conparu blog

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改編 心象風景ー「邂逅」から「過去との遭遇」まで

2016-08-28 23:11:16 | 小説的随想

 平成二十八年 改編

 心象風景 その1―邂逅―  

 過去を振り返ることは無意味なことではないだろう。そこから反転して未来を展望する糧にもなり得るからである。過去を顧みて鏡面反射のように未来を予測するのは難しいが、経験から学ぶことは多い。

 もし誰かに過去未来を透視する力が与えられているとしたら、人間の霊的な原始世界を覗くことも可能かもしれない。心の中を洞察することも可能となる筈だが、一般的な人間の領域を超えてしまう。出来ることなら霊視とか怨霊とかに関わらない方が、幸運な生き方だと思うのである。平凡であっても平穏に過ごした方がどれだけ幸せか分からない。
 そうは言っても人生に先のことは分からないし、生きていく上で紆余曲折は免れない。艱難辛苦の人生であってみれば、人それぞれの道を乗り越えていくほかに無いのである。どんな状況であれ人生の先々に待ち受けている命運を、避けて通ることは出来ない。それならばいっその事、積極的に運命を迎え入れようとも思う。

 古代から神との関わりの中で生活してきた民族として、神の存在が希薄になった現代でも神の御心を伝える巫女のような存在があっても不思議ではない。鬼道といわれた卑弥呼の古代から中世の陰陽師、安倍晴明のような霊的透視力を持った人が、遙かに時代を下った現代にも存在するとしたら驚かれるだろうか。神がかりな人間が存在するとすれば、面白い現象ではないだろうか。
 人間の内的透視という非科学的な洞察力を以て、過去や未来を鋭く透過して見抜いてしまう。信じられないだろうが、そんな超人的能力を持った方に出会ったことがある。
 
 迷える羊たちの足先を照らす灯火、暗路の導き手と言えば良いだろうか。心身を錬磨して精神的に高い位置に到達したからこそ、見えてくる世界が在るのだと先生に会って教えられた気がする。人生相談は本業ではないので、ごく限られた人脈を通してしか接近できないのは残念だが、好意的に相談に応じてくれる私設の人生アドバイザーである。
     
現実界と霊界を行き来できる人がこの世には存在する。
霊能者の霊感に感応するという、生まれて初めての体験をする時が来た。
訪れる人はきわめて限られているようである。幸いにも剛はこの方、先生の別荘を訪ねる機会に恵まれた。
霊感の鋭い友人がいて、先生のことを話してくれたのが機縁であった。彼は剛の家系という古い体系に興味を示し、源平藤橘に頼れば何処かで交じり合うかも知れない、祖先の系譜に期待するところがあった。
剛自身も先祖の系譜を詳しく知らなかったこともあって、友人の紹介という形を借りて先生の別荘を訪ねたのである。湘南の小高い丘の上にある別荘は、海沿いの国道から少しばかり歩いたところにあった。

 訪問者の悩みや願いを聞いて、天然万象の理にかなう方途を探る。あるいは個人の人生が出生本来の目的に添えるように、天然自然の霊力を降臨させて本来の道へ誘引する。そう言った安倍晴明のような力を有した先生のもとを訪ねたのである。先生を訪ねると、既に何人かの来客が控室にいて、手持ちぶさたに順番の来るのを待っていた。若い二十歳を過ぎた女姓が一人ずつ奥の一室へと導いている。暫く経ってから剛の順番がきた。三、四畳ほどの茶室で在ろうか、こぢんまりした部屋に机を置いて白髪の先生が快く迎えてくれた。異界に君臨する厳しい風貌を連想していたが、目の前に居る先生は堅苦しさのない空気のように気楽であった。

 姓名と生年月日を述べ、あらましの来訪の経緯を告げると「良い星の下に生まれた」と先生は言った。その後で「剛ちゃんは親からはたいしたことをして貰わないが、親のためになってやる人」だと言う。確かに私の人生にはそんな類いの形跡がある。不自由な田舎生活であったから親の余録など期待も出来なかったし、社会に出てからは自分の一存で道を切り開き、何某かの親孝行をして来たつもりはある。先生は続けて「この世で先祖から与えられた使命を果たすためには、名前を変えた方が良い」と言うのである。通称の一般名である。先生は肩の力を抜いて、厳かではあるけれど親しみのある風格を三畳の間に満たしていた。私の眼を深くえぐるように覗き込んだ視線が、胸奥にすとんと軟着するのを感じて、私のすべての臓腑がX線で透視されたような気になった。

 遠い祖先から現在の自分に到るまでの、歴史的な系譜の概要を告げられた剛は、絵巻物に描かれた人物のように間欠した展開が瞼に焼きついた。「世が世ならばそれ相応の身分」だと落差の大きさを指摘されたときは、現実の相反する境遇が愛おしくさえ思われたのである。しかしそれらは父から聞いた話しや家伝の資料によって、大まかに知っていたことであるから驚くことではなかった。
 常識的には「嘘だろう」「眉唾だ」と一蹴されてしまう事柄だけに、「先祖は立派だったが親の代でだめになった」とか、「君は長男ではないが家を再興する役目を負っている」などと遺伝子レベルで情報を告げられたなら、荒唐無稽だとして聞き捨てる人が居たとしても、剛には真実そのものとして受け入れる内容であった。少なくとも言っていることは的を射ている。今までの自分には明らかに欠けていた背骨の部分を、埋め合わせて補完するに等しい大いなる過去である。信じる人にとっては有意義な人生の栞となるだろうし、心の踏み台にもなるだろう。社会の底辺でもがいている現実の姿は、否が応にも飛翔する高みへの願望となる。

 遠い祖先の霊脈を受け継ぐ選別された人、選別された人のみが受け継ぐ特殊な霊的系譜を、現代の今日に至っても存続しているという事実に驚かされるのである。確かに他者から見て判別の難しい「能力」ではあるが、所詮選ばれた人のみが持つ霊視能力と言うものは、他者にとって知り得ない存在なのである。自分なりにそのような人を『死者の眼を持つ人』と定義づけている。 この特殊な判然としない能力は、後天的に備えた経験に基づく推察や、先人の知恵の蓄積に依存するといったものではない。生まれる前の胎内で遺伝子の流れを潜って着床したか、神秘の世界から突如として降ってきた異界の人種では?と思わせる次元のものだった。
 心身を洗い清め、おそらくは長い修練を積んだ結果なのだろうが、目の前に静かに座っている方から放出される見えない磁波力、静謐な空気を通して伝わってくる霊性感化の波が、新生の息吹とともに体内に吹き込んでくるのを感じている。魂の浄化に他ならないのだが、再び生まれ変わることが仮にもあるとするならば否定する理由は何もない。

 巷には占いをして衆人を惑わす人もいるけれど、かくある人を選別する眼識を持ちたいものだ。当たるも八卦、当たらぬも八卦では困る。だが、先生の場合は市中の占いとは違う。易の要素はあるかも知れないが、あくまでも霊視なのである。何れにしても傾倒しすぎて他力本願になるのは避けなければならない。ほどほどが無難のようである。どのような人にも先祖があり、死者としての先祖があるわけだから、誰にとっても死者は近い存在であり、霊性を具有している事になる。

 私は八卦占いと云うものを信じていないが、特殊な領域に身を置いて心身錬磨の果てに獲得した能力なら信じる。神職や僧籍にある人の一部には、その様な透視力を持った方が居るのは事実だからである。生存環境が連綿と過去と繋がっている現在であればこそ、心身の鍛練による隠れた世界の具眼化が可能なのではないか。


「先生、私の霊を見てください!」この一言が剛の前途に起こるであろう、ある事件の発端になるとは知るよしも無かった。海の見える高台の一室で、先生はじーっと剛の眼の奥を探るように覗きこんでから、ホッと軽く息を継いで言った。
「世が世ならば」と言ってから、世の隅にある現在の境遇を偲んでか、「会津の方だろう?」と言った。「いいえ、常陸の方です」と応えたが、随分と古い時代の所在を伝えたものだと、自分ながらあきれた。どちらとも言えることだったが、先祖には相応の移動があったからである。「剛ちゃんは、もとは京都にあった〇〇で直系だ―武家〇系の公方さんのあと、大名――代官そして最後が庄屋だった」そう言った後で「やがて鎌倉だな・・・」ぽつりと言うのであった。最後は独り言のようだった。
そして「神仏は一、二、一、二と言う」謎かけのような言葉を残して退室を促した。
代を追うごとに先祖の下降運を覗かれてしまったのだが、すんなりとその言葉が理解できた。そのことは一部に未知の部分があったものの、内に秘めていた既知の事実であったからである。

 先生を知ったのは美系専門学校に入学した時である。後ろの席にいた少年が肩越しに話しかけてきたことに始まる。『君の家は古いだろう?』その場にそぐわない問い掛けが可笑しかったのであるが、何か惹かれるものがあった。その少年から先生の存在を知らされたのである。少年の名前は「晴明」と言って十九歳であった。晴明もまた先生のように霊的な素質を持っていたが、その資質は未だ微弱であった。十九歳の割には落ち着いていて、大人びた物言いのなかに重い荷を背負っている陰りがあり、年頃の無条件の明るさが無かった。切れ長の眼が何処か遠くを見ている不思議な少年で、彼の中に潜むもう一人の自分を、全面肯定しているような自信と落ち着きがあった。
 断言的なところはあったが少年にありがちな純な心情も持ち合わせていた。彼は剛の深奥に潜んでいる霊的な血脈に興味を示していて、剛の先祖について聞きたいと云う思いが強くあった。その為に順序として晴明の母親の家系を話してきたのである。
                        
                         続いて『心象風景 その2』
                                                 


 


 心象風景 その2


清明の母は東北の日本海に面した港町に生まれ育った。地元では有数の網元だったと云う。漁期には鰊がたくさん獲れた。多くの漁師を抱えて浜は活気に満ちていたが、代を重ねるうちに漁は細り鰊の浜揚げも減っていった。いつしか家運も衰退して祖父の代が最後となったのである。
 今でも網元だった家はあるようだが、血縁は切れているらしい。祖々父の代に養子を迎えて後継ぎにしたことで、実子は別居せざるを得なかった。何らかの事情があるにせよ別居した祖父の血を引いた清明の母は、結婚して他の地に一家を構えたことになる。

 「お袋に言わせると、俺はお爺ちゃんに似ているそうだ。」晴明は祖父に似ているといった母親の言葉に満足げである。母の云う祖父は漁師たちの面倒見が良くて、困っている人を見たら放っておかない質だったと云う。誰からも尊敬されていたが清明が生まれる遙か前に亡くなっていた。古風な旧家の坊ちゃんと云った清明の風貌は、祖父の姿を映していたのかも知れない。
 何時だったか清明の家に遊びに行ったことがある。専門学校が夏休みに入ってすぐだっが、彼の家に電話をすると「明日ならいいよ」ということであった。
夏の暑い日差しが砂浜を熱していた頃だった。清明の家は湘南の海辺にあった。夏期の海辺は東京近辺からも海水浴客がどっと繰りだして、大変な混雑になるので有名であったが、その日は初めての訪問だったので、晴明を電話で呼び出して駅まで来てもらった。清明の家に着くと母親が迎えてくれた。剛のことは既に話してあったらしく、母親はにこやかな笑顔で、家族の話や戦前は南方の島に住んでいたことなどを話してきた。一通り話が終わると「清明ちゃんは海の家でアルバイトをしているの」「女の子のお友達も多いのよ」何気なく息子の生活ぶりを話したのであろうけれど、一日を無駄に過ごしたくないと暗にくぎを刺してきたのかも知れない。一息ついた後で剛の頭上に視線を当てながら、「ご先祖は常陸国に住んでいたでしょう」と突拍子もなく意外なことを言った。剛は「そのようですね」と言ってみたものの、話の脈絡を測りかねていた。

 母親が言うには、「昔ね、常陸国の佐竹公に仕えていて、お殿様のお膳所を任されていたのよ」そう言ったかと思うと、「本来なら身分は佐竹公の方が低いのにね」と大昔の氏素姓が平氏であることを強調していた。佐竹公が秋田へ移封された後も、殿の御側にいて御膳番をしていたと言うから、佐竹公の信頼は厚かったと見るべきだろう。
過去の栄華を懐かしんでいるのだろうか?とその時は思ったけれど、そうでは無いらしいことがだんだん解ってくるのである。過去のある事件、気の遠くなるような古い事件が頭をもたげてくるのだ。
 何かを探している・・・古い記憶を手繰り引きよせて、或るものを追い求めている・・・直感的にそう感じた。その後も何度か遊びに行ったが、行くたびに最初に受けた歓待とは違うものを感じるようになった。紛れもなく剛を避けるような、よそよそしい対応へと変わっていくのである。

 剛が霊性に関心を示すようになったのは、清明の影響によるところが大きい。関心を持つこと自体は良いのだが、眼の前の情況に対応するだけで精一杯だった剛にとって、遥かな過去に引き戻された挙げ句、相手の追い求める出来事と向き合わされるとなると、荷が重くてナンセンスである。異次元の怪物に出会ったみたいな驚きさえある。しかし、晴明を通してこのような道に迷い出たからには、怨念の種が幾世代にわたって既に蒔かれて来たと解すべきだろう。

 意識の有無に拘わらず、DNAに取り込まれた遺伝子情報の中に、怨念という記憶素子が埋められていたにちがいない。子々孫々に記憶が途切れないように、百年に一回程度のメンテナンスをしようと、晴明をこの世に送り出してきたのだ。このような世姿で敵対する相手の前に現われるとは、背筋に氷の刃を突きつけたも同然ではないか。

 晴明と付き合い始めた頃は怨念など思いもよらない観念であった。少年の純真な感情に秘められた、古い時代の匂いを感じさせはしたが、それは少年の中にある古い血が眠りから完全に覚めていなかったからであり、形有るものとして放出するには力が不足していたからである。友情として胸に引きずっている思いを吐露することもあった。晴明の胸には黒い塊があって、内奥から噴出する判然としない塊を持て余していたきらいがある。剛に語ったところによると、自分の中に感じる先祖は『出雲のスサノオ』であり、『古事記は出雲の神話を盗んだもの』だと言う。彼によれば出雲の王国こそ正統な『ヤマト』だと言うのである。ある時は倭の五王の珍(反正天皇)が祖だと云い、ある時は将門の子孫だと言い、壇ノ浦に沈んだ平家一門だと言う。共通しているのは栄華の果てに消えていった悲運の一族である。 
 晴明のこの言からいえば、謎とされる古代出雲の『国譲り』の伝承が、出雲と大和の勢力争いの事件として、後世の子孫の上に覆い被さってきたことになる。また、源平合戦の勝者と敗者の決定的な関係が、晴明の内に秘める「黒い塊」となって、歴史の訂正を迫ったとも言える。平成になってからの晴明のブログには『千年も二千年も前の出来事を、今の時代に引き出したくない』という思いを書き留めている。思いは揺れていたのだろう、思いつつそうはならなかったのであるから。彼の遺伝子の記憶装置がそれを許さなかったのである。

 久しく晴明との関係は途絶えていたが、剛がNTT系のブログを始めて間もないころ、コメント欄に彼の名前を見つけたのが再会の始まりであった。もっともIDとは別に個人情報を添えてくれたから晴明だと確信できたのであるけれど、人間の感覚は鋭いもので、それ以前に彼のブログを覗いた時から晴明だと解っていた。晴明もまた鋭い嗅覚で剛のありかを知っていたことになる。
ブログの再会で彼が特異な世界に居る人間だと知った。ブログでの挨拶が「893って知っているか?」の一言で始まったのであるから、彼の人となりが透けるように推察できた。

 それから程なくして『ある事件』が突発した。この事件は彼が引き起こしたといってもいい。彼によって剛のブログが炎上したのである。これについては『ある事件の記』という別稿の記事に経緯を述べている。ある疑いをかけられて、剛の名前が巷間に飛散したのである。組織の至る所に知れわたるようになり、ブログから撤退しなければならないという散々な目に遭った。事の始まりは彼が不確定な噂を流したからであり、結果として冤罪事件で収まったのであるが、思わぬ事件の当事者にされた剛の面目は、いっこうに回復される様子はなかった。

 冤罪と解ってからは彼の立場が微妙になった。組織も振り上げた拳の持っていきようを、彼に求めたのであろうか。その辺のところはバタバタとブログの波が立って、具体的なことは何も分からない。剛にしてみれば晴明の置かれた状況に哀れみを感じて、「真面に生きて少年の頃の生気を取り戻して欲しい」と思うばかりであった。晴明にも言い分はあると思う。彼にとっては『冤罪』ではなくて、宿年の怨念を晴らす機会であったはずだ。『隣の芝生が青いのは気に入らない、枯らしてやろう』という心境に他ならない。先にも述べたが、晴明には常人にはない霊的感性があって、他者の霊性を引き出して、己の霊性に気づかせてくれる才能がある。他者の霊性を有意に引き出すこともあるが、悪意を持てば障害となって二人の関係は阻害されてしまう。
 祖先からの霊的記憶がDNAの個人情報として、メンタルにインプットされているとしたら、膨大な容量のハードディスクが裸で街を歩いているようなものだ。しかも覗かれているとも知らないで人混みのなかを歩いて行くとしたなら、危険この上もない。実際にはここまで厳密なものではないのだけれど、晴明の透視力は大まかな輪郭を捉えて、内にある古い歴史の流れに照らして相手との距離を測っていたところがある。どの様にしたところで晴明しだいの展開になるのだから、こちらから先に防御する手立てはないのである。

 血脈に潜む古い記憶を呼び起こして、後世の子孫にバトンタッチする摩訶不思議な伝達様式は、千年、二千年という気の遠くなるような時間を飛び越えて、現代人の血脈の内に伝承されているとすれば、七生にわたる怨念に燃えた復讐の刃は、時代錯誤も甚だしく滑稽なのだが、これまで要した時間の長さを考えれば哀れを誘う歴史の敗者なのであった。ようやく探し当てた仇敵をどのように処理すると云うのだろう。歴史に残る記録を改ざんすることは出来まい。こう思った後に、「待てよ、改ざんもあり得るのではないか」と思いなおした。清明は以前に「出雲の古事記を大和が盗った」と云ったのを思い出したのである。 
 剛とは対極にある茫々たる歴史の軋みの上で、櫛名田比売(くしなだひめ)を救った出雲のスサノオや鳴門の渦潮に沈んだ平知盛の幻影を、否応なく海底から引き出して白昼夢の舞台に載せる晴明であった。

                                                                          続いて『心象風景 その3』 
   


 
 心象風景 その3

 「なぜ来た!」先生から発せられた言葉に息をのんだ。高台の別荘を訪ねた剛の前で、何時もと違う先生の様子に驚いたのである。
「霊なんて言うから・・・」先生の困惑した顔から、予想外のことが起きていると直感した。それから小さい声で「バカ!」と呟くように言ったあと暫く黙っていたが、「もう帰りなさい」と剛を突き放した。
 (やはり晴明は道を踏み外したのかーー)先生がこのような態度を見せるのは初めてであった。尊敬と親愛の情で先生を仰いで来たが、思いも寄らない展開になって剛の胸は重い動悸で唸っていた。先生のもとを退出して屋外の高台から海を見つめていても、視線は茫洋として定まらない。
 胸の動悸は高鳴ったまま、おぼろに水平線を見つめていたが、海岸に近い島へと眼を移した時から胸の動悸もようやく収まって来た。島の全景が明瞭になるにつれて、島からほとばしる生気が剛の全身を包み込んで一つになり、太平洋の大海原とこの高台の一帯を連ねて、魂魄の大気が走った。剛の胸に熱いものが流れた。

 こうなる前に清明が自嘲気味に話したことがある。既に二人の間には友情の気脈も薄れて、清明の方が一歩引いていたのであるが、「俺がどのように変わるか誰も分かっていない」と、ぽつりと言った。悲痛さはなかったが、無気力な容子のなかに将来への幻滅が感じられた。剛は返す言葉も無かったが、その意味を理解していた。運命の対極に存在する剛を通して、晴明は自らの運命を予見したのである。
 もっと以前にもこんなことがあった。彼の家には晴明と剛の二人だけだったが、居間にあったプレーヤーで一枚のレコードをかけてくれた。題名は覚えていないが、絶望した少年が沖合に向かって、何処までも泳いでいくという悲歌であった。この時に不思議な予感が頭をよぎったのである。彼も泳ぎが得意で、真っ黒に日焼けした混雑の浜辺で、海水浴場の監視台の上から見守るのが日課であった。夏が来るたびに「海の家」のアルバイトをしている姿は、彼には相応しい姿だった。海に育ち海の申し子のようなV形の胸元が眩しかった。



 晴明がどのような職業に向かったのかは知らないが、剛は美術系の専門学校を卒業すると、学校の就職活動の世話を受けずに自分で職を探した。見つけたのは印刷会社でパンフレットのレイアウトをする仕事である。職業経験と云えば商船会社の海上業務だけであったから、陸上の職場での人間関係を、どのように築いて良いのか分からないまま仕事を与えられていた。二十四歳にもなって社会のスタートラインについた心持ちは、妙に足が地に着いていないもどかしさがあった。それでも社長夫人は好意的に眼をかけてくれた。剛のよいところは、仕事をてきぱきとする方ではないが、誠意を感じさせる真面目さがあった。社長夫人もそこに将来への期待があったのかも知れない。

 小さな印刷工場ながら、大手企業の冊子やパンフレットが多く、ドイツのハイデルベルグ印刷機がデンと据えてある1階と、営業と編集が併設された2階との間を、行ったり来たりして仕事をしていた。剛には社長夫人に対する思いがあって、その思いとは、社長夫人の本姓と剛の姓が同じだという単純な動機なのだが、それだけで親近感のような心を和ませる気持ちになれたのである。しかし旗本の大名家であった社長夫人の家と、武具を鋤鍬に代えた地方郷士の家との違いからすれば、剛の家が隠れた本流を地下に潜らせているとしても、社長夫人と同列であるはずもなかった。
 ある日、剛が一階にある印刷室に降りていくと、主任がにこにこ顔で近づいてきた。「剛さんのこと、社長夫人が褒めていたよ」「将来、印刷の業務を任せたいと言っていた」と意外なことを言う。剛はとりなしてくれる気持ちは嬉しかったが、油性インキにまみれる姿は望まなかった。そうこうして好意的に扱ってくれた印刷会社であったが、半年で辞めてしまった。

 いつの間にか清明少年のことは、表面的には意識から遠のいていた。お互いにそれぞれの道を進むようになってから、ある程度の時間が流れた。印刷会社を半年で止めてしまった剛であるが、暫くして新しい職場を見つけた。『求む社員!業務拡張のため!』新聞広告の短いフレーズが剛の眼に飛び込んできたのである。美術七宝工芸品を製造する会社であった。早速電話で伺うと翌朝に来てくれと言われた。翌日には即採用となったのである。

 暫くぶりに湘南の先生を訪ねて職業を変えた事を告げると、「前のところは良かったのになぁ」と独りごとのように言った後で、「七宝か、よいものを見つけたな」と肯定してくれた。この頃までは湘南の海も静かで、ざわめきがなかった。何事もなく平穏に時は過ぎていった。

 新しい会社に入社した剛の周りには若い人が多かった。今までとは全く違った社風が取り巻いて、色彩豊かと言うよりは思い思いの感性のまま一日を過ごし、仕事が終われば我先に会社を後にして街に消えていった。剛は職場に慣れるために黙々と技術の習得に努めていたが、湘南の海が今までとは違うことに気づかされる日が来るのである。湘南の海がざわめき立っているのも知らないで先生を訪ねると、「なぜ来た!」と冒頭のお叱りを受けたのであった。
 晴明と剛の宿命ともいえる霊性の古い記憶が、激流の嵐となって高台の別荘を直撃していたのである。軟弱な若い思考力は、『過去の記憶』のなかで混乱していた。今の自分が何処にいるのかを見極めることができないでいた。

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 初心者にとって伝統工芸の絵付けは難しい。しかし現代七宝の技法は本来の絵付けの他に、振り掛けという技法があって、スプレーガンで糊水を散布した上に釉薬を振り掛けるという、初心者にも容易にできる製法があった。と言っても基本のノウハウを身につけるまでに時間はかかる。初めは技術のことよりも社内の空気に慣れなくて苦痛だった。時々会社を休み、吉祥寺の街でお茶を飲んだり映画を観たりして、会社から逃避していた。しかし逃避から生まれるものは何も無い。気負い立って職場に来た筈なのに、剛に課せられた将来の夢は初歩の段階で霞の彼方にぼやけていた。

 こんな時にも運命の出会いが、剛の闇を切り開いてくれたのである。商船に乗っていたときに親しくしてくれた先輩夫妻と、予期せずに出会ったのである。剛が喫茶店の入口近くに座っていると、突然入ってきた客があった。黙って下を向いていた剛の側まで来ると、一瞬戸惑ったように立ち止まったのを感じた。客はそのまま店の奥へと行って、隅の椅子に腰を下ろした。客の方へ、そっと顔を上げて見て驚いた。一瞬の閃きが走り、先輩夫妻の顔が飛び込んできたのである。
 忘れもしない先輩の顔が此方を向いて目を伏せていた。先輩は打ちひしがれた剛の容子に気づいて、無言のまま奥の席に向かったのだ。あまりの変わりように言葉をかけることも出来ないで遠くの席に座ったのだ・・・先輩は大阪に住んでいる筈なのに、どうして此処に?・・・きっと剛に会いたい一心で、コンタクトもとらずに武蔵野の一角まで出てきたのだ!偶然にも見えない糸に導かれて、東京の西空の下で出会ったのだ!剛の胸はぐらぐらと回転した。そうして短い時間ではあったけれど、一言も交わさずに別れたのである。この悔しさが剛の気持ちを強くした。それからは会社に行くのも苦痛ではなくなった。

 すっかり会社に馴染んできて、美術工芸品の製造ラインに組み込まれながらも、自分の将来に希望が持てるようになっていた剛であった。バラ色の夢といかないまでも、少なくとも今よりは豊かな生活ができることを信じて、仕事に精を出していた。夢を追うような淡い希望の灯が、微かに燈ったのである。そのような情況が続いていたなかにも、清明への再起を願う気持ちが心の隅にあった。彼の将来に軌道を外す事など無いように、密かに祈ることで剛の心も救われていた。

 仕事が一通りできるようになり、生活にも潤いが出て来たところで女が近づいてきた。女は積極的に剛の前に現れて、仕事が終わるのを待つようになった。剛の肌に焼きついた海の匂いに惹かれたのであろうか、今までとは違う異性タイプを認めたからなのか、剛と一緒に電車に乗って帰る日が続いた。彼女は23歳になっていたが、小石川のアパートに突然訪ねて来たときには驚いた。赤い着物に黄色い帯の姿が突然ドアの前に現われたのである。
 「如何してここの場所が分かったの?」彼女には教えてなかった部屋であったが、本郷のアパートに住んでいる男の同僚から聞いたというのである。ニコッと笑った顔が何時もの彼女と違って、少女のような可憐さがあった。都会的なセンスとラフな日常の振る舞いを見るにつけ、彼女への思いは切なくなるのだが、如何しても一歩を踏み出せないでいた。

 剛には仕事を手段として大きく飛躍する、命運のようなある使命感が邪魔をしていた。
湘南の先生が示したように、血脈に流れる霊的な宿命を負った剛には、女の情念にどっぷり浸ることができなかったのである。女は豊かな情念を持っていたけれど、時として粗野な振る舞いを見せることがあった。誰にでも多少の心的不安はつきものだが、不安を払拭するために男女の情交を積極的に求めたところがある。しだいに女から距離を置くようになった。女は淡い香りを残して別の男へ飛んでいった。     

  晴明のように眼に見えない対立の構図が、何処に起こっていても不思議ではなかった。不運にも会社の経営者が清明と同じ壇ノ浦系であったので、職場の中にも鳴門の渦潮が逆巻いていたのである。貪欲で私欲の強い経営者ではあったが、社員慰安のためにバス旅行を企画して、関東甲信越の温泉地を巡って来たのが思い出になっている。企画は当番で社員が当たっていた。
 問題も起こしていた。社員宛の郵便小包を勝手に私物化したことや、技術的な特許申請で他社と揉めたことがあった。他社の技術を先行登録してしまったのである。もっとも小包を開封した件は、ずっと後になって判明したことであり、在社中はあり得ないことと思っていた。後年の社員の身に大きな災難が降りかかってくるとは、思いもよらないことであった。
 何かとごたごたが起きやすい会社ではあったが、規制のゆるい社風が若者を惹きつけた面もある。絶えず新人の入れ替わりがあり、流動性の激しい職場には、若者の熱気と退廃が同時進行しているところがあって、良く言えばほどほどの自由な空気の中で仕事をしていたことになる。剛も当初はなかなか社風に馴染めなかったので、直ぐに消えていく泡沫社員の一人と見られていたようである。当の本人は十年間も会社に居続けて、すっかり板についた社員になっていた。

 入社してから10年目を迎えたある日、社長室に呼ばれた。「君も十年勤続だな。社の方針として、長年勤続社員の中から、独立させる考えがあるのだがどう思うか」と思いがけない言葉であった。少し間をおいて「君より先輩もいるが、君が一番で適任だと思う。如何だろう?君の気持が聞きたい」そう言われると、いよいよ来たかと言う思いがした。社長が本心から『適任だ』と思っているかは怪しいのであるが、「これも潮時かな」と思って応諾した。

 社長の声掛かりで工場を三鷹市に開設し、結婚したばかりの妻と夜遅くまで就業した。働けば働くほど自分たちの収入も増えると思っていた。確かに借金を返すほどに始めは良かったけれど、その内に社内幹部から特別扱いだと言う苦情が出て、あっという間に釉薬の単価が二倍に跳ね上がり、いくら生産してもぎりぎりの生活費を稼ぐだけとなるのであった。そうこうして30年も下請工場を続けることになったのである。美術工芸品の焼き物を製造する工場は、出来高に対する工賃制であるから、安い工賃で会社に上手く取り込まれることであった。製品を加工して納めるだけの自転車操業で30年が過ぎた

                          続いて『心象風景 その4』  


 
心象風景 その4

 独立と言っても自分のオリジナル製品を作るわけではない。素材を親会社から搬入して、加工生産するだけの請負に過ぎないのである。自分でデザインした作品をプレゼントしたことはあるが、あくまでも趣味の範囲でチャチなものであるから自慢にはならない。三〇年も続けた協力工場であるけれど、その内容は多忙であった反面、利益には恵まれなかった。社長の意には添えたかも知れないが、剛の前途は己の愚劣さでもって忍従に耐える日々となった。自分の立場を容認し得ない30年であったか、若しくは容認したとしても、己の力量不足に幻滅した30年であったが、どちらにしても実態は下請けに甘んじて、会社の利益に貢献してきたという思いはある。
 そんな時に、社長の呼びかけで幹部と外部協力者が集められ、緊急の事態説明の場があった。一同がテーブルに着いたところで、言ったことは突然の工場閉鎖の宣告であった。生産の売り上げに対して人件費の増大が嵩み、これ以上経営を続けるのは難しいと言うのだった。この言葉は剛には意外であった。なぜなら量産体制の工場規模から言えば、他の小さな会社でも存続しているのであり、億ションの不動産を取得して私財を積み増す余裕もあった。倒産の説明は短時間で終わったが、誰も何も言わない。間を引き取って剛が社長に話しかけた。「私が入社した頃に小包が届いたそうですね・・・」古い事柄を切り出して長年の疑いをぶつけてみたのである。一瞬まわりが静かになった。ただその一言であったのだが、明らかに社長の反応があった。剛が入社して間もない頃の怪奇事件と言ってもよいのだが、社員宛に届いた小包を社長が受け取って、自分の懐に入れたと噂に上がっていた。社長の反応を見て、おぼろげだった怪奇の噂が、本当にあったのだと思った。実体を伴うものとして剛の胸に刻んだ。

 それからどのくらいの日数が過ぎたのだろう、最後の納品で会社を訪れた際に、玄関口で剛の来るのを社長の義妹が待っていた。おずおずと「返すように言ったのだけれどーー」と消え入るような声で話しかけて来た。剛は無言で次の言葉を待ったが、他の社員が来たのでそのまま終わってしまった。この前、社長が工場閉鎖を宣言したときに、剛が発した言葉『小包が届いたそうですね』の一言に、反応したのかも知れない。意味するところは推察できたし、一段と『噂』から『事実』への姿を厚塗りしたのであったが、剛にしてみれば遙かに過ぎ去った事象であり、如何にもならない時間の隔たりに嘆息するだけであった。

  閉鎖と同時に社長の長男が別会社を起こす手はずになっていた。社長は私を部屋に呼んで、「君が望むなら新しい会社で働いてみないか」と云うのである。建売住宅をローンで購入したばかりであり、ほかに手立ても余力もなかったので二つ返事で応諾した。工場はかなり遠方のK県の山中にあったが、高速道を利用して何とか納品することが出来た。納品日には往路を高速道路で走り、帰路は一般国道の曲がりくねった山道を、ハンドリングを楽しみながら走行した。採算度外視の観光納品と言った方が相応しい。暫くして前社長が死んだ。その一週間前に秘書の儀妹も死亡している。そこに至る経緯には謎があるのだが、、、

 ここでは鳴門の渦潮が剛を沈めた戦いであり、最後には共倒れの戦場だったのである。なぜなら会社も名目的にではあるが、同時に潰れたからだ。しかし、その息子は形を変えて会社の再興の手はずを整えていた。北条早雲ごとき一大パフォーマンスで工場を設置している。剛からすれば鳴門の渦潮とともに海中に引き込まれたようなものだ。しかし、この事を以て全てに終止符が打たれたわけではない。今起きていることは歴史の1ページに過ぎないのだから。
 過去をふり返って思うことは、比喩的に言うならば氷河期に死滅したはずのマンモスが、なぜ20世紀(当時)の現代に現れたのか?というナンセンスにして解けない難題である。事は動物ではなく、人間の時間を超越した意思伝達の仕方であるから、死後の霊の作用が連綿と子孫に伝達し得るものだろうか、という問いかけなのである。

 平和な時代から争乱の時代へと時局は動いている。人間の傲慢さがもたらした地球規模の温暖化や、アジア、アフリカでの民族闘争が難民排出の大混乱を招いているのは、時代の新局面を迎える前哨なのだろうか。資源を持つ国と持たざる国との経済的不公平や、食料や水といった生存に関わる資源の不足も、争乱の種となって世界を混乱させている。悉くやっかいな時代になってきた。
 中東で拡大されてきたISの残虐行為も、もとはと言えば大国による干渉の失敗であり、大国の世界支配が崩壊したことを示している。混沌とした時代には魔物も住みやすい。善きにしても悪しきにしても歴史は繰り返すという言葉通り、輪廻の永劫の塵芥を引きずり、あるいは彗星のように光の尾を曳いて、周回の後世に現れるものは、一体何者なのか?何処から来て何処へ行くのであろうか・・・。太陽系外の謎の存在を示唆したNASAの研究者たちにも、それは解らないだろう。21世紀はIPS細胞医学の技術が飛躍的に発展する世紀だ。スサノオと天照大神は喧嘩をしている場合ではない。蘇えって二十一世紀の神話をつくって欲しい。

                       続いて「心象風景」その5       



 心象風景 その5 ー過去との遭遇―

  常陸国(現在の茨城県)は関東の外れにある。と言ってもその歴史は古い。朝廷の勢力圏からすれば、任命を受けた国司が赴任する最果ての地であり、その奥には蝦夷の支配する陸奥国が控えていた。
 早くから桓武平氏の根づいた地でもある。将門が関東一円を荒らしまくった承平の乱も、平氏一族の内紛が発端であった。地元に根づいた国司の子孫が起こした争いでもある。将門に父国香を殺された平貞盛は、藤原秀郷と共に将門を誅殺して、平氏の中核に躍り出ることになる。貞盛の子維衡が伊勢に移り住んで伊勢平氏の始祖となり、やがて清盛の時代を引き寄せる端緒となるのだが、その根源は常陸国の原野を、思う存分に駆け巡った祖先たちの、野性的な闘争心を培ったお陰ではないだろうか。
 
 平氏一門が関東一円に勢力を広め、鎌倉を中心とする有力な豪族として活躍して来た。源頼朝が武家の棟梁として鎌倉に幕府を開いてから、源氏の優位性が高まったこともあり、関東の地にも甲斐武田氏や上野新田氏、下野足利氏など源氏流が力を発揮してきて、花の乱の戦国時代を迎えることになる。
 戦国時代の常陸国は清和源氏佐竹氏が領有していた。戦国時代の末期にさしかかった頃、ある事件が起きたのである。佐竹(義瞬か)は隣国を侵略して強大な勢力を誇っていた。そのような情況の中で佐竹四天王の一人、大塚掃部介国久という武将に降りかかった災難なのである。
 掃部介に良からぬ思いを抱いていた佐竹公の陪臣の一人が、掃部介の人となり行動に疑念があると、佐竹公に告げたのである。掃部介は常陸国の北部にある多賀庄を治めていたのであるが、白川結城氏の領土と隣り合わせであったことが災いしたらしい。陪臣の眼には、掃部介と云う武将が目障りで、天敵のように存在を認めたくない敵対心を持っていた。戦いでは前線で指揮を執り、神とも崇められていた掃部介の器量が、腹の底から疎ましく感じられて見るのも嫌であった。そのような折に噂が流れたのである。

 戦いに明け暮れていた時代でも、隣国との間に義理が絡めば、相手の領地田畑を荒らさない暗黙の了解があった。手加減をするのである。掃部介にもそのような義理があったのか、結城氏領内での噂が陪臣の耳に入ったのであった。
 掃部介と結城氏との間に何やら関係があると告げられた佐竹義瞬公は、掃部介を呼んで問いただしたが納得のいく説明が得られなかった。掃部介には養子説があって、他所から貰われた子だというのである。その辺の仔細も聞いてみたが、ハッキリしたことは分からなかった。
 掃部介自身には深い謎があった。確証はないが後世の説によると、掃部介は小山氏の子だという。大塚氏は何代か前に佐竹公と主従関係を結んでいた同族であり、小山氏や結城氏といった藤原氏出とともに重要な国の守りについていたのである。また鎌倉公方の持氏との絆が強かったことも、謎を深める一因になっている。いずれにしても小山氏の子であるならば、佐竹公の疑念は生じないはずである。大塚氏の子として成長した国久は、佐竹四天王の一翼を担う大将として、常陸国の北辺を守ってきた。陪臣の眼にはその辺の経緯が謎として映っていたようだ。
 戦国時代に主従関係を疑われるとなると身辺は穏やかでない。佐竹氏系図のなかに『この者出自を詳らかにせず』とあるので、養子縁組にかなり入り組んだ背景と謎を生む境地があったのであろう。
 佐竹公の疑念をうけて多賀庄に居ることはできない。多賀庄どころか身辺の危惧を思えば、常陸国から出ていかざるを得ない状況に追いやられた。この窮地に手を差しのべてくれたのが、奥州白川の結城氏だったのである。
 常陸多賀庄を出る決意をすると、北方の山間地より結城氏のもとへ向かった。結城氏とともに佐竹氏の領有となっていた南郷の羽黒城を攻め落とすのである。羽黒城は元々結城氏の管轄領域であったが、佐竹氏によって奪われていた山城である。国久の攻略によって本来の領地に戻したことになる。再び羽黒城は結城氏の保護領となり、大塚氏の居城となって最前線の防御戦を担うことになったのである。国久は羽黒城主となってからも源氏を名乗っている。

 時代は遡るが常陸の大塚氏の祖は、鎌倉公方の足利持氏にかなり目をかけられていたようで、太田亮著「姓氏家系大辞典」の大塚条にも鎌倉には恩義があったと記されている。上杉禅秀の乱を鎮めた報酬として、禅秀の領地を拝領したことを指している。鎌倉公方の持氏は将軍後継争いで、京都の幕府側に敗れて自害したが、子の成氏は助命されて後に鎌倉公方になる。兄の春王丸や安王丸は、関東の有力者である結城氏の保護の下にあったが、幕府との戦いに敗れて二人とも首をはねられてしまう。また末弟の4才男児が京都から鎌倉に向かったとも言われるが、その後の消息はわからない。このような時代背景の中で、国久が幼少期を迎えていたことになる。さて、何処にいたのだろう。太田氏の推定するように小山氏のところか。

 国久が羽黒城を落としたとする永正二年(1505年)を基点に考えてみると、武将として四天王として名実ともに最盛期にあったとすれば、三〇代半ば頃ではなかったか、と推察するのである。それから逆算すると大まかな幼少期の年代が分かってくる。鎌倉公方や古河公方との関係は知る由もないが、小山氏や結城氏、大塚氏の関係からみると、どうやら背後関係に歴史がうごめいているのを感じるのである。

 国久が羽黒城主となっても源氏を名乗っているのを見ると、故あって小山氏から大塚氏の養子となったとして、その後は佐竹勢の一翼を担う四天王の一人になっていた訳で、相当の力量を発揮していたと思われる。常陸との縁が切れた後も源氏である大塚姓をそのまま使っているところを見ると、出生家系を名乗ることもできない由来が介在していたのかも知れない。

 白河結城氏は会津蘆名氏と連合して南部一帯を支配していたが、北は須賀川の二階堂氏、東には岩城氏、南に佐竹氏と云うように戦国特有の蛮勇割拠の挟撃にあって、常に領土を脅かされていた。それぞれが離合集散を繰り返して自国領土の拡充に血眼を上げていたからである。国久は永正二年に南郷の羽黒城を攻略することで初代の羽黒城主となり、越前守吉久―大膳大夫久綱―宮内左衛門尉と四代続いたが、天正年間佐竹氏の大軍勢によって攻略され、南郷はおろか白河も進略されて、白河結城氏も佐竹氏の軍門に降って国境の争いはついに終幕を迎えたのである。
  戦国時代が終わって徳川家康の治世になると、大阪の敗將石田三成と関わったとかで、佐竹義宣は秋田に移封されてしまう。佐竹氏が結城氏や大塚氏を滅ぼしたことで、国久を追いやった陪臣にとっては、眼の上のタンコブが取り除かれたことになる。しかしその代償として酷寒の秋田へ移封されて、減封と耐乏を忍ぶ境地へと変転するのは、因果と云うべきであろう。

  徳川幕府の体制も固まって南郷は幕府直轄の天領となり、白河は丹羽長重や松平定信等の親藩が領した。最後は二本松城の管轄に置かれて幕末に至った。白河が松平氏の封地になったころ、佐竹氏に駆逐された結城氏や大塚氏はどのような身の振り方をしてきたのだろうか。大塚氏は何代か後に白河藩の御典医として代々勤め、江戸後期の天保年間まで命脈を繋いできた。おそらく結城氏も同様な経緯を迎えたと思われるが、直系筋の一子が秋田の佐竹氏に仕えたという記録もある。


 世にもおぞましい血脈の争いが、絶えることもなく続いてきた。佐竹公のもとで陪臣が放った讒言の一矢が、晴明のブログを通して飛び交い、500年もの過去から剛のブログを射貫く攻撃となって飛来して来たのである。晴明と剛の家系が千年二千年の時を織りなして対立関係にあったことは、否が応にも認めざるを得ない。怨霊が身に迫ってくるなど剛には想像もできなかった事件だが、こうして晴明の血脈に潜む暗い過去が、剛を遡る代々の先祖の身にも現われて来たと思うと、宿根の深さに戸惑って仕舞うのであった。海中からやっとのことで顔を出して息を吸おうとしたとたん、河童に足を取られて水中に引き込まれてしまった。宿根は河童にとっても日の目を見ない深淵の闇であり、囚われの牢獄なのである。暗陰な世であればこそ、霊障的な世相も現われるのだと剛は思った。希望の輝きで光明の灯を照らせるなら、晴明と剛の闇は晴れて世相も変わるだろう。その時まで、苦痛に耐える気持ちを持ち続けることだ、と剛は思った。無限の時間が解決に導くまで、そっと灯明を忍ばせておこう。



                          心象風景 おわり

                                                                                                                                                                                                                                            


 
 <心象風景に寄せて> あとがき

 肉眼で見える視界が物の存在を認識する限定的な領域だとすれば、心で見る世界はどうだろう。

感性を通して認知する情報の内面化は、一概に言えば脳の働きによって構築される。<見えないものが見える>心の働きは、正常不正常の枠外にあって、他者には認知不能です。脳の神経組織の総合的な機能が、心の働きとして完全に解明されていないのですから、湘南の先生や晴明のように他者の見えない領域まで、透視できる能力を否定できません。
心の領域が理性とともにあるならば、不条理とか不可解なことも自己処理のうちに済んでしまうけれど、如何にもならない内面の葛藤が生じる場合もある。「人生は謎だ」「不可解だ」と、見えないままに崖の縁に立つ人もいるだろう。状況を把握して上手く対処できるのであれば、それに越したことはないが人生は様々である。

 「心象風景」では、現象界が見えざる糸によって、綾なされていく過程を織り込んだものであります。現実と云うものが非現実の見えない抽象界を呼びこんで、私たちの周りにさまざまな事件を引き起こしています。日常繰り返される何気ない生活の中にも、ある日突然に牙をむくシナリオが隠されているかも知れません。晴明が追い求めていた蜃気楼の古代大和を、図らずも剛の血脈の中に見出したところに、悲劇の対立が生まれました。遠い祖先の霊魂が、後世の子孫に限りなく寄生するかのように、歴史の残滓として今もなお跋扈している様は、まさに「現実は小説よりも奇なり」と言えるでしょう。宇宙科学の分野で米チームが捉えた、「ビッグバーンの衝突による衝撃波」のように、これからは見えない領域を可視化する作業が加速されるでしょう。宇宙物理に限らず脳内の神経系や精神作用の病理学においても、並行して解明されていく事が期待されます。

 夏目漱石の「門」が朝日新聞に再掲されました。宗助が円覚寺塔頭に参禅した際に、師から出された公案『父母未生以前本来の面目は何か』について、その解答はぐるぐる回りで出て来ません。『物を離れて心なく、心離れて物なし』と答えた解はつき返されてしまいました。百人いれば百様の答えが出てくる考案なのでしょうが、なかなか背景の広い宇宙的公案です。
 宇宙の広大な摂理のなかで、宇宙運航の流れに乗った小さな生き物、『人間』が生かされています。謙虚であるべき存在でしょう。


2016年8月  終わり





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心象風景 その5  過去との遭遇

2016-01-31 01:00:00 | 小説的随想

心象風景 その5 ー過去との遭遇―

  常陸国(現在の茨城県)は関東の外れにある。と言ってもその歴史は古い。朝廷の勢力圏からすれば、任命を受けた国司が赴任する最果ての地であり、その奥には蝦夷の支配する陸奥国が控えていた。
 早くから桓武平氏の根づいた地でもある。将門が関東一円を荒らしまくった承平の乱も、平氏一族の内紛が発端であった。地元に根づいた国司の子孫が起こした争いでもある。将門に父国香を殺された平貞盛は、藤原秀郷と共に将門を誅殺して、平氏の中核に躍り出ることになる。貞盛の子維衡が伊勢に移り住んで伊勢平氏の始祖となり、やがて清盛の時代を引き寄せる端緒となるのだが、その根源は常陸国の原野を、思う存分に駆け巡った祖先たちの、野性的な闘争心を培ったお陰ではないだろうか。
 
 平氏一門が関東一円に勢力を広め、鎌倉を中心とする有力な豪族として活躍して来た。源頼朝が武家の棟梁として鎌倉に幕府を開いてから、源氏の優位性が高まったこともあり、関東の地にも甲斐武田氏や上野新田氏、下野足利氏など源氏流が力を発揮してきて、花の乱の戦国時代を迎えることになる。
 戦国時代の常陸国は清和源氏佐竹氏が領有していた。戦国時代の末期にさしかかった頃、ある事件が起きたのである。佐竹(義瞬か)は隣国を侵略して強大な勢力を誇っていた。そのような情況の中で佐竹四天王の一人、大塚掃部介国久という武将に降りかかった災難なのである。
 掃部介に良からぬ思いを抱いていた佐竹公の陪臣の一人が、掃部介の人となり行動に疑念があると、佐竹公に告げたのである。掃部介は常陸国の北部にある多賀庄を治めていたのであるが、白川結城氏の領土と隣り合わせであったことが災いしたらしい。陪臣の眼には、掃部介と云う武将が目障りで、天敵のように存在を認めたくない敵対心を持っていた。戦いでは前線で指揮を執り、神とも崇められていた掃部介の器量が、腹の底から疎ましく感じられて見るのも嫌であった。そのような折に噂が流れたのである。

 戦いに明け暮れていた時代でも、隣国との間に義理が絡めば、相手の領地田畑を荒らさない暗黙の了解があった。手加減をするのである。掃部介にもそのような義理があったのか、結城氏領内での噂が陪臣の耳に入ったのであった。
 掃部介と結城氏との間に何やら関係があると告げられた佐竹義瞬公は、掃部介を呼んで問いただしたが納得のいく説明が得られなかった。掃部介には養子説があって、他所から貰われた子だというのである。その辺の仔細も聞いてみたが、ハッキリしたことは分からなかった。
 掃部介自身には深い謎があった。確証はないが後世の説によると、掃部介は小山氏の子だという。大塚氏は何代か前に佐竹公と主従関係を結んでいた同族であり、小山氏や結城氏といった藤原氏出とともに重要な国の守りについていたのである。また鎌倉公方の持氏との絆が強かったことも、謎を深める一因になっている。いずれにしても小山氏の子であるならば、佐竹公の疑念は生じないはずである。大塚氏の子として成長した国久は、佐竹四天王の一翼を担う大将として、常陸国の北辺を守ってきた。陪臣の眼にはその辺の経緯が謎として映っていたようだ。
 戦国時代に主従関係を疑われるとなると身辺は穏やかでない。佐竹氏系図のなかに『この者出自を詳らかにせず』とあるので、養子縁組には、かなり入り組んだ背景と謎を生む境地があったのであろう。
 佐竹公の疑念をうけて多賀庄に居ることはできない。多賀庄どころか身辺の危惧を思えば、常陸国から出ていかざるを得ない状況に追いやられた。この窮地に手を差しのべてくれたのが、奥州白川の結城氏だったのである。
 常陸多賀庄を出る決意をすると、北方の山間地より結城氏のもとへ向かった。結城氏とともに佐竹氏の領有となっていた南郷の羽黒城を攻め落とすのである。羽黒城は元々結城氏の管轄領域であったが、佐竹氏によって奪われていた山城である。国久の攻略によって本来の領地に戻したことになる。再び羽黒城は結城氏の保護領となり、大塚氏の居城となって最前線の防御戦を担うことになったのである。国久は羽黒城主となってからも源氏を名乗っている。

 時代は遡るが常陸の大塚氏の祖は、鎌倉公方の足利持氏にかなり目をかけられていたようで、太田亮著「姓氏家系大辞典」の大塚条にも鎌倉には恩義があったと記されている。上杉禅秀の乱を鎮めた報酬として、禅秀の領地を拝領したことを指している。鎌倉公方の持氏は将軍後継争いで、京都の幕府側に敗れて自害したが、子の成氏は助命されて後に鎌倉公方になる。兄の春王丸や安王丸は、関東の有力者である結城氏の保護の下にあったが、幕府との戦いに敗れて二人とも首をはねられてしまう。また末弟の4才男児が京都から鎌倉に向かったとも言われるが、その後の消息はわからない。このような時代背景の中で、国久が幼少期を迎えていたことになる。さて、何処にいたのだろう。太田氏の推定するように小山氏のところか。

 国久が羽黒城を落としたとする永正二年(1505年)を基点に考えてみると、武将として四天王として名実ともに最盛期にあったとすれば、三〇代半ば頃ではなかったか、と推察するのである。それから逆算すると大まかな幼少期の年代が分かってくる。鎌倉公方や古河公方との関係は知る由もないが、小山氏や結城氏、大塚氏の関係からみると、どうやら背後関係に歴史がうごめいているのを感じるのである。

 国久が羽黒城主となっても源氏を名乗っているのを見ると、故あって小山氏から大塚氏の養子となったとして、その後は佐竹勢の一翼を担う四天王の一人になっていた訳で、相当の力量を発揮していたと思われる。常陸との縁が切れた後も出生本来の源氏である大塚姓をそのまま使っているところを見ると、出生家系を名乗ることもできない由来が介在していたのかも知れない。

 白河結城氏は会津蘆名氏と連合して南部一帯を支配していたが、北は須賀川の二階堂氏、東には岩城氏、南に佐竹氏と云うように戦国特有の蛮勇割拠の挟撃にあって、常に領土を脅かされていた。それぞれが離合集散を繰り返して自国領土の拡充に血眼を上げていたからである。国久は永正二年に南郷の羽黒城を攻略することで初代の羽黒城主となり、越前守吉久―大膳大夫久綱―宮内左衛門尉と四代続いたが、天正年間佐竹氏の大軍勢によって攻略され、南郷はおろか白河も進略されて、白河結城氏も佐竹氏の軍門に降って国境の争いはついに終幕を迎えたのである。
  戦国時代が終わって徳川家康の治世になると、大阪の敗將石田三成と関わったとかで、佐竹義宣は秋田に移封されてしまう。佐竹氏が結城氏や大塚氏を滅ぼしたことで、国久を追いやった陪臣にとっては、眼の上のタンコブが取り除かれたことになる。しかしその代償として酷寒の秋田へ移封されて、減封と耐乏を忍ぶ境地へと変転するのは、因果と云うべきであろう。

  徳川幕府の体制も固まって南郷は幕府直轄の天領となり、白河は丹羽長重や松平定信等の親藩が領した。最後は二本松城の管轄に置かれて幕末に至った。白河が松平氏の封地になったころ、佐竹氏に駆逐された結城氏や大塚氏はどのような身の振り方をしてきたのだろうか。大塚氏は何代か後に白河藩の御典医として代々勤め、江戸後期の天保年間まで命脈を繋いできた。おそらく結城氏も同様な経緯を迎えたと思われるが、直系筋の一子が秋田の佐竹氏に仕えたという記録もある。


 世にもおぞましい血脈の争いが、絶えることもなく続いてきた。佐竹公のもとで陪臣が放った讒言の一矢が、晴明のブログを通して飛び交い、500年もの過去から清二のブログを射貫く攻撃となって飛来して来たのである。晴明と清二の家系が、千年二千年の時を織りなして対立関係にあったことは、否が応にも認めざるを得ない。怨霊が身に迫ってくるなど清二には想像もできなかった事件だが、こうして晴明の血脈に潜む暗い過去が、清二を遡る代々の先祖の身にも現われて来たと思うと、宿根の深さに戸惑って仕舞うのであった。海中からやっとのことで顔を出して息を吸おうとしたとたん、河童に足を取られて水中に引き込まれてしまった。宿根は河童にとっても日の目を見ない深淵の闇であり、囚われの牢獄なのである。暗陰な世であればこそ、霊障的な世相も現われるのだと清二は思った。希望の輝きで光明の灯を照らせるなら、晴明と清二の闇は晴れて世相も変わるだろう。その時まで、苦痛に耐える気持ちを持ち続けることだ、と清二は思った。無限の時間が解決に導くまで、そっと灯明を忍ばせておこう。



                          心象風景 おわり




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心象風景 その4

2016-01-30 11:07:07 | 小説的随想

 独立と言っても自分のオリジナル製品を作るわけではない。自分でデザインした作品をプレゼントしたことはあるが、あくまでも趣味の範囲である。三〇年も続けた協力工場は偏に多忙の連続で、社長の愚劣さを容認しない間の三〇年であったか、若しくは容認しないまでも無視した三〇年であったが、どちらにしても実態は下請けに甘んじて、会社の利益に貢献してきたという思いはある。

そんな時に社長が外部協力者と幹部とを集めて説明会が催された。その席では突然の工場閉鎖の宣告であった。つまり生産の売り上げに対して人件費の増大が嵩み、これ以上経営を続けるのは難しいと言うのだった。これは口実に過ぎないのではないか?生産が極度に落ち込んだわけでもないし、億ションの不動産を手に入れて私財を積み増す余裕もあったのだから。

 社長が外部協力者へ閉鎖の宣言をした後に、其れまで黙って話を聞いていた清二が社長に話しかけた。「私が入社した頃に小包が届いたそうですね」古い事件だが一瞬まわりが静かになった。ただその一言であったのだが、明らかに社長の反応があった。清二が入社した頃に起きた事件で、社員宛名の郵便小包を猫ばばしたと噂に上っていた。社長の対応に戸惑いを見た清二は、息子への世代交代をして難を逃れようとしているのだ、と剛にはそのように思えた。

  閉鎖と同時に社長の長男が別会社を起こす手はずになっていた。社長は私を部屋に呼んで、「君が望むなら新しい会社組織で働いてみないか」と云うのである。建売住宅をローンで購入したばかりであり、ほかに手立ても余力もなかったので二つ返事で受諾した。
 工場はかなり遠方のK県の山中にあったが、高速道を利用して何とか納品することが出来た。納品日には往路を中央高速道路で走り、帰路は一般国道の曲がりくねった山間の道を、ハンドリングの切り返しを楽しんで走行した。採算度外視の観光納品と言った方が相応しい。
 暫くして前社長が死んだ。その一週間前に秘書の儀妹も死亡している。そこに至る経緯には謎がある。ここでは平氏が鳴門の渦潮に源氏を沈めた戦いがあり、共倒れの戦場だったのである。なぜなら会社も名目的にではあるが同時に潰れたからだ。しかし、その息子は形を変えて会社を再興する手はずを整えていたのだから、首根っこを押さえられている清二の立場は、頗る頼りない捕囚の哀れな存在でしかなかったのだ。

 清二にすれば鳴門の渦潮に閉じ込められて、藻掻いてもどうにもならない思いに長年浸ってきたので、一朝事あればなどと云う頼朝の気概からは随分と遠い意識に追いやられていた。浮かぶ事も叶わない海底に閉じられている身ではあるが、いつの日か陽の当たる場所に立ち返るのだと云う、暗黙の希求が清二の生を支えていたのは確かである。
であるから、この事を以て全てに終止符がうたれたわけではない。今起きていることは歴史の一ページに過ぎないのだから。

 過去を顧みて事象を追うだけなら歴史の傍観者に過ぎないが、歴史に巻き込まれた当事者にしてみれば、これが元で命の危険に曝された身である事を考えると、氷河期に死滅したはずのマンモスが、なぜ20世紀の現代に出現したのか??比喩的なこの問題には人類の謎が隠されているような気がする。この世には解らないことが多くあるようだ。ナンセンスにして解けない難題である。連綿と後世に尾を曳く、彗星のごとき冷ややかな触手で在処を探り、時代のほころびを縫って現われる亡霊。遙かに遡る太古の事変や、源平の争乱に潰えた栄華の残滓に浮遊する亡霊たち、過去に生きた人間の意思、魂と言うものが子々孫々に相伝して、相応の敵対者に報い得るものであろうか?

 清明と母親のように、強烈なインパクトで敵と味方を峻別する潜在力は、常識的には此の世のものではない。時代を超越して代々の血脈の中に隠れていて、時としてムラムラと時代の表層に現われてくるのは、それなりの時局の巡り合わせによって眼前の対象者に焦点が合ったときである。時代が平和で協調に彩られた社会では現われてこない現象であるから、よほど陰湿な時代を引き込んで延々と今日の情勢の中に、自らの居場所を保ちつつ潜んで来たものであろう。

 翻って国内では、戦争のない平和な時代から争乱の時代へと時局は動きつつある。持てる者と持たざる者の貧富の格差や、憲法の根幹に触れる九条にも手をつけようとしている。国論が二分される大きな問題であるから、時代の悪鬼は虎視眈々と行方を見つめているに違いない。未だに覇権争いに明け暮れるアジアの大国の行方はどうなるのだろう。資源を持つ国と輸入に頼る国の互恵関係はいつまで温存されるのか。大国と中小国の生存競争はナショナリズムに呼応して一層激しくなりそうだ。将来において水などの資源確保と食糧の分配問題では、凄惨な争奪戦が待っているかも知れない。大国による世界支配が崩壊して、新しい世界秩序が出来るまで混沌は続くのだろう。混沌とした時代だからこそ亡霊が闊歩する闇が存在するのである。歴史は繰り返して止まない。

 輪廻の永劫の塵芥を引き摺り、あるいは彗星のように光の尾を曳いて後世の闇に現われる悪鬼、それらは時代によって醸成され拡大していく。宇宙組成のマクロ現象が人間社会に波動を及ぼしている可能性も無視できない。地球規模の大変革期を呈している世界情勢を見ていると、もう一つの大きな生命組成体が存在して、宇宙の運行の中で連結しているようにも見える。それにしても今世紀は中山伸弥教授の多能性幹細胞、iPS細胞の再生技術が飛躍的に発展する世紀だ。欠けているものを補い、或いは新たに再生して元に戻すという、は虫類もどきの医科学が時代を引っ張って行こうとしている。スサノオと天照大神は喧嘩をしている場合ではない、蘇えって21世紀の神話を作ってほしい。

 







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心象風景 その3

2016-01-26 11:30:52 | 小説的随想

「なぜ来た!」先生から発せられた言葉に息をのんだ。
「霊なんて言うから・・・」先生の困惑した顔から、予想外のことが起きていると直感した。小さい声で「馬鹿!」と言ってから暫く黙っていた頭をもたげ、「もう帰りなさい」と私を突き放した。(やはり晴明は道を踏み外したのか?)
先生がこのような態度を見せるのは初めてであった。親近の情を抱いて指導を仰ぐ気持ちで来たが、先生のもとを退出して屋外の高台から海を見つめる眼も、茫洋と定まらなかった。胸の動悸は高鳴ったまま、おぼろに水平線を見つめていたが、暫くして眼前の島影に眼を移すと胸の鼓動もようやく収まって来た。眼前の島が露わになるにつれて、島を覆う全体の気迫が自分と一つになり、太平洋の大海原とこの高台の大地から立ち上る大気の抱擁を一生忘れまいと心に誓った。清二の胸の中に熱いものが流れた。

こうなる前に清明が自嘲気味に話したことがある。
既に二人の間には輝かしい気脈は脱薄して、清明の方が一歩引いていたのであるが、「俺がどのように変わるか君は分かっていない」と、ぽつりと言った。悲痛さはなかったが将来に幻滅した様子が窺われた。清二は返す言葉が無かったが、その意味を理解していた。運命の対極に存在する私を通して、彼は自らの運命を予見したのである。
もっと以前にもこんなことがあった。
彼の家には彼の他に誰もいなかったが、居間にあった蓄音機で一枚のレコードをかけてくれた。題名は覚えていないが彼の説明によると、絶望した少年が沖合の海に向かって何処までも泳いでいくという悲歌だった。この時に不思議な予感が頭をよぎったのを思い出すのである。彼も泳ぎが得意だった。海の家でアルバイトをしていたのも、彼には相応しい姿だった。海に育ち海の申し子のようにV形の胸元が眩しかった。


 いつの間にか清明少年のことは表面的には意識から遠のいていった。職場にすっかり馴染んできて、美術工芸品の製造ラインに組み込まれながらも、自分の将来に希望が持てるようになっていた。バラ色の夢といかないまでも、少なくとも今よりは豊かな生活ができることを信じて、仕事に精を出していた。夢を追うような淡い希望の灯が、微かに燈ったのである。
そのような情況が続いていたなかにも、清明への再起を願う気持ちが心の隅にあった。彼の将来に軌道を外す事など無いように、心密かに祈ることで私の心も救われていた。


仕事が一通りできるようになり、生活にも潤いが出て来たところで、女が近づいてきた。女は積極的に私の前に現れたが、或る使命感があったのと、女の方に邪淫な感性を観たので深く付き合うことはなかった。女は淡い輪郭を描いたまま別の男へ飛んでいった。     

清明に限らず眼に見えない対立が何処に起こっていても不思議はなかった。不運にも会社の経営者が清明と同じ壇ノ浦系だったので、職場の中にも渦潮が逆巻いていたのだった。私欲の強い経営者ではあったけれど、社員の福利厚生では毎年一度の一泊バス旅行を企画して、関東信越の温泉地を巡って来たのが思い出になっている。企画は当番制で社員が当たっていた。

問題も起こしていた。社員宛の郵便小包を勝手に開封して私物化したことや、技術的な特許申請で他社と揉めたことがあった。もっとも小包を開封した件は、ずっと後になって判明したことであり、在社中はあり得ないことと思っていた。10年後のふとした切っ掛けが元で、社長の義理の妹が口にした言葉、『返すように言ったのだけれど・・・』この言葉が清二の脳の中枢を刺激した。(・・・自分が知らないところで事実あったのだ!)何かとごたごたが起きやすい会社ではあったが、規制の緩い社風が若者を惹きつけた面もある。
絶えず新人の入れ替わりがあった流動性の強い職場には、若者の熱気と退廃が同時進行しているところがあって、良く言えばほどほどの自由な空気の中で仕事をしていたことになる。清二も当初はなかなか社風に馴染めなかったので、直ぐに消えていく流動社員の一人と見られていたようである。当の本人は10年間も会社に居続けて、すっかり板についた社員になっていた。


入社してから10年目を迎えたある日、社長室に呼ばれた。「君も10年勤続だな。社の方針として、長年勤続の優秀な社員の中から、独立させる考えがあるんだがどうかな」少し間をおいて「君より先輩もいるが、君が一番適当と思うのだがどうだろうか、君の気持を聞きたい」
社長の言葉が本心から『優秀だ』と思っているか如何かは疑問だが、「これも潮時かな」と思って応諾した。社長の声掛かりで工場を三鷹市に開設し、結婚したばかりの妻と夜遅くまで就業した。働けば働くほど自分たちの収入も増えると思っていた。確かに借金を返すほどに始めは良かったけれど、その内に社内幹部から特別扱いだと言う苦情が出て、あっという間に釉薬の単価が二倍に跳ね上がり、いくら生産してもぎりぎりの生活費を稼ぐだけとなるのであった。そうこうして30年も下請工場を続けることになったのである。美術工芸品の焼き物を製造する工場は、出来高に対する工賃制であるから、安い工賃で会社に上手く取り込まれることであった。製品を加工して納めるだけの自転車操業で30年が過ぎた。


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心象風景 その2

2016-01-22 20:57:26 | 小説的随想

 清明の母は東北の日本海に面した港町に生まれ育った。地元では有数の網元だったと云う。漁期には鰊がたくさん獲れた。多くの漁師を抱えて浜は活気に満ちていたが、代を重ねるうちに漁は細り鰊の浜揚げも減っていった。いつしか家運も衰退して祖父の代が最後となったのである。
今でも網元だった家はあるようだが、血縁は切れているらしい。子細は分からないが養子を跡継ぎとして迎えたからである。由緒ある旧家には血筋よりも家筋を大事にする家風もあって、何らかの事情があるにせよ清明の母は結婚して他の地に一家を構えたことになる。

 「お袋に言わせると、俺はお爺ちゃんに似ているそうだ。」母の云う祖父は漁師たちの面倒見が良くて、困っている人を見たら放っておかなかったという。誰からも尊敬されていたが、清明が生まれたころは既に亡くなっていた。

古風な旧家の坊ちゃんと云った清明の風貌は、祖父の姿を映していたのかも知れない。
何時だったか清明の家に遊びに行ったことがある。専門学校が夏休みに入ってすぐだったが、彼の家に電話をすると、「明日ならいいよ」ということだった。

 夏の暑い日差しが砂浜を熱していた頃だった。清明の家は湘南の海辺にあった。その日は清明と母親の二人が清二を迎えてくれた。清明は清二を母親に紹介すると、母親はにこやかに清二の前に立ち、家族の話や戦前は南方の島に住んでいたことなどを話してきた。「清明ちゃんは海の家でアルバイトをしているの」「女の子のお友達も多いのよ」何気なく息子の生活ぶりを話したのであろうけれど、一日を無駄に過ごしたくないと、暗にくぎを刺してきた言葉であったかも知れない。 一区切りついた後で「ご先祖は常陸国に住んでいたでしょう?」と突拍子もないことを言って来たのを覚えている。「そのようですね」とは言ってみたものの話の脈絡を測りかねていた。

その後の話で母親が言うには、昔「常陸の国の去る大名に仕えていて、移封後も日本海の東北で殿の御側にいた」と云うのである。
過去の栄華を懐かしんでいるのだろうか?とその時は思ったけれど、そうでは無いらしいことがだんだん解ってくるのである。過去のある事件、気の遠くなるような古い事件が頭をもたげてくるのだ。

 何かを探している・・・古い記憶を手繰り引きよせ或るものを追い求めている――直感的にそう感じた。その後も何度か遊びに行ったが、行くたびに最初に受けた歓待とは違うものを感じるようになった。紛れもなく清二を避けるような、よそよそしい対応へと変わっていくのである。
 清二が霊性に関心を示すようになったのは、清明の影響によるところが大きい。眼の前の情況に対応するだけで精一杯の自分が、遥かな過去に引き戻されて相手の出来事と向き合うなんてナンセンスだ。地球外の異次元の怪物に出会ったような驚きである。しかし、このような結果を招いたと云うことは、既に種はまかれて来たと解すべきだろう。
意識の有無に関わらずDNAに取り込まれた先祖からの遺伝子情報を、他者が覗き見ることが可能な情報としてインプットされているとしたら、膨大な容量のハードディスクが街を歩いているようなもので、危険この上もない。とても自分の責任に負えるものじゃない。
 どの様に思ったところで相手次第で展開する過去なのだから、こちらが防御する手立てはないのである。清明が初めの頃に話したことを繋ぎ合せると、先祖は将門や源平合戦の平氏一門に関わっていたこと、古代における出雲神スサノオの霊を祀っていることなど、歴史から見ればネガティブな話ばかりだった。

 古い記憶を忍ばせ、後々の世に引き継がれた陰湿隠微な復讐の力を、千年、二千年という気の遠くなる時間を超えて果たそうとする執念は、見事と云うか時代錯誤も甚だしく滑稽にさえ思える反面、これまで要した時間の長さを考えれば哀れに思う歴史の敗者なのだった。ようやく探し当てた仇敵をどのように処理すると云うのだろう。歴史に残る記録を改ざんすることは出来まい。こう思った後に、「待てよ、改ざんもあり得るのではないか」と思いなおした。清明は以前に「出雲スサノオの古事記を大和が盗った」と云ったのを思い出したのである。
 清二とは対極にある茫々たる歴史の軋みが、櫛名田比売(くしなだひめ)を救った出雲のスサノオや鳴門の渦潮に沈んだ平知盛の幻影を、否応なく渦中から引き揚げて現実の世界に連れ出すのであった。

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  心象風景 その1  邂逅

2016-01-18 21:39:32 | 小説的随想

過去を振り返ることは無意味なことではない。そこから反転して未来を展望する糧にもなり得るからである。過去を顧みて鏡面反射のように未来を予測するのは難しいが、経験から学ぶことは多い。
もし誰かに過去未来を透視する力が与えられているとしたら、人間の霊的な原始世界を覗くことも可能かもしれない。心の中を洞察することも可能となる筈だが、人間の領域を超えてしまう。

透視という特殊能力を持つゆえに、人の願いに沿って助言をし、人生の伴走者となる奇特な人もいる。ある人の家系が遥か遠い先祖から系譜的に見えてくるとしたら、常識的には「嘘だろう」「あり得ない」と一蹴されてしまうに違いない。「先祖は立派だったが親の代でだめになった」とか、「君は長男ではないが家を再興する役目を負っている」などと遺伝子レベルの情報を告げられたら、荒唐無稽だとして聞き捨てられるだろうか。その中に少しでも信じる内容があったなら、信じる人にとっては有意義な生きる処方となるかも知れない。要するにガンジガラメの状態に追いやられている人に対して、現状から這い上がる突破口を与えてくれる灯明の存在であるこのような人を、「霊能者」と言うのだろう。

遠い祖先からの霊脈を受け継ぐ選別された人のみが受け継ぐ特殊な能力者、霊能者と言われる方が二十世紀にはいた。自分なりにそのような人を『死者の眼を持つ人』と定義づけている。

この特殊霊能力と云う判然としない能力は、後天的に備えた経験に基づく推察や、先人の知恵の蓄積に依存するといった現世的なものではない。生まれる前の胎内で、遺伝子の流れを潜って着床したものらしく、神秘の世界から降下してきたのでは?と思わせる異次元のものだった。

心身を鍛錬して宗教家のような洗い清める所作を経て、おそらくは長い修練を積んだ結果なのだろうが、目の前に静かに座っている方から放出される見えない力の霊的感応をひしと受け止めながら、静謐な気の授受を執り行う。魂の浄化に他ならないのだが、再び生まれ変わることが仮にもあるとするならば否定する理由は何もない。
巷には占いをして衆人を惑わす人もいるけれど、占う人を選別するか避けるのが無難のようである。どのような人にも祖先との関わりがあり、『死者』は近い存在だと思えるのだ。
清二は占いと云うものを信じていないが、特殊な領域に身を置いている方の霊能者の力は信じている。

「先生!私の霊を見てください」これが全ての発端であった。
海の見える高台の一室で、先生はじーっと清二の眼の奥を手繰るように覗きこんでから、ホッと軽く息を継いで言った。
「清ちゃんは、もとは京都にあった〇〇の〇〇で直系だ。武家〇系の公方さんのあと、大名~~~代官そして最後が庄屋だった」――代を追うごとに先祖の下降運を覗かれてしまったが、すんなりとその言葉が理解できた。そのことは一部に未知の部分があったものの、清二の内に秘めていた既知の事実であったからである。

「先生を知ったキッカケは、美系専門学校に入学した時に後ろの席にいた少年が話しかけてきたことに始まる。彼と付き合うようになってから、彼の口から先生の存在を知るようになったのである。少年の名は「清明」と言った。清明もまた霊感の強い人だった。歳の割には大人びた物言いや見方をして、自分の中の霊的な存在を信じて疑わなかった。断言的なところはあったが少年にありがちな純な心情も持ち合わせていた。
彼は清二のDNAの中にある霊性に興味を持ったらしく、清二の先祖について聞きたいと云う素振りが見えた。そのためか、その前に清明の母親の家系を話してきた。

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