Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

嗚呼 満蒙開拓団

2009年07月27日 | 映画
 この2週間ほどで映画を3本みた。どれも面白かったけれど、その中でも事実の重さで今もいろいろ考えさせられている映画が「嗚呼 満蒙開拓団」。岩波ホールで上映中のドキュメンタリー映画だ。

 満蒙開拓団については、詳しい人もいるだろうが、よく知らない人もいると思うので(実は私もよく知らなかった)、まずはその概要から。

 満蒙開拓団とは、日本の国策で旧満州(中国東北部)に移民した約27万人の人たちのこと。1931年(昭和6年)に満州事変が起きて、満州国が建国され、1936年(昭和11年)に発足した広田弘毅内閣が、政策の柱の一つとして、満州移民を推し進めた。
 ところが1945年(昭和20年)8月にソ連が参戦。追われて逃げる移民の中から多くの死者が出た。その逃避行のとき、足手まといになる子どもたちのうちには、路傍に放置された子もいた――それを中国人が引き取って育てたのが今の中国残留孤児。

 映画は残留孤児たちにたいするインタビュー記録。皆さんすでに相当な高齢になっているので、証言を記録する最後のチャンスだったかもしれない。
 具体例として、金丸キヌ子さんの証言を引用してみたい。

 「(兵隊さんから)『子どもを泣かすな、速く歩け』と言われても、年寄りとか子どもは速く歩けないんですから。お腹が空けば子どもは泣くし、それを抑えようと思っても無理な話ですよね。それで途中で、母は私たちを助けるために、5歳の妹を、隣のおばさんは子どもがいない人だったんですけどね、お願いしたらしいんですよ。それで最後に、お芋食べたい、食べたいと言っている最中に、私が気が付かないうちに連れて行かれたんですよね。それで、すぐ上の姉たちが、ずいぶん母を責めたらしいんですけれど、『どうしてさと子を』って叫んだところは、私も覚えています。」(プログラム誌23ページ)

 逃避行はこの世の地獄とでもいうべきものだった。今はただ「5歳の妹」と、(すでに亡くなっているであろう)「母」と「隣のおばさん」のご冥福を祈るばかりだ。

 事前にいろいろ調べていたら、私の家の近くの武蔵小山商店街(東京都品川区)からも、当時、千人あまりの満蒙開拓団が出たことを知った。皆さんのたどった道は、上に引用した証言と似たりよったりのもので、八百人あまりの人が亡くなったとのこと。今では商店街に隣接する朗惺寺(ろうせいじ)というお寺に慰霊碑が立っているらしい。
 そこで、昨日の夕方、慰霊碑をたずねてみた。こんなに身近なところに満蒙開拓団の歴史があったとは――。私は今までなにも知らずに過ごしていた。
(2009.07.20.岩波ホール)
コメント (2)
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