ラザレフ/日本フィルの東京定期。事情があって金曜・土曜の両方聴いた。ずいぶん印象がちがった。面白いものだ。できることなら、ラザレフが振るときは、2度とも聴きたいものだと思った。
1曲目はスクリャービンのピアノ協奏曲。スクリャービンの若い頃の作品。この頃のスクリャービンはショパンの影響が色濃いピアノ曲を盛んに作っていた。この曲もその一つ、と思っていたら、実際に聴くと、意外に独自色があった。やっぱりスクリャービンだ、いくら若いといっても、そんなに簡単に済む話ではない。
ことに第2楽章が面白かった。変奏曲形式で書かれている楽章。テーマは素朴で夢見るようにやさしい。そのテーマにもとづく比較的シンプルな変奏が続く。シンプルではあるが、そのシンプルさがテーマの性格に合っていた。
ピアノ独奏は浜野与志男。父は日本人、母はロシア人だそうだ。藝大の大学院に在籍中の若いピアニスト。美しい音をもっている。水滴のような瑞々しさだ。演奏に背伸びしたところがないことに好感をもった。
2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。この曲の演奏は金曜日と土曜日でそうとう様相がちがっていた。金曜日は緊張感の張りつめた――息詰まるような――弱音が特徴的だった。その一方で、なにか足りないとしたら、音色かなと思った。ところが土曜日になったら、オーケストラは自信満々、豊かな音色で鳴り渡った。反面、ピリピリした緊張感はなかった。
どちらがいいとかということではなく――そういう単純な話に収斂するのではなく――それぞれの演奏で、なにが達成され、なにが失われたかを考えるほうが大事だと思った。そこからさらなる成長の道が見つかればなによりだ。
ともかく、そういうちがいがあったにせよ、これは高いレベルの演奏だった。さすがはラザレフというべきか。過剰なものも過小なものもない演奏、すべての音があるべきところに収まった演奏、音の方向性がきちんと整えられた演奏、そして――これが肝心な点だが――少しのデフォルメもない演奏。並外れて幅広いダイナミックレンジの演奏だったが、それはこの作品の真の姿を伝えるためのものだ。
土曜日の演奏では第4楽章の終結部の、第1楽章第1主題が回帰する直前で、ふるえるような感動が走った。あの部分で人間的な感情の発露を感じたことは初めてだ。
(2014.3.14&15.サントリーホール)
1曲目はスクリャービンのピアノ協奏曲。スクリャービンの若い頃の作品。この頃のスクリャービンはショパンの影響が色濃いピアノ曲を盛んに作っていた。この曲もその一つ、と思っていたら、実際に聴くと、意外に独自色があった。やっぱりスクリャービンだ、いくら若いといっても、そんなに簡単に済む話ではない。
ことに第2楽章が面白かった。変奏曲形式で書かれている楽章。テーマは素朴で夢見るようにやさしい。そのテーマにもとづく比較的シンプルな変奏が続く。シンプルではあるが、そのシンプルさがテーマの性格に合っていた。
ピアノ独奏は浜野与志男。父は日本人、母はロシア人だそうだ。藝大の大学院に在籍中の若いピアニスト。美しい音をもっている。水滴のような瑞々しさだ。演奏に背伸びしたところがないことに好感をもった。
2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。この曲の演奏は金曜日と土曜日でそうとう様相がちがっていた。金曜日は緊張感の張りつめた――息詰まるような――弱音が特徴的だった。その一方で、なにか足りないとしたら、音色かなと思った。ところが土曜日になったら、オーケストラは自信満々、豊かな音色で鳴り渡った。反面、ピリピリした緊張感はなかった。
どちらがいいとかということではなく――そういう単純な話に収斂するのではなく――それぞれの演奏で、なにが達成され、なにが失われたかを考えるほうが大事だと思った。そこからさらなる成長の道が見つかればなによりだ。
ともかく、そういうちがいがあったにせよ、これは高いレベルの演奏だった。さすがはラザレフというべきか。過剰なものも過小なものもない演奏、すべての音があるべきところに収まった演奏、音の方向性がきちんと整えられた演奏、そして――これが肝心な点だが――少しのデフォルメもない演奏。並外れて幅広いダイナミックレンジの演奏だったが、それはこの作品の真の姿を伝えるためのものだ。
土曜日の演奏では第4楽章の終結部の、第1楽章第1主題が回帰する直前で、ふるえるような感動が走った。あの部分で人間的な感情の発露を感じたことは初めてだ。
(2014.3.14&15.サントリーホール)