ジョルジュ・ルオーは、東京の汐留ミュージアムにまとまったコレクションがあるので、首都圏在住の者には身近な画家だ。同ミュージアムは今、開館15周年を記念して「ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ」展を開催している。
ルオーは1871年にパリで生まれ、1958年に同地で亡くなった。生涯の中で第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方を経験した。その悲惨な経験が作品に現れないわけがない、と思って本展を見ると、戦争の直接的な痕跡が銅版画集「ミセレーレ」に見てとれた。
ミセレーレとは、いうまでもなく、主イエス・キリストへの「憐れみたまえ」という訴えだが、その題名をもつ本作は、58点の銅版画で構成されている。それらの銅版画が制作されたのは、1912年から1927年にかけての15年間だった(ただし、出版されたのは1948年と遅かった)。
その制作期間には第一次世界大戦がすっぽり収まるので、本作の中には直接的に戦争の悲惨さを表現する銅版画が含まれている。戦争の悲惨さは宗教的な感情をともない、黒いモノトーンの銅版画に昇華されている。
一方、第二次世界大戦のほうは、本展では直接的な表現がみつからなかった。ルオーは第二次世界大戦中も制作を止めたわけではないが、その作品は宗教的な題材に向かった。というよりも、すでに宗教的な題材しか扱わなくなっていたルオーは、その宗教的な題材の中で戦争の苦しみに耐えた、といったほうがよさそうだ。
ルオーは戦後も制作を続け、代表作の数々を生んだ。その一部は汐留ミュージアムのコレクションに収められているが、本展ではヴァチカン美術館とパリのポンピドゥー・センターからも出品され、同ミュージアムのコレクションを補強している。
それらの出品作と並べて展示されると、今まで「点」として見えていた同ミュージアムの作品が、横のつながりの中で見えてきた。たとえば「秋の夜景」(1952年、汐留ミュージアム)を「キリスト教的夜景」(同年、ポンピドゥー・センター)と並べると、作品個々の美しさはもちろんだが、当時のルオーの境地が浮かび上がるように感じた。
同2点をふくむルオー晩年の聖書の風景を描いた作品は、安らぎに満ちている。戦争の悲惨さも、人間の愚かさも、虐げられた人々も、それらすべてを見てきたルオーが、晩年に達した穏やかな境地に、わたしは包まれた。
(2018.11.8.汐留ミュージアム)
(※)本展のHP
ルオーは1871年にパリで生まれ、1958年に同地で亡くなった。生涯の中で第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方を経験した。その悲惨な経験が作品に現れないわけがない、と思って本展を見ると、戦争の直接的な痕跡が銅版画集「ミセレーレ」に見てとれた。
ミセレーレとは、いうまでもなく、主イエス・キリストへの「憐れみたまえ」という訴えだが、その題名をもつ本作は、58点の銅版画で構成されている。それらの銅版画が制作されたのは、1912年から1927年にかけての15年間だった(ただし、出版されたのは1948年と遅かった)。
その制作期間には第一次世界大戦がすっぽり収まるので、本作の中には直接的に戦争の悲惨さを表現する銅版画が含まれている。戦争の悲惨さは宗教的な感情をともない、黒いモノトーンの銅版画に昇華されている。
一方、第二次世界大戦のほうは、本展では直接的な表現がみつからなかった。ルオーは第二次世界大戦中も制作を止めたわけではないが、その作品は宗教的な題材に向かった。というよりも、すでに宗教的な題材しか扱わなくなっていたルオーは、その宗教的な題材の中で戦争の苦しみに耐えた、といったほうがよさそうだ。
ルオーは戦後も制作を続け、代表作の数々を生んだ。その一部は汐留ミュージアムのコレクションに収められているが、本展ではヴァチカン美術館とパリのポンピドゥー・センターからも出品され、同ミュージアムのコレクションを補強している。
それらの出品作と並べて展示されると、今まで「点」として見えていた同ミュージアムの作品が、横のつながりの中で見えてきた。たとえば「秋の夜景」(1952年、汐留ミュージアム)を「キリスト教的夜景」(同年、ポンピドゥー・センター)と並べると、作品個々の美しさはもちろんだが、当時のルオーの境地が浮かび上がるように感じた。
同2点をふくむルオー晩年の聖書の風景を描いた作品は、安らぎに満ちている。戦争の悲惨さも、人間の愚かさも、虐げられた人々も、それらすべてを見てきたルオーが、晩年に達した穏やかな境地に、わたしは包まれた。
(2018.11.8.汐留ミュージアム)
(※)本展のHP