした白兎が、鰐の背中を踏んで渡り切ろうとした時、最後の鰐に咬みつかれて皮を剥がされてしまう。大国主命の兄たちが意地悪な治療法を伝えて苦しませたが、大国主の治療の教えの通りにすると元の体に戻ったとある。
白兎は大国主命に、兄たちを差し置いて因幡の姫と結婚するでしょうと予言する。
この昔語りは何を言っているのだろうか?単に大国主命の傑出した資質を誇張しているだけではない。
予言した白兎とは何者?鰐といえば海神族の和邇(ワニ)氏を連想させるし、白兎は自分こそが因幡に上陸する目的を持っていたのに、海神族の裏切りで果たせなかったと言っているようにも読める。
古事記をひも解いて解析するときに、史実として記録に残された部分を重要視したい。
3世紀前後の最も確かなものとしては「神武東征」の項に出てくる、大和を支配していた長髄彦の敗走と信濃善光寺に逃げ込んだという記録である。
ここで注目したいのは、それまでの大和地方が出雲族によって支配されていたという事実なのである。長髄彦という出雲族の直系子孫がかなりの勢力を維持していたことは、神武天皇となるカムヤマトイワレヒコが大和攻略の際に、さんざん苦しめられたことでも分かる。
長髄彦の祖父は大物主(大国主命)であるから『出雲の国譲り』の後、父親の事代主とともに大和に本拠地を移したのであろう。大和にはもう一人饒速日という者がいた。天孫族でありながら長髄彦の妹と結婚して出雲族の入り婿になってしまったのだ。饒速日の祖父は『若日子』と言い、高天原の指令で出雲を服従させるために送られたのだが、大国主の懐柔に嵌まってその娘「下照姫」と結ばれて帰ってこなかった。吉備を本拠地としていたようである。孫の饒速日は生まれた時から出雲族の一員になっていたのである。
このような状況の下に『大国主の出雲国譲り』は、天孫族「瓊々杵命」の出雲平定によって成立した。大国主は黄泉に隠れ、若日子は矢を受けて戦死するという劇的な終局を迎えて、出雲と吉備は天孫族に帰してしまう。
その後出雲の子孫たちは、大和に拠点を移すことになったのである。
瓊々杵命が出雲と吉備を降伏させたあと、大和を平定するまで孫の神武を待たねばならなかった。
天孫族にすれば大和を攻めるまでに、それだけの時がかかったということだろう。
それではこれまでの天孫族は何処に本拠地を置いていたのだろうか。
『神武東征』の出発地は日向の港であるから、九州説が濃厚だとしてもその根拠は弱い。
古事記の天孫降臨の初祖、「瓊々杵命」の項では、太子の子でありながら高千穂の峰に降り立った所から記されている。
「高千穂の尊い峰に降り立ち、『この処は海外に向かって、カササの御埼に行き通って、朝日の照り輝く国、夕日の輝く国である。此処こそはたいへん吉い処である』と仰せられて、地の下の石根に宮柱を壮大に立て、天上に千木を高く上げて宮殿をご造営された』とあるように、瓊々杵の拠点地は高千穂であった。
『カササの岬』に行き通うほどに海路を通じて、高千穂峰々を縦断する交通路があったことを窺わせている。また『朝日の照り輝く』方向と『夕日の輝く』方向には東西を結ぶ山道があったことも示唆している。カササの岬は薩摩半島の野間岬とみてよいだろう。
天降る前の高天原はこの高千穂からそんなに遠くない地域にあったのではないだろうか。
一説によると南九州の狗奴国や隼人国を滅ぼすために高天原を出たと言われる。
大軍を引率して強力な武器と武具を身につけた天孫族の一群は、やはり海外との接点がありそうだ。
となると、北九州の伊都国や邪馬台国の在ったあたりに進駐した台与の後裔か、卑弥呼にまつわる子孫とかが考えられる。仮にそうだとすると瓊々杵もイワレヒコも北九州から出征した可能性が出てくる。
イワレヒコ(神武)が大和に入り、三輪山の近くに樫原宮を興してから天皇家の歴史が始まるわけだが、
後世において天皇家の事跡が消されたり、出雲族の事跡が強調されて相対的に出雲の『古事記』になってしまったのは如何言うことなのだろうか。
理由は祭祀を司ってきた三輪氏や中臣氏が出雲族の出であり、宮中のしきたりを取り仕切ってきたこと。天皇家の外戚として后や妃を送り続けてきた物部氏や藤原氏のもとで、天皇家の王子たちが生まれ育ってきた事を考えれば、物部氏や藤原氏の権力も皇室を凌ぐほどに肥大していったと思われる。
その結果天武の亡き後、皇后の持統天皇が藤原不比等を重用したことで、『古事記』の改編が組まれたと見ることが出来る。
堂々巡りの古事記巡りもこの辺で纏めてみよう。
古代の起点は『魏志倭人伝』に記された邪馬台国と卑弥呼の存在に始まる。
位置的にはさまざまな想定のもとに九州説と大和説に大別されるが、「やまたいこく」という国名は幻の彼方に霞んでしまってハッキリしない。今では偽称だとする説もある。卑弥呼が女王として君臨した場所は、九州筑紫の平野(吉野ヶ里)であったと思うが、後に台与(とよ)に滅ぼされる。
北九州一帯は小国の集まりで、争いが絶えなかった。狭い地域にいくつもの国が存在していたから当然のことである。北九州には「末盧国」「伊都国」「奴国」「不弥国」「投馬国」「邪馬台国」があったとされる。この中で邪馬台国だけがハッキリした存在を示されていない。
魏国から授けられた「金印」が福岡県の志賀島で発見されたが、ここは「伊都国」で政務を担うところであり、当時の交易の中心でもあったから、実務としては伊都国の実力者が支配していたものと思う。卑弥呼は「鬼道」という呪術をもって、民衆を引っ張っていく象徴的な支配者であって、北九州一帯の精神的シンボルだったとみられる。
吉野ヶ里には何重もの環濠の跡があり、卑弥呼の居住地ではないかと言われている。
このような北九州の連合体にも卑弥呼の弱体とともに、再び争乱が起きて消滅していくのである。
北九州一帯の国々が滅びるには、他の国の勢力が一挙に攻め込んで来たからに他ならない。或る国が或る国を扇動して或る国を攻める・・・現代でも有用する構図だが古代においてもあったらしい。
このころの日本の地勢はどうであったか。3世紀ごろに朝鮮半島から北九州に鉄器が輸入されるようになると、4世紀にはタタラによる製鉄の技術が入ってきた。鉄文化の伝播は倭国の力関係を先鋭化させ、北九州勢と吉備、大和勢力の間で対立が激化していく。
北九州勢が鉄の原料を独占して、魏や魏の滅亡後の普国への遣使により、その援護を背景に優位を保っていたが、吉備や但馬で砂鉄が取れるようになると、形勢が逆転していくのである。丁度この頃、大陸では大争乱の三国時代時代を迎え、普国も滅んでしまうと背景を失った北九州勢は一挙に窮地に押しやられて、『邪馬台国』の終焉を迎えることになる。
一方、敵対する最大の出雲、吉備、大和勢力の出雲族は一計を案じた。
自分たちで『邪馬台国』を攻めるのではなく、卑弥呼の勢力範囲にいた「豊の国」(九州東部)の台与(とよ)に旨い話を持ちかけて、卑弥呼の邪馬台国を攻めさせたのである。
卑弥呼は戦死し、『邪馬台国』は消えた。
事が終わってみると、全ての功績は「台与」にではなく、出雲族の手に握られてしまった。
この時点で吉備と大和の勢力は、本拠地の出雲を中心にして強固な地盤を固めたのである。
「豊」の台与は騙された揚句『天の羽衣』の伝説になって、後世に身を晒すことになる。
しかし、北九州が出雲族に支配されたわけではなく、朝鮮半島や大陸との交流の窓口であったことに変わりはない。このことが後に天孫族の出来を呼ぶことになる。
あらたまの美空は青く澄みわたる
心にひびく天のまほろば
松の内も今日でおしまい
冬の朝明けは我とともに
のんびりと立ちあがる
どこまでも澄み切った青空が
ひとすじの白雲を描いて迎えてくれた
千変万化の兆しを見せて
あたらしき年の行く末を思う
天空にあやなす糸の
つむげるは
松枝に干す天の羽衣
2015新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
初詣はのちほど、一休みしてから参ります。
暴飲暴食を慎んでほどほどの正月気分ですので、よいスタートになりました。