Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

誰もいない国

2018年11月15日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門は、本年9月から小川絵梨子体制がスタートしたが、その第2弾はハロルド・ピンター(1930‐2008)の「誰もいない国」(1974)。不条理劇といわれる作品だが、そういえば、第1弾のアルベール・カミュ(1913‐1960)の「誤解」(1944)もそうだった。不条理劇が2作続いた。

 でも、同じ不条理劇といっても、その2作はずいぶん違う。不条理劇という概念の広さのせいかもしれないが、わたしのような不勉強者には、概念そのものの輪郭がぼやけて、よくわからなくなる。

 では、その2作のどこが違うのかというと、端的にいって、「誤解」にはカタストロフィがあったが、「誰もいない国」にはカタストロフィがないことが大きく違う。どちらがよいとか、悪いとか、そういう問題ではなくて、カタストロフィがあるか、ないかで、作品の性格が異なってくる。

 「誤解」の場合には、ある悲劇が起きた。登場人物たちの生活はそれですっかり変わり、もう逆戻りできないだろう。一方、「誰もいない国」では、そのような事件は起きない。登場人物たちの生活は大して変わらずに、ゆるゆる続くだろう。どちらがわたしたちの実生活に近いかは一概にはいえない。

 不条理劇という概念でいうと、仮にサミュエル・ベケット(1906‐1989)の「ゴドーを待ちながら」(1952)を座標軸に据えるなら、「誤解」よりも「誰もいない国」のほうが座標軸に近いといえる。

 「誰もいない国」のあらすじは、時は現代(初演当時)、所はロンドン。初老の作家ハーストが、散歩中に出会った同年輩の男スプーナーを連れて屋敷に戻る。ホームバーからそれぞれ好きな酒を取り出して飲む。スプーナーは金持ちのハーストに取り入ろうとしている。そのうちハーストの同居人、中年男のブリグズと青年のフォスターが現れる。4人の会話が続く。その会話はどれが事実で、どれが嘘か、見分けがつかない。

 そう書くと、いかにも不条理劇だが、舞台を観ると、今の日本の高齢化社会が重なって見えてきて、認知症が始まった独居老人と、それに群がる男たちの話のように思える。それはピンターの本意ではないだろう、と思いながら‥。

 ハースト役の柄本明はさすがの存在感。フォスター役の平埜生成はゲイ(正確にはバイセクシュアル)の妖しい魅力を漂わせた。
(2018.10.14.新国立劇場小劇場)
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