議会に限らず、議員になる前から、鈴鹿市でいろいろな会議に出て思うことがあるのですが、どうも、どのような議論がなされるかということよりも、如何に会議を丸くスムーズに収めることについての価値が大きいような気がする場面が多い気がします。
そのような会議では、沈黙は金とばかりに自分から発言される方は少なく、聞かれれば答えるという方が多いような気がします。
また、会議などで意見を多く発言すると、かえって「うるさいやつ」というレッテルを張られたり、揚げ足をとられるようなことが多いと感じるのは気のせいでしょうか?そう考えていると、これも‘風土’なのかな?と思うことも時々あります。
そんなことを考えながら、会議での発言について考えると、発言回数や内容というのは、基本的には、その会議に参加していることに対しての意識のあり方と、その会議に出されている議題についての資料や知識の収集度合と相関関係があると思います。
つまり
意識(会議へのモチベーション) × 知識(配布資料の読み込みなど)=
発言回数 × 質問もしくは意見の内容の濃さ
という関係に基本的になるのではないかということです。
つまりこの関係を基に、会議に出席しているメンバーの共通問題意識を公約数として発言回数から差し引いて考えると、当然のことながら内容が濃くなるということにつながると考えられます。
とすると、回数も少なく内容もそれほど濃くない発言者についてどう考えることができるでしょうか?意識も知識もちゃんとあるとすれば、どこで、発言に対して抑制がかかっているのでしょうか?まして‘0’の場合はどう考えればいいのでしょうか?
会議に出席するということは、どこかで決まった結論をもって議題について採択などをすることだけではなく、本来、どこかで決まった結論があるのであれば、それを基に委員間で議論をすることにこそ意義があるのではないかと考えます。
そうすると、会議で意見がない場合、ないからとそのまま会議を進行するのではなく、一言、意見の有無について確認する必要があるでしょう。また、意見がない場合も、意見がないことの理由について、会議に出席している委員は説明するべきことなのだなと考えます。
熟議という言葉が独り歩きしたような印象もありますが、熟議をするための下地作りを子どもたちにしていくことも大切と思います。しかし、一番は今の大人が、先に書いた関係式を意識して、自分たちの会議のあり方を変えようとすることが大切なのだと思います。それも、一部の人にそれを任せるのではなく、一人一人が意識して変革していくことも大切なのかもしれないと思います。
そのような会議では、沈黙は金とばかりに自分から発言される方は少なく、聞かれれば答えるという方が多いような気がします。
また、会議などで意見を多く発言すると、かえって「うるさいやつ」というレッテルを張られたり、揚げ足をとられるようなことが多いと感じるのは気のせいでしょうか?そう考えていると、これも‘風土’なのかな?と思うことも時々あります。
そんなことを考えながら、会議での発言について考えると、発言回数や内容というのは、基本的には、その会議に参加していることに対しての意識のあり方と、その会議に出されている議題についての資料や知識の収集度合と相関関係があると思います。
つまり
意識(会議へのモチベーション) × 知識(配布資料の読み込みなど)=
発言回数 × 質問もしくは意見の内容の濃さ
という関係に基本的になるのではないかということです。
つまりこの関係を基に、会議に出席しているメンバーの共通問題意識を公約数として発言回数から差し引いて考えると、当然のことながら内容が濃くなるということにつながると考えられます。
とすると、回数も少なく内容もそれほど濃くない発言者についてどう考えることができるでしょうか?意識も知識もちゃんとあるとすれば、どこで、発言に対して抑制がかかっているのでしょうか?まして‘0’の場合はどう考えればいいのでしょうか?
会議に出席するということは、どこかで決まった結論をもって議題について採択などをすることだけではなく、本来、どこかで決まった結論があるのであれば、それを基に委員間で議論をすることにこそ意義があるのではないかと考えます。
そうすると、会議で意見がない場合、ないからとそのまま会議を進行するのではなく、一言、意見の有無について確認する必要があるでしょう。また、意見がない場合も、意見がないことの理由について、会議に出席している委員は説明するべきことなのだなと考えます。
熟議という言葉が独り歩きしたような印象もありますが、熟議をするための下地作りを子どもたちにしていくことも大切と思います。しかし、一番は今の大人が、先に書いた関係式を意識して、自分たちの会議のあり方を変えようとすることが大切なのだと思います。それも、一部の人にそれを任せるのではなく、一人一人が意識して変革していくことも大切なのかもしれないと思います。