フランクフルト経由でベルリンに到着。ホテルにチェックインしたのは18:00ころだった。シャワーを浴びて、シャウビューネに出かけた。ホテルから歩いて5分くらい。パンとスープの軽い夕食をとって、ソポクレスの「アンティゴネー」を観劇した。ギリシャ悲劇のなかでも、現代に至るまで、多くの劇作家の関心を呼んでいる作品だ。日本を出発する前に読み返してみたが、やはり面白かった。
事前に配役表をみてわかったことだが、役者は2人だけ。ギリシャ悲劇の時代には2人、多くても3人だったそうなので、当時に則った上演といえる。ほかに演奏家が5人。これは現代のコロスというわけだ。
場内が暗くなると男たちが7人出てくる。だれが役者で、だれが演奏家か、よくわからない。長髪の男がマイクを手にボソボソと語り始める。どうやら前史のオイディプスの悲劇を語っているようだ。ある男にオイディプスを演じさせ、ほかの男に妻であり母でもあるイオカステーを演じさせる。演じるといっても簡単なものだ。ギリシャ悲劇にくわしくない現代の観客のための工夫だろう。以前、新国立劇場がエレクトラの母のクリュタイメストラをテーマにした「アルゴス坂の白い家」を上演したときにも、前史を説明していた。その部分が冗長なのは今回も同じだった。
説明が終わったところで、5人の演奏者が位置についた。長髪の男はヴォーカル。2人はピアノなどのキーボード。2人は打楽器。各人がギターなどを兼務する。音楽は一言でいえばロックだ。バラード調のものもあった。アコースティック楽器が主体なので、あまり刺激的な音響ではなかった。
要するにこれはロックのライヴだと気が付いた。役者2人が何役も演じ分ける。長髪の男がときどき進行を止めて、マイクで語りかける。これはライヴだからだ。役者2人は身体の切れがよい。劇が自らのエネルギーで突き進もうとする瞬間がある。それが何度も中断されるのが、まだるっこかった。
さらにもうひとつ、これが一番の問題だが、神の掟と国家の掟、良心と現実といったニ項対立が、この上演では明瞭に浮き出てこなかった。ロックのライヴという枠を超えて、劇が暴走していってもよかった。
舞台は、ライヴなので、むきだしのスタジオだ。アンティゴネーの兄のポリュネイケスの遺体を葬る砂は銀色の粉だった。これが何度も空中に飛び散った。それが美しかった。
(2011.2.9.シャウビューネ)
事前に配役表をみてわかったことだが、役者は2人だけ。ギリシャ悲劇の時代には2人、多くても3人だったそうなので、当時に則った上演といえる。ほかに演奏家が5人。これは現代のコロスというわけだ。
場内が暗くなると男たちが7人出てくる。だれが役者で、だれが演奏家か、よくわからない。長髪の男がマイクを手にボソボソと語り始める。どうやら前史のオイディプスの悲劇を語っているようだ。ある男にオイディプスを演じさせ、ほかの男に妻であり母でもあるイオカステーを演じさせる。演じるといっても簡単なものだ。ギリシャ悲劇にくわしくない現代の観客のための工夫だろう。以前、新国立劇場がエレクトラの母のクリュタイメストラをテーマにした「アルゴス坂の白い家」を上演したときにも、前史を説明していた。その部分が冗長なのは今回も同じだった。
説明が終わったところで、5人の演奏者が位置についた。長髪の男はヴォーカル。2人はピアノなどのキーボード。2人は打楽器。各人がギターなどを兼務する。音楽は一言でいえばロックだ。バラード調のものもあった。アコースティック楽器が主体なので、あまり刺激的な音響ではなかった。
要するにこれはロックのライヴだと気が付いた。役者2人が何役も演じ分ける。長髪の男がときどき進行を止めて、マイクで語りかける。これはライヴだからだ。役者2人は身体の切れがよい。劇が自らのエネルギーで突き進もうとする瞬間がある。それが何度も中断されるのが、まだるっこかった。
さらにもうひとつ、これが一番の問題だが、神の掟と国家の掟、良心と現実といったニ項対立が、この上演では明瞭に浮き出てこなかった。ロックのライヴという枠を超えて、劇が暴走していってもよかった。
舞台は、ライヴなので、むきだしのスタジオだ。アンティゴネーの兄のポリュネイケスの遺体を葬る砂は銀色の粉だった。これが何度も空中に飛び散った。それが美しかった。
(2011.2.9.シャウビューネ)