新国立劇場がアルバン・ベルクのオペラ「ヴォツェック」を上演した。これはミュンヘンのバイエルン州立歌劇場との共同制作。
舞台の床一面に水が張られ、その上には巨大な四角い空間が吊り下げられている。水の中は主に野外、四角い空間は主に室内を表すために使われる。たとえば冒頭の髭剃りの場面は四角い空間の中、次の草刈りの場面は水の中という具合。これらが大体交互に使われて進行する。
水を使った舞台は、私もヨーロッパで何度か経験したことがあるので、おそらく昨今の演出では一つの流行になっていると思われるが、今回はマリー殺害の場面の沼を全体に敷衍したものという意味が生じる。
また、今回の演出では、水の中に何人もの男たちがいる。かれらは失業者の群れで、ときどき一人の男が来てカネやパンをばらまくと、ワッと飛びつく――ちょうど池の中の鯉がエサに飛びつくように。私は以前に水の中にダンサーを配置する演出をみたことがあるが、今回はさらに明確な意味をもっていた。
水に照明が当たると、舞台の壁に波紋が映る。これはどこでも使う水の性質だが、今回はヴォツェックに狂気がきざす場面で使われていて(ゆらゆら揺れる波紋が狂気を表す)、明確な意図があった。
演出上のもう一つの特徴は、ヴォツェックの子どもの扱い方。通常は子守唄の場面と木馬の場面くらいしか登場しないが、今回は冒頭の髭剃りの場面から登場して、ヴォツェックがこうむる抑圧を一部始終みている。最後の木馬の場面では、大人と同じ服装をしたほかの子どもたちから一斉に石を投げられる――仁王立ちしたヴォツェックの子どもは、(ヴォツェックが妻マリーを殺害したときのように)手にナイフを握り締めている。
このような演出から、ヴォツックの悲劇は社会の構造的なものであり、その悲劇は子どもの世代でも繰り返されることが浮かび上がってくる。(演出:アンドレアス・クリーゲンブルク)
歌手は、ヴォツェック役のトーマス・ヨハネス・マイヤーほか、全員がパワー全開。
オーケストラ(東京フィル)も本物のベルクの音楽を奏でていた。これはハルトムート・ヘンヒェンの指揮に負うところが大きい。私はこの指揮者を何度かきいたことがある。今までは粘りのないリズムと、さくさくと進んで溜めのないフレージングが、必ずしも十分な成果をあげてはいなかったが、今回は正確かつ透明な演奏になって結実した。
公演全体としてこれは世界の一流歌劇場のレベルであったと思う。
(2009.11.23.新国立劇場)
舞台の床一面に水が張られ、その上には巨大な四角い空間が吊り下げられている。水の中は主に野外、四角い空間は主に室内を表すために使われる。たとえば冒頭の髭剃りの場面は四角い空間の中、次の草刈りの場面は水の中という具合。これらが大体交互に使われて進行する。
水を使った舞台は、私もヨーロッパで何度か経験したことがあるので、おそらく昨今の演出では一つの流行になっていると思われるが、今回はマリー殺害の場面の沼を全体に敷衍したものという意味が生じる。
また、今回の演出では、水の中に何人もの男たちがいる。かれらは失業者の群れで、ときどき一人の男が来てカネやパンをばらまくと、ワッと飛びつく――ちょうど池の中の鯉がエサに飛びつくように。私は以前に水の中にダンサーを配置する演出をみたことがあるが、今回はさらに明確な意味をもっていた。
水に照明が当たると、舞台の壁に波紋が映る。これはどこでも使う水の性質だが、今回はヴォツェックに狂気がきざす場面で使われていて(ゆらゆら揺れる波紋が狂気を表す)、明確な意図があった。
演出上のもう一つの特徴は、ヴォツェックの子どもの扱い方。通常は子守唄の場面と木馬の場面くらいしか登場しないが、今回は冒頭の髭剃りの場面から登場して、ヴォツェックがこうむる抑圧を一部始終みている。最後の木馬の場面では、大人と同じ服装をしたほかの子どもたちから一斉に石を投げられる――仁王立ちしたヴォツェックの子どもは、(ヴォツェックが妻マリーを殺害したときのように)手にナイフを握り締めている。
このような演出から、ヴォツックの悲劇は社会の構造的なものであり、その悲劇は子どもの世代でも繰り返されることが浮かび上がってくる。(演出:アンドレアス・クリーゲンブルク)
歌手は、ヴォツェック役のトーマス・ヨハネス・マイヤーほか、全員がパワー全開。
オーケストラ(東京フィル)も本物のベルクの音楽を奏でていた。これはハルトムート・ヘンヒェンの指揮に負うところが大きい。私はこの指揮者を何度かきいたことがある。今までは粘りのないリズムと、さくさくと進んで溜めのないフレージングが、必ずしも十分な成果をあげてはいなかったが、今回は正確かつ透明な演奏になって結実した。
公演全体としてこれは世界の一流歌劇場のレベルであったと思う。
(2009.11.23.新国立劇場)