助手の切迫した報告に、判った、と一言だけ返事をした高原は、壁の装置にインタホンを戻し、白衣のポケットから小さな鍵を取りだした。関係者以外立入禁止の扉の奥に納まるその部屋は、隣の実験室からもセキュリティーキーで閉ざされた、高原の専用ルームである。フロア面積は三五平米とちょっとしたワンルームマンション程度の大きさで、実験室としてはかなり手狭な部屋だが、隣室の各種測定装置群はこの部屋からも操作でき、データの収集・解析は問題なくできる。この、高原一人だけが使うことを許された空間には、研究所の幹部クラスでさえ明かしていない様々な試薬、検体、そしてデータが詰まっている。高原は、その成果の一つを開放すべく、実験室隅に設えられたガラス戸棚の鍵穴に、手にした鍵を差し込んだ。
がちゃりと言う手応えと共に、温度と湿度が完璧に管理された保存棚の扉が開く。三段に別れた棚には、下段に五〇〇cc入りの褐色試薬ビンが納まり、中段と上段に一〇〇cc以下の小さなビンやアンプルが並ぶ。高原はそのうちの人差し指程のアンプルを取りだし、下の引き出しからガンマ線滅菌された使い捨てのプラスチック製注射器を一つつまみ出した。中央の実験台から黒いゴム管を取り上げて袖まくりした左上腕にしっかりと巻き、エタノールを染み込ませた脱脂綿を取りだして、二の腕内側に浮き上がった静脈の上に塗りつけた。ひんやりした刺激臭が鼻をくすぐる中、密封されたプラスチックフィルムを破り、取りだした注射器にアンプルの中身を吸い上げる。空気が入っていないことを確かめた高原は、その注射針を慣れた手つきで自分の左腕静脈に突き刺した。ぴりっとした痛みが皮膚を鋭く貫いたが、構わず白いピストンを器用に親指の先で引っかけて、少し吸い上げた。たちまちシリンジに満ちた透明な液体に、赤い血液がふわっと薄く広がるのが見えた。確実に静脈を捉えた証拠だ。高原は、今度は親指の腹をピストンに押し当てて、中の薬液をゆっくりと体内に送り込もうとした。
突然ドアの外が騒々しい足音で満ちたかと思うと、重要実験区画前に張りつけて置いた警備員の怒鳴り声が届いた。が、警備員の声は、最初の「何だ! 貴様等!」だけで途絶えた。何か重いものが壁にぶつかる音が聞こえ、わずかながら室内のガラス戸が微妙な震えを見せる。急速に駆け寄る複数の足音が耳を打ち、顔を上げた高原は、扉の向こうに、さっき助手が警告を伝えてきた侵入者の姿を捉えた。憤怒の表情を刻んだ若い僧侶と、豊かに跳ねる碧の黒髪の下に厳しく目を凝らした少女だ。僧侶の方は初見だが、娘の方は良く見知っている。二人は高原の姿を目ざとく捉えると、実験室のドアを引き開け、中に踏み込んできた。
「誰かね。ここは我が社のうちでも極めて重要な実験施設だ。部外者の無断侵入は許せないな」
「貴方が高原ね! 美奈ちゃんや夢見さん、ハンスさん、アルファとベータも返して!」
目ざとく高原の胸に下げられた写真入り名札を見て、麗夢が叫んだ。
「麗夢殿の言うとおり、皆を返して貰おうか」
円光も手にした錫杖をずいと前に突き出し、高原に迫った。高原はふん、と鼻先で笑うと、中断していた行為に再び没頭した。親指に改めて力を込め、シリンジ内の全ての薬液を体内に打ち込んだ。続けて上腕のゴム管を解き、注射針を抜くと、メンティングテープを張って袖を戻した。
「答えて! 貴方がこの誘拐に絡んでいるのは判っているのよ!」
高原はちらりと二人の侵入者に目を向けると、そのまま黙って奥に設置されたリクライニングシートに腰を下ろし、深くゆったりと身を沈めた。
「さて、と。私も結構長いこと先端技術研究に携わってきているが、君たちほど荒っぽい産業スパイに会うのは初めてだよ。無法にも我が社の研究員や警備員に危害を加えた上、最重要シークレットゾーンに強引に踏み込んでくるとはね。これがどれほどの罪に問われるか、判ってやっているのかね?」
「私たちは産業スパイなんかじゃない。それに罪に問われると言うなら、貴方こそとんでもない犯罪者だわ!」
麗夢が眦決して右手人差し指をまっすぐ高原に突きつけた。
「美奈ちゃん達を返しなさい!」
「何を言っているのか、私には良く判らないな。私が誘拐犯人だと言うなら、何か証拠でもあるのかね?」
悠然と余裕で構える高原に、円光は錫杖の石突を床にどん! と突き立てた。済んだ輪管の打ち鳴る音色が、室内にこだまする。
「いい加減にしろ! ここに上がってくるまでの間、逃亡した美奈殿やアルファ、ベータを追う者達が右往左往していたではないか!」
「そうよ! それに証拠ならあるわ! 見なさい!」
麗夢は榊から預かった品をポケットから取りだした。
「貴方の会社に落ちていたわ! どう? これでも白を切るつもり?」
高原は物憂げに麗夢の手の中にある品物を見た。美麗な装飾を施したカードが一枚と、小さな紫色の蝶ネクタイが載っている。
「何だね? それは」
「これは、夢見小僧の犯行予告カード! それにこっちはアルファのアクセサリーよ! 貴方の会社の玄関に落ちていたの。さあ、観念してみんなを返して頂戴!」
高原は目をつむってにやりと口元をひねり上げた。なるほど、あの小娘、いつの間にか得意技を発揮していたらしい。この私の目を欺くとはなかなか大した腕前だ・・・。
がちゃりと言う手応えと共に、温度と湿度が完璧に管理された保存棚の扉が開く。三段に別れた棚には、下段に五〇〇cc入りの褐色試薬ビンが納まり、中段と上段に一〇〇cc以下の小さなビンやアンプルが並ぶ。高原はそのうちの人差し指程のアンプルを取りだし、下の引き出しからガンマ線滅菌された使い捨てのプラスチック製注射器を一つつまみ出した。中央の実験台から黒いゴム管を取り上げて袖まくりした左上腕にしっかりと巻き、エタノールを染み込ませた脱脂綿を取りだして、二の腕内側に浮き上がった静脈の上に塗りつけた。ひんやりした刺激臭が鼻をくすぐる中、密封されたプラスチックフィルムを破り、取りだした注射器にアンプルの中身を吸い上げる。空気が入っていないことを確かめた高原は、その注射針を慣れた手つきで自分の左腕静脈に突き刺した。ぴりっとした痛みが皮膚を鋭く貫いたが、構わず白いピストンを器用に親指の先で引っかけて、少し吸い上げた。たちまちシリンジに満ちた透明な液体に、赤い血液がふわっと薄く広がるのが見えた。確実に静脈を捉えた証拠だ。高原は、今度は親指の腹をピストンに押し当てて、中の薬液をゆっくりと体内に送り込もうとした。
突然ドアの外が騒々しい足音で満ちたかと思うと、重要実験区画前に張りつけて置いた警備員の怒鳴り声が届いた。が、警備員の声は、最初の「何だ! 貴様等!」だけで途絶えた。何か重いものが壁にぶつかる音が聞こえ、わずかながら室内のガラス戸が微妙な震えを見せる。急速に駆け寄る複数の足音が耳を打ち、顔を上げた高原は、扉の向こうに、さっき助手が警告を伝えてきた侵入者の姿を捉えた。憤怒の表情を刻んだ若い僧侶と、豊かに跳ねる碧の黒髪の下に厳しく目を凝らした少女だ。僧侶の方は初見だが、娘の方は良く見知っている。二人は高原の姿を目ざとく捉えると、実験室のドアを引き開け、中に踏み込んできた。
「誰かね。ここは我が社のうちでも極めて重要な実験施設だ。部外者の無断侵入は許せないな」
「貴方が高原ね! 美奈ちゃんや夢見さん、ハンスさん、アルファとベータも返して!」
目ざとく高原の胸に下げられた写真入り名札を見て、麗夢が叫んだ。
「麗夢殿の言うとおり、皆を返して貰おうか」
円光も手にした錫杖をずいと前に突き出し、高原に迫った。高原はふん、と鼻先で笑うと、中断していた行為に再び没頭した。親指に改めて力を込め、シリンジ内の全ての薬液を体内に打ち込んだ。続けて上腕のゴム管を解き、注射針を抜くと、メンティングテープを張って袖を戻した。
「答えて! 貴方がこの誘拐に絡んでいるのは判っているのよ!」
高原はちらりと二人の侵入者に目を向けると、そのまま黙って奥に設置されたリクライニングシートに腰を下ろし、深くゆったりと身を沈めた。
「さて、と。私も結構長いこと先端技術研究に携わってきているが、君たちほど荒っぽい産業スパイに会うのは初めてだよ。無法にも我が社の研究員や警備員に危害を加えた上、最重要シークレットゾーンに強引に踏み込んでくるとはね。これがどれほどの罪に問われるか、判ってやっているのかね?」
「私たちは産業スパイなんかじゃない。それに罪に問われると言うなら、貴方こそとんでもない犯罪者だわ!」
麗夢が眦決して右手人差し指をまっすぐ高原に突きつけた。
「美奈ちゃん達を返しなさい!」
「何を言っているのか、私には良く判らないな。私が誘拐犯人だと言うなら、何か証拠でもあるのかね?」
悠然と余裕で構える高原に、円光は錫杖の石突を床にどん! と突き立てた。済んだ輪管の打ち鳴る音色が、室内にこだまする。
「いい加減にしろ! ここに上がってくるまでの間、逃亡した美奈殿やアルファ、ベータを追う者達が右往左往していたではないか!」
「そうよ! それに証拠ならあるわ! 見なさい!」
麗夢は榊から預かった品をポケットから取りだした。
「貴方の会社に落ちていたわ! どう? これでも白を切るつもり?」
高原は物憂げに麗夢の手の中にある品物を見た。美麗な装飾を施したカードが一枚と、小さな紫色の蝶ネクタイが載っている。
「何だね? それは」
「これは、夢見小僧の犯行予告カード! それにこっちはアルファのアクセサリーよ! 貴方の会社の玄関に落ちていたの。さあ、観念してみんなを返して頂戴!」
高原は目をつむってにやりと口元をひねり上げた。なるほど、あの小娘、いつの間にか得意技を発揮していたらしい。この私の目を欺くとはなかなか大した腕前だ・・・。