熊谷守一(1880‐1977)の絵は前から好きだった。たまに何かの展覧会で見かけると、いい絵だな、と思っていた。いったいどこからこういう絵が生まれてくるのだろう、と。そんな疑問に答えてくれるのが、没後40年の「熊谷守一 生きるよろこび」展。
熊谷守一は、東京美術学校(現東京藝術大学)で学んだ直後は、暗い絵を描いていた。“暗い”というのは比喩ではなく、本当に暗い夜の絵。それは光と闇の研究のため、という解説が掲示されていたが、それはそうだとして、わたしはどうしても、心の闇を抱えていたのでは、と勘ぐりたくなる。そう考えたほうが、後年の、明るく、影のない絵との対比が鮮やかになるから。
余談だが、同校の同級生に青木繁(1882‐1911)がいた。また、「海ゆかば」の作曲家、信時潔(1887‐1965)は親友だった(本展には一枚の葉書に二人で半分ずつ書いたものが展示されている)。熊谷守一がどんな時代を生きていたか、想像がつく気がする。
さて、熊谷守一の後年の画風は、いつ頃、どのように生まれてきたのか。その点についても、本展は丁寧にたどっている。それは、熊谷守一の特徴の一つ、赤い輪郭線の誕生と発展をたどるかたちで。誕生の時期だけを記すと、1936年の「夜の裸」に最初期の作例が見られるそうだ。
では、形態の単純化はどうか。その点については、明確な指摘はなかったが、1940‐41年の「船津」にはその萌芽が見られる。正確を期すためには、研究者の論文を俟たなければならないが、一応、赤い輪郭線と同時期だった、と考えてよいのではないか。
熊谷守一の(お馴染みの)後年の画風は、戦後になって一気に開花した。解説を読むと、戦後もさまざまな工夫を重ねていたようだが、それは様式が確立した上でのこと。肝心の様式には一切の迷いがないように見える。その結果、明るく、力まず、脱俗的で、ユーモアのある絵が生まれた。
だが、意外なことに、熊谷守一は西洋の絵画を参照していた可能性があるそうだ。たとえば代表作の一つ、「稚魚」(1958年)はアンリ・マティスの代表作の一つ「ダンス」(1909‐10)を参照している可能性があるとのこと。いわれてみると、たしかにそうかもしれない、と頷けるところがある。
その面からの熊谷守一の研究は、これからなのだろうか。興味深いテーマだと思う。
(2018.2.7.東京国立近代美術館)
(※)本展のHP
熊谷守一は、東京美術学校(現東京藝術大学)で学んだ直後は、暗い絵を描いていた。“暗い”というのは比喩ではなく、本当に暗い夜の絵。それは光と闇の研究のため、という解説が掲示されていたが、それはそうだとして、わたしはどうしても、心の闇を抱えていたのでは、と勘ぐりたくなる。そう考えたほうが、後年の、明るく、影のない絵との対比が鮮やかになるから。
余談だが、同校の同級生に青木繁(1882‐1911)がいた。また、「海ゆかば」の作曲家、信時潔(1887‐1965)は親友だった(本展には一枚の葉書に二人で半分ずつ書いたものが展示されている)。熊谷守一がどんな時代を生きていたか、想像がつく気がする。
さて、熊谷守一の後年の画風は、いつ頃、どのように生まれてきたのか。その点についても、本展は丁寧にたどっている。それは、熊谷守一の特徴の一つ、赤い輪郭線の誕生と発展をたどるかたちで。誕生の時期だけを記すと、1936年の「夜の裸」に最初期の作例が見られるそうだ。
では、形態の単純化はどうか。その点については、明確な指摘はなかったが、1940‐41年の「船津」にはその萌芽が見られる。正確を期すためには、研究者の論文を俟たなければならないが、一応、赤い輪郭線と同時期だった、と考えてよいのではないか。
熊谷守一の(お馴染みの)後年の画風は、戦後になって一気に開花した。解説を読むと、戦後もさまざまな工夫を重ねていたようだが、それは様式が確立した上でのこと。肝心の様式には一切の迷いがないように見える。その結果、明るく、力まず、脱俗的で、ユーモアのある絵が生まれた。
だが、意外なことに、熊谷守一は西洋の絵画を参照していた可能性があるそうだ。たとえば代表作の一つ、「稚魚」(1958年)はアンリ・マティスの代表作の一つ「ダンス」(1909‐10)を参照している可能性があるとのこと。いわれてみると、たしかにそうかもしれない、と頷けるところがある。
その面からの熊谷守一の研究は、これからなのだろうか。興味深いテーマだと思う。
(2018.2.7.東京国立近代美術館)
(※)本展のHP