conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
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古くて新しい

2013-10-29 20:09:40 | 随想

事柄を表して『古くて新しい―』という、過去の事象が現代に通じるさまを
言い当てている言葉ですが、その逆は聞いたことがない。
でも「新しくて古い…」という表現だって満更でもないと思う。
現在の起点に立って考えるときに、めくり巡る時代の様相が『いつか来た道』
を思い出すからである。
今はまさにバーチャル時代で現実と仮想空間が同居しています。
情報が瞬時にして地球上を飛び交い、科学は宇宙へ探査機を送り込んで人類の未踏の果てに夢を託している状況にあります。
一方で地球の文明は南米大陸やアフリカの僻地にも及んでいるといっても、民族闘争の段階を脱していませんから、地球はまだまだ未熟の域にあるわけです。

大雑把に世情を見ればどこかオカシイゾ?の時代にあるなと思うでしょう。
有り過ぎるくらい、眼玉がひっくり返るほどの珍事怪事が後を絶ちません。
それは現象界に理性が追いつけない、時代の曲がり角に来ているからでしょう。
食糧事情にしても飽食の地域があると思えば、欠食に喘ぐ地域もあります。
温暖化の影響で北極海の氷が解けてきたことや南極上空のオゾン層が破壊されている実態も観測されています。
二酸化炭素や得体の知れないM2.5が、人体を侵食しようとして地球を委縮させているのは最近の事象です。

民族や思想の相違が共存を許さない敵対行為を激化させている地域もあります。
ある民族系の国々が世界の情報を収集して、自国の優位を図る密約が露見した
ことなどは、時代が曲がり角に来た査証です。

言うなれば危険信号がONの状態に入ったことになります。
この事は政治家が最も傾注しなければならないはずですが、残念ながら世界をリードする大国においても自国の経済の立て直しに翻弄されています。

暗い陰りの見える世情を見ると同時に、宇宙物理のヒッグス粒子の存在の仮説が、この世に見えるものと見えないものとの併存を暗示しているといえます。
時代を誘引する原動力が見えるものと見えないものとの均衡の上に現れているということです。

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ライン

2013-10-26 17:02:31 | 日記

他家の電話を盗聴したら、プライバシーの侵害と云うより犯罪です。
通信の傍受で国際的な非難を浴びている国もあり、前近代的なスパイ行為は
通信媒体の国際化でいとも簡単に?家庭の中まで浸食し始めているようです。

インターネットが様々な機器と無線ランでつながり、すっきりと場所を整えるのは美観の上でも利便の上でも歓迎すべきことだとは思う。
だ、けれども、自分はいまだに蛸足有線の美観に遠い環境を保っているのであります。唯一マウスだけが無線チップで操作されています。

電波は遠慮なしに他家の寝室にまでも飛び込んで行きかねませんから、捕獲されないように有線ランでラインを縛っているのです。
思えばインターネットの時代が急速に普及してきて、セキュリティの面では後追いの状態できていますから、個人として現代機器は穴だらけの道なのであります。

盗聴の問題に戻れば、白昼堂々と他人の通信ケーブルに結線を依頼する人もいる時代ですから、某国の大々的な事件にも驚くことはありません。

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古代をかじる その4

2013-10-22 23:41:00 | 随想

そもそも何のために古代をかじるのか?ただかじるだけでは味気がない。
古代において出雲の王国が影をひそめたのは何のためだったのか?
天孫降臨説の大和王朝が隆盛を極めて行った時代時代の中で、彼らは
どのような位置を占めていたのかを探りたかった。

大国主命が国譲りをする条件として、天の御子が帝位につく壮大な御殿の大通りに、私の立派な宮居を建ててくれたならところどころに隠れていましょう。
と云った。
この事は出雲王国の事実を形あるものとして、後世に残したい意思の表れではないか。その形が今日の出雲大社だと思う。

また付随的な条件としては、事代主を頭にして一族を導くなら背く者もいないでしょうと云った。
国譲りにしても海神族を完全に排除したわけではなく、むしろ血族的には関係を深めていった。物部氏族や三輪氏族のように皇室との婚姻関係が連綿と続いたことでも大国主命との約束が果たされたといえるだろう。

問題を起こす者がいたとすれば長髄彦とその一派であろうか。
また、関東以北には縄文以来の蝦夷も多く、大和朝廷に従属しない部族も多かったに違いない。このへんは歴史の示すところである。

巷に『怨念』という古くからの、歴史から抜け出てくる化け物に出会うことがある。
七生にわたって末代までも祟るというものだが、このようなものが現れる時代もまた、
古代の中世の戦乱の、敗者復活戦を試みようとしている族が跋扈しているのであろう。

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古代をかじる その3

2013-10-19 21:08:45 | 随想

饒速日が大物主の娘、御炊屋姫と結ばれて出雲族の婿となったまま居ついてしまったわけだが、ここに来るまでの経緯をもう一度古事記の初めごろに戻って辿ってみよう。

高天原の天照大神と高木の神が諸々の神を集めて下界の豊葦原瑞穂の国について話をしている。

『豊葦原瑞穂の国』は神の国の御子が治めるべきだとして、太子マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミ命(天忍穂耳命)を遣わしところ、瑞穂の国はとても乱れていたので引き返してしまった。

再び神々が相談するには、暴威をふるう土着(山つみ族)神を平定するため、ホヒの神を遣わそうということになった。遣わされたホヒの神は大国主のもとに行くが、大国主にへつらい、べったりと居ついて3年経っても返事をしなかった。

再々神々が相談して次に遣わしたのは「アマツクニダマの神の子、天若日子」(アメノワカヒコ)であった。天若日子は大国主の娘「下照姫」を妻としてその国を獲ようとしているうちに8年経ってしまった。


高天原では返事を待っても返事がないので、「キジの名鳴女」を使いに出して
事情を聴きだそうとした。ところが迎え入れるどころか「キジの名鳴女」を矢で射ってしまった。その矢は突き抜けて高天原の天照大神と高木の神の所に達したという。
高木の神はその矢を天若日子に向けて放った。翌朝寝ている天若日子の胸には矢が刺さって死んでいた。

古事記における『五、天照大神と大国主命』の「天若日子」の項に出てくる一文の概略であるけれど、高天原(九州?)の天孫族が出雲の大国主命との接触がどんなものであったかが窺われる。
天若日子が大国主の娘「下照姫」と結婚したということは、系譜からみると
天若日子=天津彦根命(天照大神の御子)ということになる。饒速日の祖父に当たる。饒速日が大物主の娘「御炊屋姫」と結婚して入婿になったのと重なる内容である。

続く「国譲り」の項では、天若日子の使いも失敗した天照大神は、次にアメノヲハバリ神の子、タケミカヅチを遣わした。
出雲の国のイザサの小浜に降り立ったタケミカヅチは、大国主(大物主と同義か)の前で大剣を海に突き刺し国譲りの強談判をした。
大国主は子の事代主の意見を聞くと「謹んで天の神の御子に献上なさるべき」と言われた。一方でもう一人の子のタケミナカタ(長髄彦か)は抵抗してタケミカヅチに戦いを挑んだが敗れて諏訪に逃れる。
追撃するタケミカヅチの前に降参して、父の大国主(大物主)の申すままに従うと約束した。

ここまでを見ると天孫族は最初から争いをするつもりはなく、話し合いで主権を引き渡すように仕向けたことになる。しかし銅剣文化の海神族(出雲族)のところへ、鉄剣文化ともいうべき進んだ文明を携えた天孫族の到来は、それなりの威圧を持った存在として立ち現れたと思える。

次に『ニニギの命』の「天降」の項では、豊葦原の瑞穂の国がタケミカヅチによって平定されたという知らせを聞いて、天照大神は太子「天忍穂耳命」に降臨するように言った。天忍穂耳命は自分に代えて子のアマツヒコヒコホニニギの命(天彦日矛瓊瓊杵命)の降臨を願い出て許しを得た。

ニニギの命が降臨する時に待ち構えていたのは「猿田彦」である。
豊葦原瑞穂の国の中心を治めていた猿田彦によって筑紫東方の高千穂峰に降臨する。
つまり筑紫平野から高千穂に進出したのである。

この時に随伴したのはアメノコヤネ命(中臣の連等の祖先)、フトダマ命(忌部の首等の祖先)、アメノウズメ命(猿女の君等の祖先)、イシコリドメ命(鏡作の連等の祖先)、タマノオヤ命(玉祖の連等の祖先)の五部族の神であった。


ニニギの命の東方進出は具体的に描かれている。
高千穂はとても気に入ったところで、『朝日の照り輝く国、夕日の輝く国』とてもよいところだと言って壮大な宮を立てた。
このニニギの命の東方への進行が『神武東征』とダブるのである。
神武(カムヤマトイワレヒコ)はニニギの命の孫に当たる。

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古代をかじる その2

2013-10-13 18:01:01 | 随想

 日本列島への民族移動が始まる前に、南方洋や大陸北方から個々に渡来し、移住した原住民がいた。蝦夷や熊襲となる元祖だろう。
アジアの広範囲から人類の移動軌跡があり、足跡は西から東へと続いてきた。
人類はアフリカに始まると言い、シナイ半島からそれぞれの方向へと散って行ったようだ。旧約聖書の『出エジプト記』には、モーセが十二の氏族を脱出させたとある。
そのうちの十支族の行方は記録に残っているが、残る二支族については

わかっていない。主族たるセム族がその一つでる。

日本人の中にはユダヤ系の血が流れている、という説もあるが、アメリカ人の中にも同じように感じている人がいるそうだ。東西の末端に位置する両国は、ある意味で人種のるつぼであり、行き止まりの地であるから完全に否定はできないだろう。

それは兎もかく古代大陸での歴史的戦いに敗れた者や、別天地を求めて東進する子孫もいただろうから、海の向こうは夢を育んだ日本列島ということになる。

紀元前後あたりから少し後に、中国南方や朝鮮半島からまとまった人数の氏族が日本列島に流れてくる。出雲族がその代表である。

研究者ではない一般の歴史愛好家としては、大まかな時代の流れを追うだけで細かいところまでは及ばないのであるが、その中でも大和朝廷の成立時の過程が、研究者によって諸説に分かれているところが最も掴みにくい。
自分なりにも固め切れないところがある。


出雲族は早い段階から王国を築き、北九州から大和地域を支配していた。
島根県の出雲大社は大国主命を祭る「御国魂神社」であり、出雲族の本拠地である。
大国主命は柔和で信に厚く、北陸を含めた広範囲の王たちを支配する大王であった。部族内で多少の諍いもあったと思うが、おおよそ平穏な時代を築いていたのだろう。

このような状況のもとで事代主命の時代になった。
ある時一人の青年が事代主の前に現れ、気に入られて娘婿になる。
一説には大国主命の娘婿になったとあるが、どちらが正しいのだろう。
この時代に気に入られるとは、余程の背景が確認できなければあり得ないことで、単に人品がよいというだけでなく部族の誰それと名乗ってのことであろう。


その青年は「饒速日」(にぎはやひ)といって天孫族の王子であった。古事記には『五部族の神族を伴って降臨した』とあるから様子見の先遣隊ではなかったかと思う。ところが入婿となって御炊屋姫との間に宇摩志麻治命が生まれ、出雲の同族となってしまった。
天孫族の本拠地九州では、三年たっても饒速日から何の連絡もないので(二次隊の)瓊瓊杵命(ににぎのみこと)を送った、と云うのだが、腑に落ちないのは饒速日に随って行った五部族が何も語っていないことである。
 
                  

     
            饒速日命と瓊瓊杵命の関係

                
          
 

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古代をかじる 序 

2013-10-08 22:35:52 | 随想

坩堝(るつぼ)に入れられてあらゆるものが混交し、半ば熔解しているような
変容した情況にあるのかな、しかも中途半端で進行するモヤモヤ感はモノが煮えそうで、いつまで経っても煮えないもどかしさが付いてくる。

あらゆる情勢がそんな状況にあると、漠然とひっくるめておこう。
こんな状況下で今、古事記に登場する古代大和民族の足跡を、ネットの資料から学んでみようと思い立った。
こんなことを言うと、学術的な大問題を軽々しくも曲解に結びつけるな…と怒られそうである。
もちろん曲解するほどの研究心もなく、ひたすら文献を鵜呑みにするだけの古代散策人なのです。

幸いにもネットには検索によるたくさんの文献が提示されます。
中でも宝賀寿男編著『日本古代史一般』は扱う項目も多く、長編だが素直に理解できた。
古事記を読んでもなかなか筋を掴めないところがあるので、大研究者の解説は霧が晴れたように明快なところがあって心強い。
著者の略歴を読むと、国税局の調査部長時代に書き表したというから面白い。

私は古事記を開くまでは海神(わだつみ)族とか山祗(やまつみ)族とか天孫族とかの古代氏族の分類を知らなかった。
それぞれの部族が年代を追って日本列島に渡来して、勢力圏を築いたところで抗争が始まる。日本列島に渡来した民族もいろいろで、早いうちから南方のミクロネシアや東南アジア、あるいは北方の大陸からやってきた原始渡来民族――狩猟、漁労、焼畑農をしていた山祗族は縄文人の主体を構成した。

紀元前3~2世紀頃に大陸から朝鮮半島を経て渡来し、九州北部の筑前肥前沿岸部に定住した海神族。航海術に長け、水稲耕作や青銅器を利用した弥生文化前期を構成した。大巳貴尊―大国主命を祖とする出雲系である。

もう一つは紀元1世紀代頃に、やはり大陸から朝鮮半島を経て九州は佐賀平野を移動して現在の久留米市域に定住した、鉄器文化を持つ天孫族。百済や扶余や新羅の王朝とも関わりがあるらしい。天照大神を祖とし、神武天皇東征はこの部族から分かれた新興集団の開拓史となる。

これらの大まかな部族集団が抗争を繰り広げて血に染まる――のが日本の歴史。

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古墳に登る

2013-10-01 20:49:30 | 日記

格別な熱暑の中でひたすら外出を控えていた夏も、回帰線の彼方に姿を消した。
季節の置き土産は膝関節の衰えとなって、歩数計を携える毎日を送っている。
そのお陰ではあるけれど、如何にか歩行も苦にならなくなって、元のように若やいだ背筋を見せられるようになった(つもりでいる)。

流れる水は留まるところを知らず・・・・・と言いたいところだが
随分と滞留してきたもんだ。
数週間前になるが、さきたま古墳公園を歩いた時はつらかった。
広い公園の中に配置された古墳墳墓の内で、稲荷山古墳と丸墓山古墳の二つに登ってきたのだが、木杭で囲った階段をやっとの思いで上り下りすると棒のような足になっていた。

           
稲荷山古墳丸木の階段       丸山古墳

    
稲荷山古墳後円部              稲荷山古墳前方部 

自分の勝手ではあるけれど、
古墳に登ることによって、ここから出土した『金錯銘鉄剣』の持ち主の息吹と云うか存在を、グーッとひきつけるような気がしたからだ。
博物館の中には実物の銘剣が飾ってある。身はボロボロに錆びているが、刻まれた115字の金文字は5世紀のものとは思えない輝きと、しっかりした字体で甦り、埋葬された「オワケ」臣の言霊に触れた思いがした。

古墳の上は見晴らしがよい。稲荷山古墳からは直ぐ近くに丸墓山古墳がお椀を伏せた形で見え、少し離れた位置に二子山古墳が見える。
5世紀から6世紀の初期くらいまでが、関東地方の古墳時代と言える。
金錯銘鉄剣の稲荷山古墳が造られたのは、古事記や日本書紀が完成される250年前と云われ、すでに文字が使われていたのは驚きです。

 

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