トーマス・アデス(1971‐)の3作目のオペラ「皆殺しの天使」は、ザルツブルク音楽祭、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、コペンハーゲンのデンマーク王立歌劇場の共同委嘱作品。2016年のザルツブルク音楽祭で世界初演され、わたしはそれを観に行った。
そのときは事前に、原作の映画、ルイス・ブニュエル監督(1900‐1983)の同名作(1962)を観ておいたので、オペラのストーリーを追うのは困難ではなかった。音楽も、前作「テンペスト」(2004)をフランクフルト歌劇場で2度、METライブビューイングで1度観たことがあるせいか、自分なりに追うことができた。
今回、METライブビューイングで本作を観て、さすがに2度目なので、気持ちに余裕があった。やはり、なんといっても、初めて観たときは、その全体像を把握することに追われていたようだ。
興味深い点が2点あった。一つは音楽が、前作の「テンペスト」とまっすぐにつながっているように感じられたこと。第1作の「パウダー・ハー・フェイス」(1995)は少し異質だが、次の「テンペスト」でアデスのオペラ語法が確立し、本作ではその延長線上に、新たな挑戦を試みているように思われた。
新たな挑戦とは、多声部のアンサンブル。本作では主要な登場人物が15人もいて、その数だけでも異例だが、さらに類例のない点は、それらの登場人物が常に全員(!)舞台にいること。誇張していえば、いつでも好きなときに、多声部のアンサンブルを書くことができる。そのとき、アデスの念頭には、ベルクのオペラ「ルル」の第3幕第1場(パリの場)での大アンサンブルがあったのでは‥と感じられてならない。
もう1点は、題材の選択。本作が、多声部のアンサンブルを任意に書くことができる稀有な題材であることは、今述べたとおりだが、一方、「テンペスト」も、シェイクスピアの全作品中、不思議な音楽に満ちている稀有な作品なので、それを実際の音にする“野心”が刺激されたのではないか。
このようにアデスは、一作ごとに明確な目的意識を持って、高いハードルを設定し、それを乗り越えることを自分に課しているように見える。そのような挑戦が、エンタテイメント性と同居している点が、アデスの強みかもしれない。
では、次のオペラはどうなるのだろうと、期待が高まった。
(2018.2.1.新宿ピカデリー)
そのときは事前に、原作の映画、ルイス・ブニュエル監督(1900‐1983)の同名作(1962)を観ておいたので、オペラのストーリーを追うのは困難ではなかった。音楽も、前作「テンペスト」(2004)をフランクフルト歌劇場で2度、METライブビューイングで1度観たことがあるせいか、自分なりに追うことができた。
今回、METライブビューイングで本作を観て、さすがに2度目なので、気持ちに余裕があった。やはり、なんといっても、初めて観たときは、その全体像を把握することに追われていたようだ。
興味深い点が2点あった。一つは音楽が、前作の「テンペスト」とまっすぐにつながっているように感じられたこと。第1作の「パウダー・ハー・フェイス」(1995)は少し異質だが、次の「テンペスト」でアデスのオペラ語法が確立し、本作ではその延長線上に、新たな挑戦を試みているように思われた。
新たな挑戦とは、多声部のアンサンブル。本作では主要な登場人物が15人もいて、その数だけでも異例だが、さらに類例のない点は、それらの登場人物が常に全員(!)舞台にいること。誇張していえば、いつでも好きなときに、多声部のアンサンブルを書くことができる。そのとき、アデスの念頭には、ベルクのオペラ「ルル」の第3幕第1場(パリの場)での大アンサンブルがあったのでは‥と感じられてならない。
もう1点は、題材の選択。本作が、多声部のアンサンブルを任意に書くことができる稀有な題材であることは、今述べたとおりだが、一方、「テンペスト」も、シェイクスピアの全作品中、不思議な音楽に満ちている稀有な作品なので、それを実際の音にする“野心”が刺激されたのではないか。
このようにアデスは、一作ごとに明確な目的意識を持って、高いハードルを設定し、それを乗り越えることを自分に課しているように見える。そのような挑戦が、エンタテイメント性と同居している点が、アデスの強みかもしれない。
では、次のオペラはどうなるのだろうと、期待が高まった。
(2018.2.1.新宿ピカデリー)