麗夢が円光と共に姿を消して半時間が経過した。鬼童は一人ディスプレイを見つめながら作業に没頭していた。何度か条件を変えてリトライを繰り返した末、ようやく画像修正に成功しつつある所だった。
もっと気づくのが早ければ、と鬼童は思う。あの一瞬の映像に残った不審な男の影に気づいていれば、さっきも麗夢に対しもっと鮮明な画像を提供できただろう。今更言っても詮無い事ながら、鬼童は実験に気を取られて検証を怠っていた自分の怠慢を呪った。だが、その憤懣をバネに取りかかった作業は、ようやく実を結びつつある。
「よし、これでどうだ!」
鬼童は試行錯誤の末編み出した、最後のコマンドを打ち込んだ。見る間に映像が補正され、ゆがみやぶれが無くなっていく。やがて鮮明な映像が現れたとき、衝撃を伴って、鬼童の頭に古い記憶が甦った。
(こ、これは! 高原先生・・・!)
それは、鬼童が研究者としてスタートしたばかりの頃の事である。
ちょうど心理学と大脳生理学、それに発展著しい分子生物学が互いに接点を求め、一つの大きな潮流を作りつつあった、その最初期。鬼童は城西大医学部が主催した大脳生理学会に出席し、自分より十近く年上のこの男に、並みいる研究者達の面前で、若かりし頃の自尊心を完膚無きまでに叩きつぶされたのである。
(こいつは、私の尊敬するジグムント・フロイトを名指しし、その後の精神分析学の方向を誤らせた、科学者の名に恥ずべきペテン師だと言ってのけたんだった・・・)
一度思い出すと、後は自動的にその時の光景、科白の一言に至るまで、鮮明に甦ってくる。
高原は質問に立った鬼童を轟然と見据え、一気にこうまくし立てたのだ。
『君はフロイトを尊敬していると言ったな。その後の精神分析学をねじ曲げたあの似非科学者を尊敬とは恐れ入る。確かにフロイトはそれまでの閉鎖的で非科学的な心理学を撃ち破る鉄槌にはなっただろう。それに、フロイト自身が大脳生理学と心理学との融合を求めており、結局周辺科学の発展が間に合わなかったと言う、生まれるのが早すぎた悲劇も認めてやろう。だが、当時でも充分に科学的思考に基づき、正しい推論をもって、将来の科学者のためのよき架け橋となる種々のデータや意見を残すことは出来たはずだ。ところが、かの有名な『夢分析』でも判るように、あの男が取り上げている夢は、ほとんど自分の見た夢だけだ。それも本当にごくわずかな数で、自分の考えに都合のよいものだけを取り上げて夢理論を組み上げるという欺瞞を行った。
今なら誰でも知っている「REM睡眠」だって、どうして夢の研究者たるフロイトは気づきもしなかったんだ? 理由は簡単だよ。夢を見ている人間の観察など、ただの一度もやらなかったからに他ならない。この一事をもってしても、あのペテン師には、客観的に物事を観察する、と言う、自然科学者なら基礎中の基礎と言うべき資質に欠けていたことが証明されよう。いやそればかりではない。結局あの尊大で傲慢な権威主義者は、自らを精神分析学の王と位置づけることに腐心して、自分の考えに合わない未来ある研究者達を弾圧し、有益かつ今日的批判に耐えうる理論の数々を葬り去ってきた。フロイトは言ったな。夢は表に出すには恥ずかしい抑圧された無意識の願望の現れであり、直接的な表現を避けるため、色々と加工され象徴化されるから、一見理解不可能な現れ方をする、と。だがそれは、あの似非科学者が生きた時代背景、キリスト教的宗教観その物ではないか。今日のように、あの時代とは比較にならぬほど「恥ずかしい」行為が公然と語られ、恥が恥でなくなった現代社会においても、全く同じように無意識の欲望が抑圧され、それが夢に象徴化されて出てくるのだと本気で言えるのか? 尖ったものをみんな男根にしてしまうような根拠のない象徴化が通用するのかね? 君はどう思うんだ。教えてくれたまえ・・・』
鬼童は、この高原のフロイトに対する弾劾に、何ら有効な反論を加えることが出来ないまま、うち萎れて会場を後にしたのだった。
(確かにフロイトには高原の言うとおりの問題があった。だがその大半は時代的制約と言うものであり、あの時代に、精神、そして夢に対して積極的にアプローチを掛けた功績は無視できない巨大なものだ。だからこそ僕は夢の研究にのめり込み、フロイトの名誉を回復しようと思ったんだ)
その後の鬼童は、高原の挑戦的な言葉に反発するように好んで危ない橋を選び続け、遂に夢見人形を巡る実験で、琴線に激しく叶う一人の少女と出会った。
綾小路麗夢。
実験対象と言うだけでなく、その後の人生に大きな影響を与える存在を知ることで、今や鬼童の夢に関する理論は飛躍的に強化されて来たのだった。
。だが、単なる脳生理学者に過ぎないはずの高原研一が、どうして今、このような不可思議な現れ方をするのか。ひょっとして人違いの可能性もある。鮮明さを求めるばかりに画像に処理をかけ過ぎ、予想もつかないノイズを呼び込んで、一見そう見えるように加工されてしまった可能性も否定できない。
早速その所在を突き止めようと、ネットの検索エンジンに高原の名前を打ち込んでみた鬼童は、現れたリンク先に、難なく一つのベンチャー企業を見つけることが出来た。
「ドリーム・ジェノミクス社中央研究所長? 随分出世したものだな。ええと住所は、茨城県・・・、ん? この場所って、確か・・・」
慌ただしく再びキーボードを叩いた鬼童は、在所名までピッタリ一致したさっき調べたばかりの住所を見つけて驚愕した。
「ナノモレキュラーサイエンティフィックの隣じゃないか! まさか、いや! これは大変だ!」
周辺捜査のつもりが、いきなり核心をついたかもしれない。あれから数年、一介の研究者に過ぎなかったはずのあの男が今一体どんな危険な力を持っているのか。その想像に戦慄した鬼童は、大急ぎで白衣を脱ぎ捨て、愛用のジャケットをひっ掴むと、研究室を飛び出していった。
もっと気づくのが早ければ、と鬼童は思う。あの一瞬の映像に残った不審な男の影に気づいていれば、さっきも麗夢に対しもっと鮮明な画像を提供できただろう。今更言っても詮無い事ながら、鬼童は実験に気を取られて検証を怠っていた自分の怠慢を呪った。だが、その憤懣をバネに取りかかった作業は、ようやく実を結びつつある。
「よし、これでどうだ!」
鬼童は試行錯誤の末編み出した、最後のコマンドを打ち込んだ。見る間に映像が補正され、ゆがみやぶれが無くなっていく。やがて鮮明な映像が現れたとき、衝撃を伴って、鬼童の頭に古い記憶が甦った。
(こ、これは! 高原先生・・・!)
それは、鬼童が研究者としてスタートしたばかりの頃の事である。
ちょうど心理学と大脳生理学、それに発展著しい分子生物学が互いに接点を求め、一つの大きな潮流を作りつつあった、その最初期。鬼童は城西大医学部が主催した大脳生理学会に出席し、自分より十近く年上のこの男に、並みいる研究者達の面前で、若かりし頃の自尊心を完膚無きまでに叩きつぶされたのである。
(こいつは、私の尊敬するジグムント・フロイトを名指しし、その後の精神分析学の方向を誤らせた、科学者の名に恥ずべきペテン師だと言ってのけたんだった・・・)
一度思い出すと、後は自動的にその時の光景、科白の一言に至るまで、鮮明に甦ってくる。
高原は質問に立った鬼童を轟然と見据え、一気にこうまくし立てたのだ。
『君はフロイトを尊敬していると言ったな。その後の精神分析学をねじ曲げたあの似非科学者を尊敬とは恐れ入る。確かにフロイトはそれまでの閉鎖的で非科学的な心理学を撃ち破る鉄槌にはなっただろう。それに、フロイト自身が大脳生理学と心理学との融合を求めており、結局周辺科学の発展が間に合わなかったと言う、生まれるのが早すぎた悲劇も認めてやろう。だが、当時でも充分に科学的思考に基づき、正しい推論をもって、将来の科学者のためのよき架け橋となる種々のデータや意見を残すことは出来たはずだ。ところが、かの有名な『夢分析』でも判るように、あの男が取り上げている夢は、ほとんど自分の見た夢だけだ。それも本当にごくわずかな数で、自分の考えに都合のよいものだけを取り上げて夢理論を組み上げるという欺瞞を行った。
今なら誰でも知っている「REM睡眠」だって、どうして夢の研究者たるフロイトは気づきもしなかったんだ? 理由は簡単だよ。夢を見ている人間の観察など、ただの一度もやらなかったからに他ならない。この一事をもってしても、あのペテン師には、客観的に物事を観察する、と言う、自然科学者なら基礎中の基礎と言うべき資質に欠けていたことが証明されよう。いやそればかりではない。結局あの尊大で傲慢な権威主義者は、自らを精神分析学の王と位置づけることに腐心して、自分の考えに合わない未来ある研究者達を弾圧し、有益かつ今日的批判に耐えうる理論の数々を葬り去ってきた。フロイトは言ったな。夢は表に出すには恥ずかしい抑圧された無意識の願望の現れであり、直接的な表現を避けるため、色々と加工され象徴化されるから、一見理解不可能な現れ方をする、と。だがそれは、あの似非科学者が生きた時代背景、キリスト教的宗教観その物ではないか。今日のように、あの時代とは比較にならぬほど「恥ずかしい」行為が公然と語られ、恥が恥でなくなった現代社会においても、全く同じように無意識の欲望が抑圧され、それが夢に象徴化されて出てくるのだと本気で言えるのか? 尖ったものをみんな男根にしてしまうような根拠のない象徴化が通用するのかね? 君はどう思うんだ。教えてくれたまえ・・・』
鬼童は、この高原のフロイトに対する弾劾に、何ら有効な反論を加えることが出来ないまま、うち萎れて会場を後にしたのだった。
(確かにフロイトには高原の言うとおりの問題があった。だがその大半は時代的制約と言うものであり、あの時代に、精神、そして夢に対して積極的にアプローチを掛けた功績は無視できない巨大なものだ。だからこそ僕は夢の研究にのめり込み、フロイトの名誉を回復しようと思ったんだ)
その後の鬼童は、高原の挑戦的な言葉に反発するように好んで危ない橋を選び続け、遂に夢見人形を巡る実験で、琴線に激しく叶う一人の少女と出会った。
綾小路麗夢。
実験対象と言うだけでなく、その後の人生に大きな影響を与える存在を知ることで、今や鬼童の夢に関する理論は飛躍的に強化されて来たのだった。
。だが、単なる脳生理学者に過ぎないはずの高原研一が、どうして今、このような不可思議な現れ方をするのか。ひょっとして人違いの可能性もある。鮮明さを求めるばかりに画像に処理をかけ過ぎ、予想もつかないノイズを呼び込んで、一見そう見えるように加工されてしまった可能性も否定できない。
早速その所在を突き止めようと、ネットの検索エンジンに高原の名前を打ち込んでみた鬼童は、現れたリンク先に、難なく一つのベンチャー企業を見つけることが出来た。
「ドリーム・ジェノミクス社中央研究所長? 随分出世したものだな。ええと住所は、茨城県・・・、ん? この場所って、確か・・・」
慌ただしく再びキーボードを叩いた鬼童は、在所名までピッタリ一致したさっき調べたばかりの住所を見つけて驚愕した。
「ナノモレキュラーサイエンティフィックの隣じゃないか! まさか、いや! これは大変だ!」
周辺捜査のつもりが、いきなり核心をついたかもしれない。あれから数年、一介の研究者に過ぎなかったはずのあの男が今一体どんな危険な力を持っているのか。その想像に戦慄した鬼童は、大急ぎで白衣を脱ぎ捨て、愛用のジャケットをひっ掴むと、研究室を飛び出していった。