高関健指揮東京シティ・フィルのストラヴィンスキー&武満徹プロ。1曲目はストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」。ステージ上のオーケストラを見て改めて驚いた。弦楽器がヴァイオリンとヴィオラを欠き、チェロとコントラバスだけなのは承知しているが、驚いたのは管楽器の多さだ。詳述は避けるが、木管、金管各パート4~5人ずつ。それにピアノが2台入るので、これはコストのかかる曲だ、というのが実感。
高関健のプレトークで、木管はクラリネットを欠くことが指摘された。ステージ上のオーケストラを見て、なるほど、そうだったかと納得した。わたしは今までこの曲の(多少語弊があるかもしれないが)空虚なひびきは、ヴァイオリンとヴィオラを欠くことからきていると思っていたが、それに加えて、クラリネットを欠くことも要因だった。
久しぶりに聴くこの曲の実演は興味深かったが、演奏は合唱(とくに男声)が頼りなく、楽しめなかった。
2曲目は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」。これも実演を聴くのは久しぶりだが、久しぶりに聴いて、音の美しさに魅せられた。薄いヴェールを透かして光が射し込んでくるような音だ。こんなにきれいな音だったのか、と。音だけではなく、音の流れも、後年の武満を彷彿とさせるような曲線を描く。昔はもっと寡黙な演奏だった。後年の武満を知った時代の演奏だと思った。
3曲目はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1947年版)。前2曲は特殊編成だったが、この曲でフル編成になり、かつ前2曲は沈んだ曲想だったが、この曲で明るく活気にあふれた曲想になったので、その解放感が目覚ましかった。
最初から最後まで覚えてしまっているような曲だが、できあがった完成品としてのCDで聴くのと、実演を聴くのとでは、スリルが違うと実感した。頻出する変拍子とポリリズム、それに喰らいつく楽員たち、リスクを恐れずに演奏を導く指揮者、それらの実演ならではのおもしろさに息を詰めた。
オーケストラの明るく、張りのある音が印象的だった。10月の定期で演奏したレスピーギの「ローマの松」もそういう音だった。飯守泰次郎時代、そしてその次の某音楽監督時代にはなかった音だ。高関健の成果の表れだろう。
フルートとクラリネットの首席奏者が海外研修中だが、代役の奏者が表情たっぷりの演奏をした。トランペットの首席奏者も頑張った。拍手。
(2018.11.16.東京オペラシティ)
高関健のプレトークで、木管はクラリネットを欠くことが指摘された。ステージ上のオーケストラを見て、なるほど、そうだったかと納得した。わたしは今までこの曲の(多少語弊があるかもしれないが)空虚なひびきは、ヴァイオリンとヴィオラを欠くことからきていると思っていたが、それに加えて、クラリネットを欠くことも要因だった。
久しぶりに聴くこの曲の実演は興味深かったが、演奏は合唱(とくに男声)が頼りなく、楽しめなかった。
2曲目は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」。これも実演を聴くのは久しぶりだが、久しぶりに聴いて、音の美しさに魅せられた。薄いヴェールを透かして光が射し込んでくるような音だ。こんなにきれいな音だったのか、と。音だけではなく、音の流れも、後年の武満を彷彿とさせるような曲線を描く。昔はもっと寡黙な演奏だった。後年の武満を知った時代の演奏だと思った。
3曲目はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1947年版)。前2曲は特殊編成だったが、この曲でフル編成になり、かつ前2曲は沈んだ曲想だったが、この曲で明るく活気にあふれた曲想になったので、その解放感が目覚ましかった。
最初から最後まで覚えてしまっているような曲だが、できあがった完成品としてのCDで聴くのと、実演を聴くのとでは、スリルが違うと実感した。頻出する変拍子とポリリズム、それに喰らいつく楽員たち、リスクを恐れずに演奏を導く指揮者、それらの実演ならではのおもしろさに息を詰めた。
オーケストラの明るく、張りのある音が印象的だった。10月の定期で演奏したレスピーギの「ローマの松」もそういう音だった。飯守泰次郎時代、そしてその次の某音楽監督時代にはなかった音だ。高関健の成果の表れだろう。
フルートとクラリネットの首席奏者が海外研修中だが、代役の奏者が表情たっぷりの演奏をした。トランペットの首席奏者も頑張った。拍手。
(2018.11.16.東京オペラシティ)