東京都北区が毎年この時期に開催している「北とぴあ国際音楽祭」(主催は北区文化振興財団)では、これまでも珍しいオペラの紹介を続けてきたが、今年はグルックのオペラ・コミック「思いがけないめぐり会い、またはメッカの巡礼」が上演された。
このオペラは王子アリが王女レジアをエジプトの後宮から救出しようとする話。かれらの計画は(狂言回しの)托鉢僧の裏切りによって失敗し、スルタン(エジプトの君主)に捕らえられてしまう。あわや処刑かというときに、アリとレジアの身元が明かされ、寛大なスルタンはふたりを赦す。
このプロットは、モーツァルトのオペラ「後宮からの誘拐」とそっくり。登場人物も、アリ=ベルモンテ、レジア=コンスタンツェ、托鉢僧=オスミン、スルタン=セリムという具合に符合する。また、アリの従者オスミン(この名前は、役柄こそちがえ、「後宮からの誘拐」のオスミンと同じ)はペドリロと、レジアの侍女ダルダネはブロンデと符合する。
序曲は、異国趣味にあふれた、賑やかな、快速テンポの曲。この曲をきいただけで、あっ、これは「後宮からの誘拐」だと思ってしまう。学者の立場ならいざ知らず、素人の気楽さで言ってしまえば、モーツァルトがこの曲を意識していたことは明らかだ(なお初演は「後宮からの誘拐」の18年前)。
こういった事柄は、現代の感覚でいえば、剽窃ということになりかねないが、当時は台本の使い回しが当たり前の時代、私にはモーツァルトの「どうです、ずっと面白くなったでしょう?」という得意満面の笑みが目に浮かぶような気がする。グルックは「後宮からの誘拐」をみたことがあるそうだ――当時すでに押しも押されもせぬ大家になっていたグルックは、若き新進作曲家モーツァルトを賞賛したらしい。一方、モーツァルトは托鉢僧の愉快なアリアにもとづくピアノ変奏曲を作曲して敬意を表している(余談ながら、チャイコフスキーはその曲をオーケストレーションしている)。
いずれにしても、私は今後「後宮からの誘拐」をみるときには、その背後にグルックの作品を思い浮かべることになるだろう。「後宮からの誘拐」の理解に一つの陰影を加えてくれたことに、私は心から感謝する。
指揮は寺神戸亮。この音楽祭のこれまでのオペラ公演と同様に、今回も寺神戸亮なくしては実現できなかった公演であろう。したがって私の感謝の大部分は寺神戸亮に向けられている――その上であえて言うのだが、私は、これまでも、今回も、どこか微温的なものを感じてしまった。そこをもう一歩突き抜けてくれるとありがたい。
(2009.11.15.北とぴあ)
このオペラは王子アリが王女レジアをエジプトの後宮から救出しようとする話。かれらの計画は(狂言回しの)托鉢僧の裏切りによって失敗し、スルタン(エジプトの君主)に捕らえられてしまう。あわや処刑かというときに、アリとレジアの身元が明かされ、寛大なスルタンはふたりを赦す。
このプロットは、モーツァルトのオペラ「後宮からの誘拐」とそっくり。登場人物も、アリ=ベルモンテ、レジア=コンスタンツェ、托鉢僧=オスミン、スルタン=セリムという具合に符合する。また、アリの従者オスミン(この名前は、役柄こそちがえ、「後宮からの誘拐」のオスミンと同じ)はペドリロと、レジアの侍女ダルダネはブロンデと符合する。
序曲は、異国趣味にあふれた、賑やかな、快速テンポの曲。この曲をきいただけで、あっ、これは「後宮からの誘拐」だと思ってしまう。学者の立場ならいざ知らず、素人の気楽さで言ってしまえば、モーツァルトがこの曲を意識していたことは明らかだ(なお初演は「後宮からの誘拐」の18年前)。
こういった事柄は、現代の感覚でいえば、剽窃ということになりかねないが、当時は台本の使い回しが当たり前の時代、私にはモーツァルトの「どうです、ずっと面白くなったでしょう?」という得意満面の笑みが目に浮かぶような気がする。グルックは「後宮からの誘拐」をみたことがあるそうだ――当時すでに押しも押されもせぬ大家になっていたグルックは、若き新進作曲家モーツァルトを賞賛したらしい。一方、モーツァルトは托鉢僧の愉快なアリアにもとづくピアノ変奏曲を作曲して敬意を表している(余談ながら、チャイコフスキーはその曲をオーケストレーションしている)。
いずれにしても、私は今後「後宮からの誘拐」をみるときには、その背後にグルックの作品を思い浮かべることになるだろう。「後宮からの誘拐」の理解に一つの陰影を加えてくれたことに、私は心から感謝する。
指揮は寺神戸亮。この音楽祭のこれまでのオペラ公演と同様に、今回も寺神戸亮なくしては実現できなかった公演であろう。したがって私の感謝の大部分は寺神戸亮に向けられている――その上であえて言うのだが、私は、これまでも、今回も、どこか微温的なものを感じてしまった。そこをもう一歩突き抜けてくれるとありがたい。
(2009.11.15.北とぴあ)