ヤフーニュースの中で、「ジャーナリスト/星槎大学教授/日本ペンクラブ会員]の肩書を持つ山口道宏という人物が、「官僚=公僕」の人事権を官邸から取り戻せと叫んでいる。
官邸が人事権を持ったから忖度が発生する、だから官邸から人事権を取り戻せというのがその主張だが、支離滅裂な論理であることに気づいていないらしい。
まず、誰の手に取り戻すのかという問題をわざと無視している。そのことの重要さに気づかない程バカなのか、官僚勢力の意向を受けている為わざと無視してるかのどちらかとしか思えない。
人事権を官邸から取り戻すということを文字通り実施すれば、以前のように官僚の人事は官僚がすることになる。
官僚=公僕といいながら、官僚自身にその人事権を持たせて官僚が公僕になるようにどうしてコントロールできるだろう。
そんなことは不可能であった。官僚が官僚による官僚の為の政治を行い、国民の選んだ国会議員や内閣の命令すら骨抜きにする事例が多発した為に官邸が人事権を持つことになったのである。
官邸が人事権を持っている為、官僚が官邸の意向を忖度するとすれば、官僚自身が人事権を持てば官僚は誰に忖度するだろうか。自分達に都合の良い官僚受けの良い政策を実施するのは間違いない。
今回の森友や加計の事例での忖度は好ましい事例ではないが、企業でもそうだが、上司の意向を読み、その意向に沿うように行動するのは当然の行動である。
問題があったとすれば、上司である総理大臣の意向がおかしかったか、忖度した官僚が総理の意向を過剰に深読みしすぎたからである。
いずれにせよ、官僚は国民の為に働くことを求められている。とすれば、その人事権は国民によつて選ばれたわけではない官僚自身が握るより、国民の選挙で選ばれた国会議員により選任される総理大臣と官邸が握る方がより国民の意向に近くなる。
官僚勢力を中心に、今回の森友や加計の問題をテコに人事権を官僚の手に取り戻そうとする動きが活発だが、そのようなことは許してはならない。
官僚の性善性や無謬性は幻想である。官僚を国民の為の政治を行うようにするにはコントロール手段が必要であり、人事権を国民の代表が握ることはその為の唯一の方法である。
官邸が人事権を持ったから忖度が発生する、だから官邸から人事権を取り戻せというのがその主張だが、支離滅裂な論理であることに気づいていないらしい。
まず、誰の手に取り戻すのかという問題をわざと無視している。そのことの重要さに気づかない程バカなのか、官僚勢力の意向を受けている為わざと無視してるかのどちらかとしか思えない。
人事権を官邸から取り戻すということを文字通り実施すれば、以前のように官僚の人事は官僚がすることになる。
官僚=公僕といいながら、官僚自身にその人事権を持たせて官僚が公僕になるようにどうしてコントロールできるだろう。
そんなことは不可能であった。官僚が官僚による官僚の為の政治を行い、国民の選んだ国会議員や内閣の命令すら骨抜きにする事例が多発した為に官邸が人事権を持つことになったのである。
官邸が人事権を持っている為、官僚が官邸の意向を忖度するとすれば、官僚自身が人事権を持てば官僚は誰に忖度するだろうか。自分達に都合の良い官僚受けの良い政策を実施するのは間違いない。
今回の森友や加計の事例での忖度は好ましい事例ではないが、企業でもそうだが、上司の意向を読み、その意向に沿うように行動するのは当然の行動である。
問題があったとすれば、上司である総理大臣の意向がおかしかったか、忖度した官僚が総理の意向を過剰に深読みしすぎたからである。
いずれにせよ、官僚は国民の為に働くことを求められている。とすれば、その人事権は国民によつて選ばれたわけではない官僚自身が握るより、国民の選挙で選ばれた国会議員により選任される総理大臣と官邸が握る方がより国民の意向に近くなる。
官僚勢力を中心に、今回の森友や加計の問題をテコに人事権を官僚の手に取り戻そうとする動きが活発だが、そのようなことは許してはならない。
官僚の性善性や無謬性は幻想である。官僚を国民の為の政治を行うようにするにはコントロール手段が必要であり、人事権を国民の代表が握ることはその為の唯一の方法である。