「・・・なにをか言わんや」グローバリゼーションの果ては奈落の断崖、また、その底にはマグマの燃えさかる回帰のシャッフル―――人間知の及ばない深化サイクルが組み込まれているのかも知れない。だから個人としての我は、息を潜めて成り行きを凝視しているほかはない。ロシアのウクライナ侵攻が部分占領で終わったとしても、ウクライナは承服するはずもないし、むしろ戦いは武器の援助を得て激化する方向にある。ロシアの戦争による利益は?と云えば、「嘘つき国家」のレッテルと2分する世界の孤立化で、不利益な国力の減退を招きかねない。開かれた未来は程遠い。とかく「天に唾すれば己に帰る」これは道理であるから、我々も他者に対して心しなければと思う。
真実情報と偽情報が飛び交う世界で、ニュートラルな見方とか判断に迫られたなら、我らは何処から情報源を得るべきなのか。多くはTVとか新聞ラジオ、ネットニュースから得ているわけで、自国の報道機関が発する情報に依拠している限り、対立する勢力間では、それぞれのニュースソースを違った解釈のもとに国民の中に浸透させていく。ウクライナ問題は我々が受けている西側の状況判断と、ロシアの大衆が受けている状況判断の対極的な情報の相違によって、終止のつかない泥沼というか混乱と廃虚を生み出しているのだろう。
プーチンが如何な国民操作をしたとしても、如何な背景、如何なる理由によってしても独立した他国を廃墟にする権利はない。このままロシアがウクライナから手を引いたとしても、問題の根が消えるわけでもないし、更に大きな問題へと次元を変えるだけで、その先に見えるのは大変革というような、おぞましい地球の生みの苦痛である。東西冷戦の後の米国一強、ソビエト連邦時代の東側衛星国のEU加盟続出、裸になったロシアが時流の先端に乗れない焦りを抱いたとしても、ロシア国民が建設的で偉大な将来像を描いていれば、自ずと世界から認められたはずだ。
東京周辺の桜が満開になっている。野に山に爛漫と咲ける花の命は短い。
盛りを過ぎれば散りゆく花の覚悟は、日本人の魂に宿して、西行のような文人から特攻の若い軍人に到るまで、世の儚さを謳え上げている。しかし我が世の感覚では花の盛りも散りゆく花も、見事に完遂した命の一生を提示して、その心は清い。
ロシアにもウクライナにも桜はあるだろうか、チェーホフの「桜の園」があるくらいだから、あるにはあるのだろうが感性としては如何なものであろうか。「ものの哀れ」を知るには、大いなる苦痛を経たひとにこそ心の内に宿る情であろうから、茶舞台をひっくり返すプーチン如きの無粋な男には、花なんぞ飾るもので終わってしまう。われも弁当を買って今日の花見と洒落てみたのですが、満開の花邑を前に生気を吸い込みつつ、美味しく戴きましたので花の心までは心中できませんでした。