新国立劇場演劇部門が「二人芝居―対話する力―」というシリーズを始めた。1回目はイギリスの劇作家デイヴィッド・ヘア(1947‐)の「ブレス・オブ・ライフ~女の肖像~」。2002年にロンドンで初演された作品だ。
イギリスのワイト島に住むマデリン(若村麻由美)をフランシス(久世星佳)が訪れる。マデリンはフランシスの夫の愛人だった。フランシスもマデリンの存在を知っていた。夫には若い恋人ができた。フランシスとは離婚した。マデリンも捨てられた。そんな状況になってフランシスはマデリンと会ってみる決心をした。わたしたち二人の人生はなんだったのかと――。
濃密な対話劇を期待した。だが、表面をなでるような対話が続いた。ときどき刺のある言葉が発せられた。また苛立ちが爆発することもあった。でも、元に戻ってしまう。二人の関係は深まらない。傷つけ合うわけでもない。淡々としている。最後になんとなく和解の空気が漂うが、それは理解し合ったというのとはちがう。
なんだか今の日本の希薄な人間関係を見るようだった。なにも起こらない。なにも得られない。要するに退屈だ。
終演後プログラムを読んでいたら、デイヴィッド・ヘアの次のような言葉に出会った。「西洋社会では新しい人生の区分が生まれているのです。中年とは呼べない年齢層、ですが年寄りとも言えない。その中間にあるような層です(中略)統計的に考えて、これからさらに20年という時間があることがわかっているのです。」
えっと思った。これは今のわたしの年齢ではないか。ということは、本作は(男女のちがいはあるが)今のわたしの物語でもあるのだ。でも、そうは感じなかった。
演出の蓬莱竜太と宮田慶子の対談を読むと、今回、設定年齢を原作の60代から50代に下げているそうだ。「60歳を過ぎた女性たちが一人の男を巡ってバトルするって、日本では考えづらいかなと、一回り下げました。」(蓬莱竜太)
必ずしも同意できないが、でも、それはいい。問題なのは、このことによって、ピントがぼやけてしまったことだ。だからなのか――、本作の背景には1960年代~70年代の激動の時代が横たわっている(マデリンもフランシスもその時代に青春を送っている)。そのエピソードが奇妙に抽象的なのだ。とってつけたようでリアリティがない。原作の設定に正面から向き合っていないからだろうか。
(2014.10.10.新国立劇場小劇場)
イギリスのワイト島に住むマデリン(若村麻由美)をフランシス(久世星佳)が訪れる。マデリンはフランシスの夫の愛人だった。フランシスもマデリンの存在を知っていた。夫には若い恋人ができた。フランシスとは離婚した。マデリンも捨てられた。そんな状況になってフランシスはマデリンと会ってみる決心をした。わたしたち二人の人生はなんだったのかと――。
濃密な対話劇を期待した。だが、表面をなでるような対話が続いた。ときどき刺のある言葉が発せられた。また苛立ちが爆発することもあった。でも、元に戻ってしまう。二人の関係は深まらない。傷つけ合うわけでもない。淡々としている。最後になんとなく和解の空気が漂うが、それは理解し合ったというのとはちがう。
なんだか今の日本の希薄な人間関係を見るようだった。なにも起こらない。なにも得られない。要するに退屈だ。
終演後プログラムを読んでいたら、デイヴィッド・ヘアの次のような言葉に出会った。「西洋社会では新しい人生の区分が生まれているのです。中年とは呼べない年齢層、ですが年寄りとも言えない。その中間にあるような層です(中略)統計的に考えて、これからさらに20年という時間があることがわかっているのです。」
えっと思った。これは今のわたしの年齢ではないか。ということは、本作は(男女のちがいはあるが)今のわたしの物語でもあるのだ。でも、そうは感じなかった。
演出の蓬莱竜太と宮田慶子の対談を読むと、今回、設定年齢を原作の60代から50代に下げているそうだ。「60歳を過ぎた女性たちが一人の男を巡ってバトルするって、日本では考えづらいかなと、一回り下げました。」(蓬莱竜太)
必ずしも同意できないが、でも、それはいい。問題なのは、このことによって、ピントがぼやけてしまったことだ。だからなのか――、本作の背景には1960年代~70年代の激動の時代が横たわっている(マデリンもフランシスもその時代に青春を送っている)。そのエピソードが奇妙に抽象的なのだ。とってつけたようでリアリティがない。原作の設定に正面から向き合っていないからだろうか。
(2014.10.10.新国立劇場小劇場)