Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ゲノフェーファ

2011年02月05日 | 音楽
 東京室内歌劇場がシューマンのオペラ「ゲノフェーファ」を上演した。今この種のオペラを上演してくれるのは東京室内歌劇場と東京オペラ・プロデユースくらいだ。ありがたい。

 序曲が始まると、冒頭の暗い音色がシューマン的だったが、主部に入ってからは弦の音色がやせていることが気になった。幕開きの合唱の後、ゴーロが登場すると、これはもうシューマンのリートの世界。ゴーロを歌ったのはクリスチャン・シュライヒャーという歌手。線の細い艶のある声でシューマンの陰影ある音楽をきかせてくれた。続いてジークフリート伯爵とその妻ゲノフェーファの登場。いずれも馴染みの歌手。オペラを推進する力量は十分だが、シューマンらしい陰影は感じられなかった。ゴーロの乳母で魔女でもあるマルガレータ役の歌手は、小声になると、ときどききこえなくなった。

 指揮は山下一史さん。スコアのせいであることは承知のうえだが、だんだん単調さを感じたのは否めない。もっともこの曲をほんとうに面白くきかせる指揮者は、そう何人もいるものではないだろう。

 演出はペーター・ゲスナーさん。幕切れは「ほんとうにゲノフェーファはジークフリートのもとに戻ったのか」と考えさせる演出だった。わたしは大賛成。能天気にハッピーエンドで終わってしまっては茶番だ。場内ではブーイングをする人もいた。幕切れにたいするブーイングだったのかどうかはわからない。最近、ブーイングの匿名性が気になる。

 ともかく「ゲノフェーファ」を舞台上演してくれた。貴重な体験だったことはまちがいない。こうして舞台上演に接すると、作品のことがよくわかった。これは明確な対立がなく、善と悪が、光と影が、強さと弱さが、つねに入れ替わって移ろうオペラだ。その印象は、マルガレータがジークフリートにみせる魔法の鏡に似ていた。丸い球があって、そこにもやもやと煙が渦巻き、なにかの情景がみえる印象。

 いくつか面白い場面があった。まず第3幕のフィナーレでマルガレータが地獄の炎にまかれる場面。ここでは「ドン・ジョヴァンニ」を思い出した。もうひとつは、第4幕の冒頭でゴーロが山奥のゲノフェーファを訪れ、ジークフリートの指輪と剣をみせて死の宣告をし、自分とともに逃げるなら命を助けると言う場面。ここでは「神々の黄昏」で隠れ頭巾をかぶったジークフリートが山上のブリュンヒルデを訪れる場面を思い出した。もっとも「ゲノフェーファ」は「ローエングリン」と同時期の作品。「神々の黄昏」が生まれるのはもっとずっと先だ。
(2011.2.4.新国立劇場中劇場)
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