Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「ヘンリー六世」通し公演

2009年11月26日 | 演劇
 約1ヶ月にわたった新国立劇場の「ヘンリー六世」が終わった。役者やスタッフの方々は、すでに他の仕事に移っているだろうが、私はまだ宴の後の余韻に浸っている。私は初日をみたが(10月27日~29日)、通し公演もみたいと思って、11月21日の公演にも行った。午前11時から午後10時20分まで、途中にトイレ休憩や食事休憩があったものの、丸一日劇場にいることは、特別の経験だった。

 興味の中心は、この1ヶ月で役者の演技がどう変わったか。一番印象的だったのは、王妃マーガレットの中嶋朋子。役がすっかり血肉化され、ほんとうは驕慢で鼻持ちならないキャラクターが、あるときは同情すらさそう説得力を備えていた。
 全体としては、初日は役者と役者がぶつかり合う肉弾戦のような舞台だったが、今回はアンサンブルが精妙になり、各人がそれぞれの位置におさまっている印象だった。

 通し公演をみていると、気がつくことがある。まず、親と子の死の別れが、パターンを変えていろいろ登場すること。第1部では闘将トールボットとその息子の別れの場面が代表的だが、第2部以降もさまざまな別れが登場する。第3部ではついに固有名詞が消えて、「父親を殺した息子」と「息子を殺した父親」という形で普通名詞化する。このような別れのヴァリエイションが、劇を前に推し進めている。

 また、コントラストの鮮やかさも感じた。印象深かったのは、第2部でグロスター公が、追放された妻と路上で別れる場面の後に、王妃マーガレットが、追放された愛人サフォーク公と宮殿で別れる場面があること。不偏不党の良心の人グロスター公が、案外あっさり妻と別れるのにたいして、野心と欺瞞にみちたマーガレットとサフォーク公が、真情あふれる別れを演じる――そのコントラスト。

 それにしてもこの作品は名台詞の宝庫だ。一例だけあげると、第3部で重傷を負った瀕死のクリフォード卿が、王ヘンリー六世の無為無策のために人々が戦いに明け暮れていることを嘆いて、こう言う場面がある。

  雑草をはびこらせるのはおだやかな微風以外にあるまい?
  盗賊をつけあがらせるのはすぎたる寛容以外にあるまい?

 この作品を書いたころ、シェイクスピアはまだ20歳代だったそうだが、その若さでこのような台詞を書くとは――。

 プログラム誌には、新旧ふたりの演出家、出口典雄と鵜山仁の対談がのっている。その中で出口典雄は「僕はヘンリー六世にはあまり共感しなかった。そういう人間がいるという、やや突き離した態度です。劇中で唯一共感したのは、トールボット。彼だけは定点がある。」と言っている。一方、鵜山仁は「どの人物も等距離で見ている感じ」だそうだ。
 劇中のだれに共感するかという問いは、案外面白いかもしれない。私の場合は――まあ、これは意味がないだろう、止めておく。
(2009.11.21.新国立劇場中劇場)
コメント (2)
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