都響2度目のマーティン・ブラビンズ。前回もチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番(第1番ではなく)などの独自色の強いプログラムを組んだが、今回はさらに先を行ったプログラミングだ。
1曲目はヴォーン・ウィリアムズの「ノーフォーク狂詩曲第1番」。この曲はあまり知られていないが(わたしは知らなかった)、聴いてみれば親しみやすい曲だ。わたしもそうだが、吹奏楽出身者には「イギリス民謡組曲」(管弦楽編曲版もあるが)でお馴染みのヴォーン・ウィリアムズが顔を出して懐かしい。
2曲目はブリテンのピアノ協奏曲。1938年に作曲され、1945年に改訂された。「ピーター・グライムズ」(1944~45)はおろか「ポール・バニヤン」(1941)さえ書かれていない時期だ。同時期の作品ではヴァイオリン協奏曲(1939)を聴いたことがあるが(大変な力作だ)、ピアノ協奏曲は初めてだ。
全4楽章から成るが、一言でいって才気煥発、アンファン・テリブルの時代のブリテンだ。とくに、開始早々、トッカータと題された第1楽章でその感を強くする。興味深いのはパッサカリアで書かれた第3楽章だ。この楽章は当初「叙唱とアリア」と題された音楽だったが、1945年の改訂時に今の音楽(「即興曲」と題されている)に差し替えられたそうだ(等松春夫氏のプログラムノーツ)。
パッサカリアというと「ピーター・グライムズ」の間奏曲を思い出す。まさにこの楽章は「ピーター・グライムズ」の世界につながっている気がする。沈鬱な渋い音楽だ。
ピアノ独奏はスティーヴン・オズボーン。歯切れのいいリズムで、乗りに乗った演奏だった。この曲にのめり込んでいることを自ら誇るような、やる気満々の演奏だった。アンコールには一転して小声で呟くようなドビュッシーの「カノープ」。
3曲目はウォルトンの交響曲第2番(1957~60)。考えてみると、少なくともわたしの場合は、ウォルトンといっても「ベルシャザールの饗宴」(1931)や交響曲第1番(1933~35)の頃しか知らないと、あらためて気付かされる。ウォルトンはどういう生涯をたどったのかさえ知らないことに愕然とする。
情緒的に聴くことができる第1番とちがって、第2番は職人芸のオーケストラ書法を楽しむ作品だ。ブラビンズ/都響の確かな造形力が見事だった。この作品の真の姿を余すところなく伝えたと思う。
(2014.10.20.サントリーホール)
1曲目はヴォーン・ウィリアムズの「ノーフォーク狂詩曲第1番」。この曲はあまり知られていないが(わたしは知らなかった)、聴いてみれば親しみやすい曲だ。わたしもそうだが、吹奏楽出身者には「イギリス民謡組曲」(管弦楽編曲版もあるが)でお馴染みのヴォーン・ウィリアムズが顔を出して懐かしい。
2曲目はブリテンのピアノ協奏曲。1938年に作曲され、1945年に改訂された。「ピーター・グライムズ」(1944~45)はおろか「ポール・バニヤン」(1941)さえ書かれていない時期だ。同時期の作品ではヴァイオリン協奏曲(1939)を聴いたことがあるが(大変な力作だ)、ピアノ協奏曲は初めてだ。
全4楽章から成るが、一言でいって才気煥発、アンファン・テリブルの時代のブリテンだ。とくに、開始早々、トッカータと題された第1楽章でその感を強くする。興味深いのはパッサカリアで書かれた第3楽章だ。この楽章は当初「叙唱とアリア」と題された音楽だったが、1945年の改訂時に今の音楽(「即興曲」と題されている)に差し替えられたそうだ(等松春夫氏のプログラムノーツ)。
パッサカリアというと「ピーター・グライムズ」の間奏曲を思い出す。まさにこの楽章は「ピーター・グライムズ」の世界につながっている気がする。沈鬱な渋い音楽だ。
ピアノ独奏はスティーヴン・オズボーン。歯切れのいいリズムで、乗りに乗った演奏だった。この曲にのめり込んでいることを自ら誇るような、やる気満々の演奏だった。アンコールには一転して小声で呟くようなドビュッシーの「カノープ」。
3曲目はウォルトンの交響曲第2番(1957~60)。考えてみると、少なくともわたしの場合は、ウォルトンといっても「ベルシャザールの饗宴」(1931)や交響曲第1番(1933~35)の頃しか知らないと、あらためて気付かされる。ウォルトンはどういう生涯をたどったのかさえ知らないことに愕然とする。
情緒的に聴くことができる第1番とちがって、第2番は職人芸のオーケストラ書法を楽しむ作品だ。ブラビンズ/都響の確かな造形力が見事だった。この作品の真の姿を余すところなく伝えたと思う。
(2014.10.20.サントリーホール)