Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

海は荒海 向こうは佐渡よ

2009年07月16日 | 身辺雑記
 先週の土曜日は、新日本フィルのマチネー公演(前回のブログにかいた「七つの封印を有する書」)をきいた後、東京駅に直行して、上越新幹線で長岡に行きました。駅前のホテルに着いたのは夜8時ころ。部屋に荷物を置いて、地下の居酒屋へ。郷土料理をつまみながら、ビールを飲みました。

 なぜ長岡に行ったのかというと、母の郷里を訪ねるためです。母の郷里は椎谷(しいや)という寒村で、柏崎と出雲崎の中間にあります。私は子供のころ、毎年夏になると、母に連れられて椎谷に行って遊んでいました。今では親類は誰もいなくなったので、もう何十年も行っていません。あのあたりはどうなっているのか、のぞいてみる気になりました。

 翌朝、バスで出雲崎へ。日本海に面した町で、良寛さんの生まれ育ったところです。バスを降りて、良寛堂へ。ほのぼのとした感じの小さなお堂で、安田靭彦画伯の設計だそうです。お堂の前には日本海(そして、この日はみえませんでしたが、天気のよい日には海の向こうに佐渡島)が広がっていて、この景色をみながら良寛さんが育ったのかと――。

 タクシーを呼んで椎谷へ向かいました。海岸沿いの道を行きますが、途中で道路が崩壊している箇所があって大きく迂回。これは新潟県中越沖地震のためだそうで、今はまだ復旧工事中とのこと。

 椎谷に着きましたが、母の生家にはどう行ったらよいのか、ちょっと戸惑いました。時代の流れから取り残されたような集落なので、風景は変わっていませんが、細かな記憶が薄れていました。それでも、みおぼえのある一角があって、記憶が蘇ってきました。
 車道から一歩入って、こんもりとした丘を回りこみます。案内板があって、その丘が江戸時代の椎谷藩の陣屋の跡だったことを、はじめて知りました。
 母の生家は建て替えられていて、私が遊んだころの面影はありませんでした。

 来た道を引き返して、車道まで戻りました。車道に沿って岸壁があって、かつては海がそこまで来ていましたが、今では少し埋め立てられていて、公園ができていました。ベンチにすわって海をみていたら、昔うたった童謡を思い出しました。

  海は荒海 向こうは佐渡よ
  すずめ啼け啼け もう日は暮れた
  みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ

 頬をなでる風が気持ちよくて、つい、うとうとと眠ってしまいました。
コメント
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