Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

アルトナの幽閉者

2014年03月07日 | 演劇
 サルトルの「アルトナの幽閉者」。わたしの高校時代から大学時代にかけて、サルトルは必須アイテムだった。「嘔吐」を読んで、わかりもしないのに、サルトルを論じていた。今思えば恥ずかしい。

 そのサルトルの「アルトナの幽閉者」が上演されることを知って、ついに――長い年月を隔てて――サルトルと向き合う時期がきたと思った。事前に戯曲を読んでみた。興奮するほど面白かった。昔は読んでいなかった。あのころ読んだらどうだったろう。サルトルが少しはわかったろうか。それとも、今の年齢だから、面白いと思えるのか。

 なにが面白かったか。それは戦争と個人との関係だ。戦争でおこなった残虐行為の記憶に苦しむ主人公フランツ。フランツは生家に引きこもり(自らを幽閉し)、30世紀にむけて(未来の人類にむけて)自らを弁護し、また裁く。その姿は今の時代でもアクチュアルだ。第二次世界大戦の終了後も、今にいたるまで、戦争の絶えない人間社会にあって、戦争のトラウマに苦しむ人々の姿が、そこに重なる。

 かなり意気込んで、この芝居を観にいった。結果はどうだったか。ちょっと期待はずれだった。壮大であるはずのこの芝居が、家庭劇のようになっていた。たしかにその要素はある。引きこもり、近親相姦、不倫その他。でも、家庭劇のレベルに収斂して、壮大さを捉えそこなっているように感じられた。今の日本の身の丈に合わせた――今の限界を超えられない――公演だと思った。

 フランツの苦悩が感じられなかったわけではない。その大きさは感じられた。でも、それはフランツを演じた岡本健一の個人技によるものだ。公演全体から立ち上がってくるものではなかった。

 そう感じた一因は、父を演じた辻萬長(つじ・かずなが)にあったかもしれない。井上ひさし作品でいい味を出す名優なので、こんなことをいっては申し訳ないが、この作品では父性愛に傾きがちで、権力者のもつ巨大な虚無感が出てこなかった。

 岩切正一郎の新訳による台本は、妙にすっきり感じられた。サルトルの言葉の奔流というか、大伽藍というか、ともかくその過剰性が、なぜか感じられなかった。もちろん公演用の台本なので、多数のカットはあるだろうが。

 サルトル(1905‐1980)とメシアン(1908‐1992)は同時代人だ。前者は言葉の、後者は音の、それぞれ大伽藍を構築した。そこにはなにか共通性がないか。
(2014.3.6.新国立劇場小劇場)
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